読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

あなたはどうしてそう思うのですか?

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(10)

第4章 疑いの泥沼からどう抜け出すか 第4節 文脈主義の考え方 の続きである。

私たちが日常的によく抱く「疑い」がある。

もう一つ、科学との関連ではヒューム流の懐疑主義というものがある。これは、今までうまくいってきた法則や規則性がこれから観察するもの、これから起きることにもそのままあてはまると期待する理由は何もないのではないか、という疑いである。これまで見つかったカラスが全て黒かったからといって、次に見つかるカラスが白くないという保証は何もない。物理法則だって、もしかしたら特殊な状況下でしか成り立たない法則を一般的なものだと勘違いしているかもしれない。もっと極端な想像を働かせれば、物理法則も一定期間ごとに変わるような性格のものなのかもしれない。

「これまでがそうだったからといって、これからもそうだとは限らない」、「今まで地震が起こらなかったからといって、今後も起こらないとは言えないでしょう」、「これまではそのルールで良かったかもしれないが、状況が変われば、そのルールも変えなきゃいけないでしょう」…

「今までうまくいってきた法則や規則性がこれから観察するもの、これから起きることにもそのままあてはまると期待する理由は何もない」、この主張をヒューム流の懐疑主義と呼ぶ。これは説得のツールとして有効である(しかし、説得されるほうは、何かもやもやしたものが残るだろう)。

ではこのヒューム流の懐疑主義への反論を考えてみよう。こんなのはどうだろうか。「今までうまくいってきた法則や規則性は、同様の事例(これから観察するもの、これから起きること)に対しては、今までうまくいってきたが故に、これからもうまくいくと期待してよい」。これは「これからもうまくいく」とは断言していない。その意味ではヒューム流の懐疑主義を完全否定していない。この穏当な主張に対する反論は、「これからはうまくいかないかもしれないという論拠」を示すことだろう。そうすれば議論が進む。

 

このヒューム流の疑いも、例えばその法則を支持する証拠がまだあまり集まっていない状況であったり、証拠が偏っていたりという文脈においては関連する対抗仮説となりうる。しかし、一般論としては科学においてこの疑いを排除することは求められないし、デーモン仮説と同じくこの疑いを排除するのは原理的に不可能だとされている。実際、もしこの懐疑主義を認めると、第5章で出てくる確率的推論はすべて根拠がないことになってしまう。

ヒューム流の懐疑主義が「一般論」として主張されている限りは、まともに取り合う必要はないだろう。しかし、(通説に反するかもしれないが)「根拠」をもって主張されるならば、その根拠を吟味しなければならない。

 

では、ある対抗仮説が関連するかどうかの判断はどうやってやればよいのだろうか。この問題についてのスタンダードな答えは「特定理由の要件」といって、その対抗仮説が正しいのではないかと考えるはっきりした理由がある場合にのみ対抗仮説は関連性を持つ、とするものである。この考え方はかなり有望ではあるが、例えば夕立の例では、誰かが水を撒いたのではないかと疑うはっきりした理由がなければその可能性を考慮する必要はないということになる。

ここでちょっと「関連する対抗仮説」について復習。(毛な疑い? 関連する対抗仮説型の文脈主義とは 参照)

ある人がある主張をする。それに対して反論する(対抗した仮説を提示する)。しかしその仮説がデーモン仮説のように「どうでも良い仮説」なら、まじめに取り上げる必要はない。しかし、「まじめに取り上げる必要のある仮説」ならば、それは「関連する対抗仮説」と言って良い。

そこで、「ある対抗仮説が関連するかどうか」をどうやって判別するかという問いが出てくる。伊勢田の答えは「その対抗仮説が正しいのではないか、と考えるはっきりした理由がある場合にのみ、対抗仮説は関連性を持つ」(特定理由の要件)というものである。この答えは、私が先に、「(通説に反するかもしれないが)「根拠」をもって主張されるならば、その根拠を吟味しなければならない」と言ったことと同じだろう。

伊勢田は、この考え方に対して夕立の例をあげて、「誰かが水を撒いたのではないかと疑うはっきりした理由がなければその可能性を考慮する必要はないということになる」と言って、やや否定的な印象を受けるが、そうではないだろう。「誰かが水を撒いたのではないか」と主張する者は、ふつう何らかの理由(根拠)があって主張するのである。その理由(根拠)が「はっきりした」ものであるかどうかは、よく話し合ってみなければ分からないやや漠然としたものであっても、何らかの根拠が示されるならば、「まじめに取り上げる必要のある仮説」すなわち「関連する対抗仮説」の資格を持つとしても良いのではないか。それは専門家からみれば、取るに足らない(とっくに葬り去られた)根拠であるとしても、「丁寧に」説明しなければ、専門家の驕慢というものだろう。

f:id:shoyo3:20170226092057j:plain

http://3.bp.blogspot.com/-67y00NBIROk/T-xp-jFVEvI/AAAAAAAAAGo/Hczab0S0ugo/s640/Screen+shot+2012-06-28+at+10.27.44+AM.png

 

「基準の上下」型の文脈主義

文脈主義について復習。

文脈主義とは、あることを知っているかどうか、ある主張が妥当かどうか、といったことについての判定は、その判定を下す文脈(何のために判定するのか、判定が間違っていた時はどうなるのか等)によって変わりうる、という立場である。言い換えれば、同じ人の同じ主張が、判定を下す側の文脈で妥当とも妥当でもないとも判断できる、と言う可能性を認めるのが文脈主義である。

