浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

通訳はいつも裏切り者である(ストラヴィンスキー)

 岡田暁生『音楽の聴き方』(17) 

今回から、第4章 音楽はポータブルか?-複文化の中で音楽を聴く に入る。

再生技術史としての音楽史

世界の他のどんな文化にも見られない西洋音楽の特質の一つに、それが「再生技術」の開発に全力を傾注し、それをモーターとして1000年以上にわたって発展してきたという点が挙げられる。このことはグレゴリオ聖歌以来の西洋音楽キリスト教の密接な結びつきと、深く関わっていたのだろう。聖なる歌はいつでもどこでも同じように歌われねばならない勝手な歌い方をして、土着の異教徒の歌と混ざり合ってはいけない。神の声は世界の津々浦々まで、「正しい形で」伝承されなければならないのである。生まれた瞬間に消えていく音楽というはかない芸術を、固定し複製可能なものにしようとしてきた点で、西洋の音楽は極めて特異な性格をもっていた。

 岡田は、「再生技術開発史」としての西洋音楽の歴史を三段階に分ける。

 第一段階:五線譜の開発

 第二段階:音楽院の創設(学校教育)

 第三段階:レコードの隆盛

私は「再生技術」と言えば、レコードやCDの再生のことかと思っていたのだが、全くの思い違いだった。何も再生装置には限らない。再生には、1000年以上前の「聖歌」以来の歴史がある! *1

 

第一段階:五線譜の開発

これは音響の数値化の歴史であったとも言える。音高/音価をそれぞれ縦軸/横軸とする、音空間の設計図の開発史である。

 「音響」は、「聖歌」のように、同じものとして再現(再生)されなければならない。そのため、楽譜において、「ノイズ」や「揺れ」は排除される。それは「音響」の抽象(=捨象)である。(なお、岡田は音空間の「設計図」と言っているが、ちょっと違和感*2がある)。

ここで五線譜とは、どういうものか補足的に理解しておこう。

五線と音符よりなる記譜法。音楽を記録するため、5本1組の水平線からなる譜表上に音符を記入し、横軸は時間の経過を示し、縦軸は線と音符の位置関係から音高を、音符や休符の形態から音価を決定する。…音高や音価以外の強弱、発想*3、演奏法などについてはさまざまな演奏記号を用いて補う。近年、五線譜による非西洋音楽の採譜や訳譜が盛んであるが、この場合、微分音程*4や拍の伸び縮みの表示など多くの問題点をもつ。結局、五線譜も他の記譜法同様、特定の音楽様式と不可分な存在であり、けっして万能な音楽記譜法*5ではない。(山口修、日本大百科全書

 

 岡田は、五線譜に抽象化されないもの(捨象されたもの)に注目している。

五線譜として合理化された部分は他人でも再生できるが、それ以外の部分は生身の人間の身体から決して分離させることが出来ない。例えばショパンノクターンマズルカが彼自身によっていったいどのように弾かれていたか。それこそがこれらの曲に生命を吹き込んでいただろう、ショパンによる演奏の繊細きわまりないテンポの揺れが、どのようなものであったか。いくら楽譜を眺めていてもそれは分からない。五線譜に収まっている音は何とか再生が可能であるが、そこにはまりきらないニュアンスにこそ宿っていたショパンの「芸」は、彼の死とともに永遠に失われてしまった

五線譜に収まりきらないニュアンスは作曲家の死と共に死ぬ。(私は、ここでふと思うのだが、「言動」に微妙に表れる、あるいは現れないニュアンスは、その人の死とともに死ぬ)。

 

第二段階:音楽院の創設(学校教育)

 数値化不能の「生身の身体にへばりついている部分」まで含め、音楽をほとんどそのまま伝承する確実なやり方は、日本の伝統芸能のような厳格な徒弟制度を通して、身体コピーを作る方法だろう。楽譜に記せない部分(それは多くの場合、身体的要素であるわけだが)まで含めて、曲の弾き方を完全に身体に理解している人間を育てるのである。(P139)

