浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

いのち(臓器)の売買 所有と自己決定

加藤尚武『現代倫理学入門』(24)

加藤は、自由主義の原則を次の5つ(の条件)に要約している。

①判断能力のある大人なら、

②自分の生命、身体、財産に関して、

③他人に危害を及ぼさない限り、

④たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、

⑤自己決定の権限を持つ。

 今回は、②自分の生命、身体、財産に関して(自己決定の権限を持つ)、についてである。

「生命、身体、財産」が、常識的な意味での「私のもの」の総目録である。厳密に言うと、「私のもの」の中には、「私の名誉」、「私の信仰」、「私の働き、サービス」も含まれる。これらの中に譲渡してよいものと、譲渡できないものとの区別がある。しかし自己決定の範囲としては、原則として「私のもの」のすべてであって、譲渡してはならないものを譲渡することもありうる。自分の自由を売って、すすんで奴隷になったリ、外人部隊に加入したり、還俗不可能という条件で修道士になったりする場合には、自己決定権を行使して自己決定権そのものを譲渡するという循環になる。

加藤がここで述べているのは、「私の所有物に関しては、自己決定の権限がある。言い換えれば、私は、私の所有物を自由に処分できる。しかし自由に処分すべきでないものもある」と、単純に理解しておこう。(なお、「~自己決定権を行使して自己決定権そのものを譲渡するという循環になる」と言うが、何が「循環」なのかよくわからない)

 

なぜこのような奇妙なパラドックスが生まれるかと言えば、「所有するもの」と「所有されるもの」との区別が、実在的な区別ではなくなっているからである。私が私の身体を所有する→私の身体の外部に私が存在する。つまり所有という観念そのものが、一種の霊肉分離を作り出す。

何が「奇妙なパラドックス」なのか。「~実在的な区別ではなくなっている」とはどういう意味なのか。「所有という観念そのものが、一種の霊肉分離を作り出す」と言うが、なぜなのか。説明がないので、何のことかよく分からない。(本書は入門書のはずだが…)

 

近代になって、「私のもの」の範囲が、生命、身体、財産、名誉、信仰、労働、創意、才能などなどにまで拡張され、それらすべてに一種の所有権である自己決定権が与えられた結果、①所有の概念が法の領域の全体を覆うことになり、②所有という擬制によって、主体と客体という実体が想定されることになった。主体と見做される人格と客体と見做される物件との二元論的関係ができあがるが、観念としての原型は霊肉の分離という古い原始的信仰にある。

加藤は、「私のもの[所有物]に、自己決定権が与えられた」と言う。「一種の所有権である自己決定権」とは、何のことかよくわからない。ここは「私は、私の所有物を、利用したり、処分したりできる」と理解しておこう。

「私の所有物」とは、「私の生命」、「私の身体」、「私の財産」、「私の名誉」、「私の信仰」、「私の労働」、「私の創意」、「私の才能」などなどであるという。…しかし「私」はこれらを、無条件に、「利用したり、処分したりできる」のだろうか。加藤はここで「所有物の利用・処分」について議論を深めようとするのではなく(この議論は「法律論」となろう)、話を「二元論」にもっていこうとしている。「所有という擬制によって、主体と客体という実体が想定されることになった」というが、「所有という擬制」とはどういう意味かよく分からない。本来、「主体と客体」は一元的なものなのだが、所有概念によって「主体と客体」が分離され、二元的なものとなった、とでも言おうとしているのだろうか。仮にそうだとしても、それでいったい何が言いたいのだろうか。

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私が私の生命の自己決定権を持つ以上は、私には自殺の権利もあることになる。自分の身体の一部である限りでの胎児は、私の処分権の対象になる。私の身体の部分である臓器が、自己決定の対象になることは、いうまでもない。しかし、大本にたちかえって考えれば、「私が私の生命を所有する」という現実は存在しないのである。「まるで私が……を所有するみたいに想定してもさしつかえない」という、見做しの暗黙合意があるだけである。私の存在の全体から、主体(意志)と対象(私のもの)を建前上分けて、その主体である私が、対象である私のものに決定権を付与する。対象の範囲を、客観的に決める方法はない。

加藤はここで、「私の生命(いのち)」や「私の身体」という「所有物」について、自己決定(処分)を論じている。問題は、「人のいのちや身体」を、「携帯や本や食料や衣服」などのようなモノと同様に扱ってよいのか、ということである。

「私のいのち」、「私の身体」だから、どのように処分しようが自由だと言う場合、以下のような問題が思い浮かぶ。

第1に、いかなる場合(状況)であっても、「私の所有物」は、自由に処分してよいと考えてよいかどうか。

第2に、いのちや身体は、携帯や本や食料や衣服とおなじようなモノと考えてよいかどうか。

第1の問題で私が何を考えているかというと、例えば「ピザを買ったのだが、食べきれないので捨てる」というのは、私の所有物を処分するのであって何ら問題はないと考えるか。あるいは、世界には貧しくて食料にも事欠く人が多数いることを知っていて、ピザを捨てることに後ろめたさを感じるか否かである。所有物を自由に処分してよいと考える人は、なぜ彼らをコミュニティの一員と考えられないのだろうか。

第2の問題は、例えば「私の腎臓」は私のモノであるから、売ろうが何をしようが自由だといっていて良いのか、ということである。…臓器売買の是非に関してはいろいろ議論がある*1ようだが、「所有」とか「自己決定」からの議論ではない。(粗雑な)抽象観念で、現実の深刻な社会問題が解決できるとは思われない。

加藤は、「対象(私のもの)の範囲を、客観的に決める方法はない」と言うが、「私のもの」を「処分する自由」と解するならば、「いかなるものを、いかなる場合には、処分してよい/処分してはならない」を決めることが出来るだろうし、実際にそれはほとんど「法」として規定されているだろう。それが「妥当」かどうかは、もちろん議論の余地はある。