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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

平等(3) 「福利の平等批判」の批判、「アファーマティブ・アクション批判」の批判

私たち 読書ノート

平野・亀本・服部『法哲学』(28) 

福利(結果)の平等に対する批判をみておこう。

 

「平等化」批判論

福利の平等論は、スタートラインの平等ではなくゴールの平等を目指す点で機会の平等論とは根本的に異なる。初期格差としてのハンディキャップの埋め合わせや、各人の生活及び活動に共通して必要となる一定のミニマムな財の保障ではなく、一人一人の必要・選好・満足を同じレベルで満たそうとする。しかし、供給される財の量の面で「同じレベル」であるならば、職業も、責任も、志も、その他さまざまな点で異なる個々人の必要に適切に応じることができないであろう。他方、各人の異なる必要を質的に「同じレベル」にまで満たそうとするならば、どこまでが「同じレベル」といえるのかが極めて曖昧で確定しにくいこととなる(この批判は、格差原理にはあてはまらないように思われる。しかし、「最も不利な状況にある人々」とは誰のことか。またどのような意味においてかが争われる場合には、同じような問題に直面することとなる)。

「財の量」で「同一」にすることが「平等」であるというなら、批判者が言うように「必要に適切に応じることができない」というのは自明なことである。そこで、「必要に応じて平等にすれば良いではないか」と言うと、「そのような豊富な財はない」という。ならば「必要に応じて、比例的に、平等にすれば良いではないか」と言うと、「質的側面を考慮に入れて、必要度を数量化することは極めて困難である(どこまでが「同じレベル」といえるのかが極めて曖昧で確定しにくい)」と言う。このような応答をみると、批判者は、「必要に応じて分配することが望ましい」と考えていないのではないか、また「異なる必要を、質的に、できるだけ同じレベルにまで満たすための方策」を考えようとしていないのではないか、と思われる。

次に、この批判者は「財の量」を問題にしている。しかし、福利(幸福)が、「財の量」のみの関数ではないことも自明である。環境や人間関係やその他無数の要因が福利(幸福)に影響する。これらを、(計測できないのだから)厳密に「同じレベル」にすることなどありえない。

したがって、平野の表現を借りれば、福利の平等論者が「一人一人の必要・選好・満足を同じレベルで満たそうとする」というのは、「一人一人の必要・選好・満足を、無視することなく、取り扱う」ということを意味する。いま述べた表現も適切ではないかもしれないが、「三世代が同居して、泣き笑いしながら、楽しく暮らす」イメージである。そして、この小さなコミュニティをグローバルに考えようということである。

私には、批判論者は、「福利の平等」を、「財の量」の問題に矮小化して、批判しているように思える。それは、差別や貧困に何ら手を打とうとしない態度を意味するだろう。

 

次に、平等化についてよく指摘されるのは、自己実現へのインセンティブの欠如である。市場システムでは努力して成果をあげた分がそれとして評価され財の分配に反映される。その評価が適切に行なわれるかどうかが市場にとっての問題であるとしても、基本的な仕組みとしてはそのようになっている。もし福利の平等論のように、成果や努力に関わりなく分配が同じであるとするならば、創意や努力を引き出すインセンティブに欠けることになるであろう。格差原理による平等論や実質的な機会の平等論の場合でも、権力的な統治の機構を用いての再分配は、その規模が大きくなればなるほど、インセンティブ効果を減じることになると批判されるのである。

この批判論者の浅薄さ(無教養)が際立つ批判である。財の分配が多ければ、自己が実現する?? 論評する気にもなれない。端的に言えば、「金もうけして、たくさん消費すれば、あなたの自己が実現するのですか?」ということである。

自己実現へのインセンティブ」などという「美辞麗句?」をかかげて、市場システムを礼賛しているようにみえる。「自己実現」とは何であるか、「市場システム」とはどういうものであるか、まじめに考えたことがあるのだろうか。また市場システムにおいては、「成果や努力」が正当に評価され、分配が同じになるとでも考えているのだろうか。

福利の平等論は、成果や努力に関わりなく、同じお金を分配しようというようなものではない。

 

優遇措置の問題

実質的平等化論や福利の平等化論は、例えば一定の優遇措置(つまり差別是正策として女性や民族的少数者などを雇用や入試の面で優遇する措置)を「必要」(過去の差別への償い、あるいは現在の不利な状況の是正、あるいは将来の多元的共生への布石といったような)に基づいて正当化しようとする。しかし、そのような形での平等化はメリット原理に反し、逆差別を引き起こすものであると批判される。優遇措置がメリット原理に反するのは、雇用であれ入試であれ、制度の本来の趣旨を熟慮することなく、制度の趣旨に沿ったメリット基準によってではなくて、制度に外在的な必要のみによって分配するからであり、それが逆差別につながるというのは、メリットによれば当然分配を受けることのできる人を優遇されるべき集団に属していないという理由で排除することによって、自分ではどうすることもできない自然的属性による差別を行うことになるからである。また優遇措置は、そうした措置がなければ分配を受けられない、つまりは実質的にはメリットを欠いた存在なのだという差別的な意識を社会に生じさせ、優遇措置を受ける側の自尊心をも傷つけて、不平等化を助長することになりかねないとも批判される。

