浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

指揮者フルトヴェングラーとトスカニーニ

岡田暁生『音楽の聴き方』(18) 

演奏家を信じない作曲家たち

ストラヴィンスキー(1882-1971)は演奏家の解釈を信用せず、「通訳(traduttore)は、いつも裏切り者(traditore)である」と言っていた(通訳はいつも裏切り者である 参照)。シェーンベルグ(1874-1951)も同様である。

単に、リタルダント[次第に遅く]と書いておいて、後は演奏家に任せればいいものを、彼はどのようにテンポを変化させるかを、すベて誤解のないよう楽譜に記そうとするのだ。…編曲というのは、作曲家が演奏家白紙委任の余白を残してくれている作品において、初めて可能になる。ところがシェーンベルグはまさにこの余白の部分を執拗に消して回る。すべてを作曲し尽す。もはや即興やアレンジの余地などどこにもない。

そうだろうか。作曲家は、演奏家に余白(即興やアレンジ)の部分を残しておかなければならないのだろうか。演奏家を信用する・しないではなく、なぜ音楽を作曲と演奏に分割しなければならないのか。細部をいい加減にされたら、イメージが壊れてしまう。細部にまで行き届いた配慮がなされてこそ、人を感動させる作品が生まれるのではないか。それを「余白の部分を執拗に消して回る」というのは、「音楽は、個人のものではなく、共同して創りあげるものである」という固定観念があるからではなかろうか。私はそれを否定するものではないが、自分の作品を演奏するなら、正確に演奏して欲しいというのは、正当な要求であるように思う。「余白を消し、すべてを作曲し尽す」のではなく、「イメージを正確に再現するために、細部にまで気を配る」と言うべきではないのか。

このようにストラヴィンスキーとシェーンベルグの2人――彼らがいわゆる「現代音楽」の祖であったことは興味深い――には、正確な再現への尋常ではない情熱が共通していたわけだが、その裏にはもしかすると実存の不安のようなものが潜んでいたのかもしれない。

自分の意図が自ずと阿吽の呼吸で通じると信じることのできる特定の共同体が存在している限り、ある程度までのことは演奏家に任せておけばよい。自ずと彼らは意図を察知してくれる。また演奏家がたとえ少々間違った音を出したとしても、聴衆は作曲家のやりたかったことを察してくれるだろう。しかし、ストラヴィンスキーとシェーンベルグは、こうした共同体の前提が崩れていると感じていたからこそ、「絶対の再現」にあれだけ固執したのではなかったか。彼らは自分の作品を安心して解釈者に委ねられない。すべてを自分が意図した通りの形で、いつでもどこでも再生できるようにしないと気が済まない。

ストラヴィンスキーとシェーンベルグは、こうした共同体の前提が崩れていると感じていたからこそ、「絶対の再現」にあれだけ固執したのではなかったか」と岡田は言うが、私は「共同体の前提が崩れていると感じていた」ではなく、一人のアーティストとして彼の音楽を追求していたのではないかと思う(想像だが)。自分の作品が歪んだ解釈で広められては気持ちが悪いだろう。

岡田がここで言う演奏家とは、個々の楽器の演奏者ではなく、指揮者のことと思われる。では個々の楽器を演奏する者は、共同体に含まれないのだろうか。指揮者の言いなりになる存在なのか。その共同体とは、作曲家と指揮者が支配し、個々の楽器を演奏する者が被支配者となる共同体なのだろうか。そしてまた聴衆はどこに位置するのか。

 

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指揮者がいつ誕生したのかについては、次の記事が参考になる。

「指揮者とは?」と聞かれれば、「オーケストラなどで、演奏する曲のテンポ、強弱、表情などを指示し、演奏全体を統率する人」ということになるでしょう。

バッハ、ハイドンモーツァルトらの時代になっても、現代のような「指揮者」は存在しませんでした。コンサートマスターや、楽長と呼ばれる人が、始まりの合図やテンポ、強弱の指示などを出していたのです。…作曲家自身が、自分の作品の演奏時に指揮を行うことが多かったのです。