 前回記事で引用誤りがあったので、訂正します。

(誤)同じ人の同じ主張が、判定を下す側で妥当とも妥当でもないとも判断でできる、と言う可能性を認めるのが文脈主義である。

(正)同じ人の同じ主張が、判定を下す側の文脈で妥当とも妥当でもないとも判断できる、という可能性を認めるのが文脈主義である

 

文脈主義の一つのタイプが「関連する対抗仮説」型の文脈主義(前回)、もう一つのタイプが「基準の上下」型の文脈主義である(今回)。

この考え方によると、デカルトは「目の前に紙切れがある」という主張が100%正しいことを要求したため、デーモン仮説などと取り組まなくてはならなくなった。しかし、多くの問題についてはその意味での100%の確実性は求められていない。そこで例えば、日常生活なら70%、普通の科学であれば95%、厳密な分野では99%、人命にかかわることであれば99.999%確実であればOK、といった具合に、要求される確実さのレベルを文脈によって上げ下げし、それに見合った証拠が得られればその主張を妥当なものとみなす、というのが「基準の上下」型の文脈主義の考え方である。

 日常生活で100%の確実性を求める人など誰もいない。それは科学でも同じである。科学が100%確実だなどとは誰も主張しないだろう。何を問題にしているかによって、求められる確実性を変化させる、というのは有用な考え方である。但し、いかなる問題に、いかなる程度の確実性が必要なのかは予め決まっているわけではない。人命に関わることは「99.999%」の確実性を要するといったところで、なぜ、99.99%ではダメで、99.9999%は過剰な要求かは、誰にも答えられない。それは「決め事」である(もちろん確率の算定自体問題である)。…しかし、話をここで終わらすべきではない。例えば、(人命に関わる)交通システムをどうするかといったような問題を考える場合には、交通事故統計が有益な参考資料となる。

 

この考え方は、例えば飛行機を飛ばす前に、故障しているのではないかと疑う特定の理由がなくとももう一度チェックするまではゴーサインを出さない、というルールについて考えるうえでは非常に役に立つ。「特定理由の要件」の考え方ではなぜもう一度チェックするのか説明できないし、100%の確実性を求める立場からは、何十回チェックしたところで見落としの確率はゼロには決してならないのだからゴーサインは永遠に出せないだろう。

自動車の車検の有効期間は2年と定められている。「故障しているのではないかと疑う特定の理由がなくとも」車検を受けなければならない。なぜか。伊勢田はこれを「要求される確実性」の問題にしているが、これを「特定理由の要件」で説明できないか。自動車の所有者(利用者)が、故障しているのではないかと疑っていなくても、部品寿命等が統計的に知られていて、走行距離等から判断して部品劣化により故障し、車両事故につながる可能性が大きいとするならば、そのような情報を保有しているメーカー・車検業者にとっては「部品劣化→故障の可能性を疑う特定の理由」(根拠)があるといえる。…伊勢田のいう確実性とは、この「故障の可能性」のことだろうか。そうすると、例えば検査項目と有効期間を部品ごとに定めるのが合理的ということになるのかもしれない。

 

また、ある主張が科学的事実として確立されているかどうかという判断基準も、多くの人のチェックや批判をくぐり抜けてきている以上、間違っている確率が非常に低い、という趣旨の判断基準だと理解することができる。

「ある主張が科学的事実として確立されているかどうかという判断基準も、多くの人[当該分野の専門家]のチェックや批判をくぐり抜けてきている以上、間違っている確率が非常に低い」という主張は、果たしてどうだろうか。私は、当該分野の専門家でなければ、この主張を受け入れるのが妥当であろうと思う。しかし、当該分野の専門家であれば、この主張を受け入れることはできない。ある主張が科学的事実として妥当かどうかは多数決で決めるようなものではない。その主張の根拠が妥当であるか否かを問わねばならない。その妥当性の議論を避けて一方的に主張する者が多数を占めても、その主張は受け入れられないだろう。

では全くの素人でも、専門家でもない者(いわゆる教養ないし知性ある人)はどういう態度をとるべきか。それは専門家の主張をよく聞き、その根拠を吟味することであろう。分からなければ質問し、専門家はそれに対して答えるべきである*1

 

但し、デーモン仮説を扱う上ではこのタイプ[基準の上下型]の文脈主義は問題がある。それというのも、我々の世界が我々が思っている通りの世界であるか、デーモンに見せられている幻なのか、どうやってそれぞれの確率を見積もったらいいのか全く手掛かりがないのである。結局は、「デーモン仮説は信じがたい」という、我々の主観だけが頼りになる。

デーモン仮説は、「当該問題に関連しない仮説」として、「まじめに取り上げる必要がない」。基準の上下型の文脈主義は、「まじめに取り上げる必要のある仮説」に対して適用すれば良いだろう。

 

伊勢田は、次に文脈主義の考え方をどのよう使えばいいのか説明しているのだが、これは次回にまわそう。

*1:このようなQ&Aの場は、ネット上いろいろな形で存在しているようだが、もう少しオーソライズされた形にならないかなと感じている。