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メリットというのは、成績、成果、業績、功績の意味である。優遇措置が逆差別なのかどうか考えてみよう。

「制度の趣旨に沿ったメリット基準」とは、入試では「入学試験の成績を基準に合否を決める」ということであり、雇用では「採用試験の成績を基準に採否を決める」ということである。ここでは、性別や民族や人種等は関係ない。

そこで、女性や少数民族や黒人を優遇することは、「制度に外在的な必要」によることであり、「優遇措置はメリット原理に反する」と言われる。しかしこれは批判になっていない。優遇処置を主張する者は、「制度に外在的な必要」から、「メリット原理」の修正が必要だと言っているのである。AではダメだからBだと言っているのに、AではなくBを主張しているからダメだと批判しているのである。批判するなら、なぜメリット(成績)だけではダメと主張しているのかを理解して批判するのでなければならない。

逆差別というのは、成績によれば、Xを採用すべきところ、Yを採用するからである。この言い分は、合否/採否の判定には、成績という単一基準しかないということを前提している。もし複数基準を採用するのであれば、逆差別ということにはならない。批判するなら、その複数基準の妥当性であろう。

最後の、差別意識とか自尊心とか不平等化云々は、「成績」が唯一の絶対正しい基準なのだという固定観念を有するがゆえの言い分であろう。そしてこういう言い方をすることで、優遇措置を否定しようとする政治的意志が感じられる。

以上述べたことは、優遇措置批判を批判しただけで、具体的な優遇措置を無条件に支持することを意味しない。

 

ここまで書いたところで、wikipediaを参照した。

アファーマティブ・アクションaffirmative action)とは、弱者集団の不利な現状を、歴史的経緯や社会環境に鑑みた上で是正するための改善措置のこと。この場合の是正措置とは、民族や人種や出自による差別と貧困に悩む被差別集団の進学や就職や職場における昇進においての特別な採用枠の設置や試験点数の割り増しなどの直接の優遇措置を指す。

日本語では、affirmative action は一般に「積極的格差是正措置」と訳される。…affirmative action は、優遇措置でなく差別環境の是正措置であると説明されることもある

これらの用語は弱者集団の現状是正のための進学や就職や昇進における直接の優遇措置を指す。

アメリカ合衆国では、アフリカ系アメリカ人(黒人)やラテン系の平均の学力が低いために進学率が低いことを是正するために、大学において一定枠の確保理想としては黒人の全人口に対する割合と同一の合格確保)が行われている。

アファーマティブ・アクションaffirmative action)の訳語に注目しよう。積極的格差是正措置と優遇措置の違いをどう見るか。積極的格差是正措置には、「望ましくないものを正す」というイメージがあるが、優遇措置のほうは「優遇すべきものかどうかよくわからないが、優遇する」というイメージがある。平野は、括弧書きで「差別是正策として女性や民族的少数者などを雇用や入試の面で優遇する措置」としているものの、優遇措置という言葉を使っている。

 

ここで、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事を参照しよう。米最高裁が、ミシガン州のマイノリティ優遇策廃止に合憲判断を下したというのである。

この判決[2014年4月22日]は、ミシガン州公立大学入学審査におけるマイノリティ優遇措置であるアファーマティブ・アクション積極的差別是正策)に関して、同州内の長年の議論の結果、2006年に住民投票でこれを廃止したことを支持するものだ。ただ、判決はその一方、少数人種が政治的な措置で不公平な扱いを受けることから守るための諸種の法的前例判断の有効性に変わりはないとした。…1996年以来、カリフォルニア州を含む8州でアファーマティブ・アクションが廃止されている。その他の州での対応はまちまちだ。高等教育機関は一般的に、学生の多様性を確保するためにマイノリティ優遇措置を好む傾向にあるアイビー・リーグの大学や軍士官学校、公立有名大学のテキサス大学オースティン校やノースカロライナ大学チャペルヒル校などの全米のエリート校の多くでアファーマティブ・アクションを採用している

アンソニーケネディ判事は、…今回の審理はアファーマティブ・アクション自体についての判断ではなく、「この問題を誰が判断するのか」についてのものだと強調した。…「一方で住民らは議論や思索の結果、合衆国憲法の精神とも合致する多様性を促進するプログラムは、過去の人種差別を乗り越える上で必要なものと考えている」との意見を付した。

JESS BRAVIN、http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702303595604579518402025713732

多様性を確保し促進する」(黒人を排除し、白人だけのコミュニティをつくるというようなことをしない)ことが、「過去の人種差別を乗り越える上で必要なこと」という言葉をよく考えたい。

具体的方策としての、採用枠の設定等を「逆差別」と非難するのではなく、「過去の人種差別を乗り越え」、今後「差別」を生じないようにするためにどうすれば良いのか、きめ細かな検討が必要だろう。(大学入学率に、貧困-親の経済力-が関係しているというなら、黒人に対するアファーマティブ・アクションだけでなく、白人貧困層にどう対処するかの具体的方策が同時に考えらなければならない)。

アファーマティブ・アクションは、もちろん大学入学だけの話ではなく、その議論の射程は広い。