しかし、19世紀に入って、もっと専門的に指揮を行う人物が必要になってきました。その主な理由として、1つは、曲の編成などが複雑化してきたこと。そしてもう1つには、演奏会で演奏される曲の幅が広がってきたことが挙げられるでしょう。その頃になると、過去の作曲家の作品も演奏会で取り上げられるようになっていきます。過去の作品となると、作曲者の意向は直接聞けませんから、すべては楽譜から読み取って演奏することになります。しかし、そもそも作曲者が楽譜に書き込めることには、限界があります。このため、オーケストラで演奏する際、「譜面を読んで曲を解釈し、演奏の基本方針を決める人」が必要になってきました。そしてその人が、リハーサルで基本方針を演奏者たちに伝え、本番でそれを実現させるためにオーケストラを統率するようになってきたのです。こうした流れが、現代の指揮者の役割へとつながっていきました。(上原章江、http://pr.denon.com/jp/Denon/Lists/Posts/Post.aspx?ID=367#.WMyl0fnyiHs

この記事を読んでも分かる通り、作曲家が指揮者により解釈されることを前提に、作曲していたとは思われない。そうではなく、作曲家の音のイメージを音以外のものに翻訳することが難しく、その音以外のものから元のイメージを再現するためには「解釈」が入り込まざるを得ないということのように思われる。それは「過去の作曲家の作品」の演奏のために指揮者が必要とされたということであり、共同体云々は関係ないことだろう。

 

上原は、フルトヴェングラーカラヤンの指揮の違いは、ベートーヴェン交響曲第5番》「運命」の冒頭を聞いただけでも歴然!と言っている。(本書との関連で、トスカニーニの指揮についても注意)

では、聞いてみよう。(C.クライバートスカニーニショルティガーディナー、ヴァント、イッセルシュテットベーム、グールドの指揮も比べられている)

ベートヴェン「運命」聴き比べ Compared

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アドルノ(1903-1969、ドイツの哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家)は、指揮者フルトヴェングラー(1886-1954)とトスカニーニ(1867-1957)を論じている。

 

壊死しつつある「音楽の意味」の救済――アドルノフルトヴェングラー

自分が何を言っているのかも知らないままリヒャルト・シュトラウスを歌った歌手の例が示すように、その音楽が生まれた特定の時代/地域/文化から遠ざかれば遠ざかるほど、その「意味」は次第に不明瞭になっていく。…大作曲家の時代は遠くに去り、作品に意味を与えていた彼らの存在は、次第に人々の記憶から薄らぎつつある。時代が遠くなることでむしろ明瞭に見えてくる意図もあろうが、それを十全の確信をもって示す演奏家は少なくなりつつある。

 音楽(芸術)が、特定の時代/地域/文化の申し子であるとすれば、その「意味」が不明瞭になっていくことは避けられないだろう。ただ、さまざまな時代/地域/文化を通底する普遍的なものや、今日の時代に意味を見いだすことのできるものがそこにあるとすれば、それはそれで良いのではなかろうか。

「伝統そのものから解放された解釈者は、何の媒介もなしに、裸の作品と向き合って立つことになる。彼は、伝統という岩塊のぼろぼろと砕けつつある中間層を通して、作品に立ち向かわなければならない。しかし作品はよそよそしく、既に冷たくなっている。解釈者はその硬い輪郭を再現することしかできない。かくして彼の獲得した自由は、結局打ち砕かれてしまう。ここでふさわしいのは機械的な手段だけだ」(アドルノ

もはや厳密な意味での解釈は存在しない。共同体の中で解釈についてのある程度の共通理解が「型=伝統」として存在していて、その中で演奏家が自由に振舞えるような、そういう拘束と自由との弁証法はもうない。

これは先ほどの「その音楽が生まれた特定の時代/地域/文化から遠ざかれば遠ざかるほど、その「意味」は次第に不明瞭になっていく」ということの言い換えだろう。

こうした音楽解釈の危機の時代にあって、「萎みゆく作品を自分の存在によって熱く包み込み、終わりつつある作品の生命をもらすところなく護ることが出来るような解釈者」が、フルトヴェングラーである(とアドルノは評価する)。アドルノによれば、一見主観的に見えるフルトヴェングラーの指揮は、かつて存在していたある共同体の中で、その作品が確かに持っていたに違いない意味を、何とか現代世界へと救い出そうとする試みである。

これを「音楽解釈の危機の時代」と捉え、「かつて存在していたある共同体の中で、その作品が確かに持っていたに違いない意味を、何とか現代世界へと救い出そうとする試み」をアドルノは評価するが、私は「過去の共同体における意味」を引き出し再現したところで何にもならない、「現代」における意味に問い直すものでなければならないと思う。作曲家でない指揮者にそのようなことが可能なのか疑問である。

 