19世紀に入って「永遠の名作」という概念が音楽においても広まり始め、作曲家の地位も向上して、彼らが「作者の意図」について強く主張するようになるとともに、「作品を後世にいかに正しい形で残すか」という問題が切実になってくる。そこで重要な役割を果たすようになるのが、19世紀に入って生まれた近代の音楽院である。とりわけ重要なのが、メンデルスゾーンシューマンによって創設されたライプチヒ音楽院(1843年設立)…フンボルトの教養教育の理念に強く影響を受けていたこの学校は、美学や音楽理論や歴史を重視し、バッハ以来のドイツ音楽の理念を正しく受け継ぐことを使命としていた。それは過去の偉大な音楽を、その精神まで含めて正しく継承し、再現することが出来る身体を複製する機関だったとも言える

自分の意図を託する他者の身体を、作曲家自ら作り上げることもあった。…ベ-ト-ヴェンとツェルニー、リスト。シューマンとクララ。…マーラーやシェーンベルグも作品の意図を正しく理解している子飼いの演奏家に育成に全力をあげた。こうした19世紀の作曲家における楽派への情熱が、西洋音楽における「再生技術史」の第二段階と考えられるだろう。

「精神を継承する身体を複製する機関」の連想で、日本仏教の宗教音楽「声明(しょうみょう)」を聴いてみよう。

平安仏教の響き 法楽太鼓・声明中曲

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https://www.youtube.com/watch?v=XgA5MM8fQHk

  

声明とは、(新井弘順インタビュー、千年の時空を超えて劇場で親しまれる仏教音楽「声明」の世界より)

「声明」は、お経に節がついたもので、仏教寺院で僧侶が儀式の時に唱える男性コーラスです。仏さまの教えを讃歎する仏教の聖歌です。仏教とともにインドで生まれ、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わりました。日本に仏教が伝来したのは6世紀ですが、声明については、752年に東大寺大仏開眼供養の大法要が行なわれた際に、国中から約1万人のお坊さんが集まり、420人で声明を披露したという記録が古文書に記されています。…声明が一番発達したのは平安時代の末から鎌倉時代にかけてです。この時代に声明の音楽理論、記譜法、楽譜集、教授法などが整備されました。1472年には声明の楽譜集『文明4年版声明集』が高野山で出版され、これが現存する世界最古の印刷された楽譜集と言われています。この印刷楽譜によって声明も全国に普及しました。ちなみにグレゴリアン聖歌の印刷楽譜は1473年の出版ですから、一年早かった(笑)。このように、音楽史といえば皆さんはすぐ西洋音楽と思いがちですが、日本には世界の音楽史上大変貴重な文献がたくさん残っています。

声明はお師匠さんから教わる口頭伝承が基本ですが、合唱の訓練はしますか?… 各本山の専修学院で声明の授業が行われていますが、基本的には毎朝のお勤めや法要などを通して自然に耳で聴いて、唱え合わせることを覚えていくのです。大切なのはいつもお互いに声明の響きを聴きあっていることで、特別に訓練するというより、日常生活の中で自然に身につけていくものだと思います。もちろん難しい曲はお師匠さんのところに行って習いますが、基本的な曲はそうやって聴きながら知らず知らずのうちに覚えていく。そうすると不思議なもので高野山の声、比叡山の声、我々長谷寺の声と声がみんな違ってくるのです。お山の集団生活の中で、毎朝唱えることを数百年続けてきたことでそれぞれのお山の独特の声明が出来上がってきました。祈る場所や音の環境と声明には密接な関係があるように思います。(www.performingarts.jp/J/art_interview/0705/1.html

 

第三段階:レコードの隆盛

再生技術開発の第三段階は、言うまでもなく20世紀におけるレコードの隆盛である。…音響の身体遊離を可能にするレコードの登場を、当然ながら多くの作曲家は福音と受け止めた。身体にへばりついていて、どうにも客観化/ポータブル化が難しい部分まで含め、音楽をそっくりそのまま人の死後まで残せるのだ。楽譜に記せない部分の伝承は、これによって飛躍的に容易になった。

こうした録音メディアに熱中した20世紀作曲家の代表格が、ストラヴィンスキーである。まず1910年代に彼は、自らの監督の下で、自分のすべての作品を自動ピアノに残すことを考えた。この計画は頓挫したものの、戦後になってからストラヴィンスキーは、CBSに自作のほぼすべてを録音することになる。

 

自動ピアノに、ロボットを配した次の動画が面白い。

演奏ロボット

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とにかくストラヴィンスキーは、自分と聴衆の間に割り込んでくる「演奏家」という仲介者が大嫌いで、完璧な「再現」(つまり主観が入ってくる「解釈」ではない)を追求してやまなかった。彼もまた、ロバート・クラフトやイーゴル・マルケヴィッチやエルネスト・アンセルメといった有能な指揮者を子飼いにしており、ワーグナーマーラーと同じく「身体コピー」にも余念がなかった。だが原則としてストラヴィンスキー演奏家の解釈というものを信用していなかった。いわく「通訳(traduttore)は、いつも裏切り者(traditore)である」。彼にとっての理想の演奏家とは、自身で言うところによれば、オルゴールの蓋を開ける人であり、あるいは紐を引いて鐘楼の鐘を鳴らす人だったのだ。おそらくストラヴィンスキーが夢見ていたのは一種の演奏ロボットであり、完璧にポータブル化された音楽だったのだろう。自分が一部の隙もなくセットした後は、まるでオルゴールのようにいつでもどこでも完全な再生が可能な音楽。完璧に脱身体化/脱文脈化された音楽。それがストラヴィンスキーの理想であった。

演奏家(指揮者)という者は、作曲家の意図を裏切る(勝手に解釈する)厄介者なのかもしれない。演奏ロボットがあれば、演奏家(指揮者)はいらない??

*1:五線譜以外に文字譜というものがある。古代ギリシアで用いられた記譜法で、歌詞の上に音高を文字で記す。オクシリンコス・パピルスに現存する最古(紀元280年)のキリスト教東方諸教会)の聖歌とされる『三位一体の聖歌』がギリシア記譜法で記されていた。紀元前3世紀ごろの石版にアポロンへの讃歌が刻まれており、讃歌の詩行間に文字があり楽譜を意味するといわれている。(Wikipedia)

*2:wkikipediaによれば、楽譜には、作曲家・編曲家などの意図を書き記したものと、演奏を書き取ったものがあり、楽譜の作られ方に若干の相違が生じるという。岡田が後で述べていることからすれば、両者が混在しているようでもある。

*3:発想記号は、具体的に詳細な演奏法を示すものというよりは、やや抽象的、総合的に作曲者の意図や演奏時の心づもりや考え方を示すものである。音符の上または下に書かれ、その記号以降に有効である。(例)agitato(アジタート)激しく、brillante(ブリッランテ)華やかに、cantabile(カンタービレ)歌うように、dolce(ドルチェ)甘美に、grazioso(グラツィオーソ)優美に、morendo(モレンド)絶え入りそうに、scherzando(スケルツァンド)諧謔的に。(wikibooks、発想記号)

*4:半音より狭い音のこと。理論的には無限に存在するが,全音を分割する度合いによって,3分音,4分音,6分音,8分音,16分音などと呼ばれ,アジアの音楽や,東洋の影響のより強いヨーロッパの民俗音楽 (ジプシー音楽や東ヨーロッパの民俗音楽) にしばしばみられる。(ブリタニカ国際大百科事典)

*5:それぞれの文化,時代,地域における音楽を最も適切に表示できる記譜法が求められ,さまざまな試みが現在に至るまで続けられている。ヨーロッパ,非ヨーロッパを問わず,記譜法は,(1)音高(個々の音の絶対的あるいは相対的な高さ),(2)音価(音あるいは休止の絶対的あるいは相対的長さ),(3)旋律型ないしモティーフ(動機),(4)和音,(5)楽器の奏法,(6)装飾法,(7)強弱・速度・表情など,のいずれか一つ,あるいはいくつかの組合せを,一定の体系に基づいて,記号,文字,数字,図表,点字などにより表示するのが普通である。(世界大百科事典)