完璧主義の実存不安――アドルノトスカニーニ

あくまで共同体の記憶に根差しつつ音楽をしようとするフルトヴェングラーとは対照的に、意味を捨象して機能主義に徹するのがトスカニーニである。…アドルノいわく、「彼の演奏は、まるでクロームのメッキを施したように光り輝いていた。機械の小さな歯車は完璧に組み合わされており、それらの歯車がたてる低い唸り声は、まるで魔法のように、絶対の必然性という仮象を作り出して見せた。音のあらゆる抵抗、あらゆる偶然性や予測不能性の危険は、克服されたように思えた」。

だがアドルノによればトスカニーニの演奏は、その圧倒的なサウンドにも拘らず、奇妙に静的である。彼が何より批判するのは、響きの背後のフレーズ等の意味合いをトスカニーニがすべて消し去り、単なるピカピカの音響に還元してしまう点である。いわく「何にも妨げられない表面的な流れでもって幻惑し、音楽の中で本来生じているものをファサードの下に感じ取ることを聴き手に委ねてしまい、しかし聴き手がそうすることをまさにその圧倒的なそのファサードでもって逆に阻害する、ということであってはならない。音楽演奏において危険なのは、もはやエスプレシーヴォ[表情豊かに、感情を込めて]とルバート[テンポを変化させること]ではなく、組織化と管理のモデルに従った単なる機能化である」

アドルノは、「抵抗、偶然性、予測不能性」を高く評価しているようだ。そしてトスカニーニはそういうものを捨象して「ピカピカの音響」に還元するという。トスカニーニファサード(装飾の意味か)は、「抵抗、偶然性、予測不能性」を感じ取ることを阻害する。しかし私が思うに、トスカニーニがそのように解釈したっていいではないか、アドルノは「組織化と管理」という言葉で、トスカニーニを非難するが、雑草を取り除き洗練させたという見方もありうるのではないか。それは「現代的解釈」といえるかもしれない。つまりは、アドルノにとっては、トスカニーニの解釈は趣味に合わないというだけのことではないか。指揮者が解釈者であることを認めるならば、多様な解釈を認めてもよいのではないか。それともトスカニーニの解釈は、あってはならない解釈なのだろうか。

 

Mendelssohn Symphony No. 4 1st mov. / Toscanini / pseudo-stereo

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アドルノが気に食わないのはとりわけ、トスカニーニがどこをとっても同様にゴージャスなサウンドに仕上げてしまう点のようである。「すべての音は隅々まで、まるで無菌パックして安心して自宅に持ち帰れるかのように、清潔でメリハリが効いているのだ。プラスチックで出来た作品の鋳型が、解釈された作品に取って代わるのである。…」。

この文脈でアドルノが口をきわめて非難するのは、トスカニーニのフレージングである。私たちの言葉を使えば「音楽を分節されたセンテンスとして正しく読む」(音楽を読む 参照)と言う感覚が、トスカニーニの演奏には決定的に欠落しているということだろうか。

フレージングとは、

旋律を楽句(フレーズ)に分けること。曲の構造分析の重要な手段として音楽理論の主要課題の一つであるばかりでなく,様式にかなった演奏をするためにも欠かすことのできない概念である。楽句は文章にたとえれば,句読点によって区切られ,なおかつ文としての意味をなす最小単位で,詩では詩句の1行に相当する。音楽の場合,句読点にあたる記号がなくとも,声楽では歌詞の区切りに従って,器楽でも自然な呼吸で区切られるのが原則である。(世界大百科事典)

岡田はこの後アドルノトスカニーニ批判の具体例を、ブラームスの第四交響曲について紹介しているが、これは省略する。

 

曲のまさにその箇所で、なぜそのメロディが出てこなければならないのか。それは前後のフレーズとどのような関係にあるのか。問いに対する答えか、それとも新たな問いか。その主題はどこにアクセントが来て、どこでどういう間合いの息継ぎをしなければならないのか。こうした音楽の言語的構造が、トスカニーニはさっぱり分かっていないと言いたいのであろう。少々誇張して言えばトスカニーニは、それこそベームがニューヨークで出会った女性歌手のように、意味も分からず完璧に指揮している。

やや違和感がある。仮にトスカニーニが「音楽の言語的構造」が分かっていないとしたら、それは彼の責任だろうか。それは作曲家の問題ではないか。楽譜の書き方が問題なのではないか。

私はここでふと思ったのだが、「哲学者」とよばれる人たちの文章というのは難解で、なかなか常人を寄せ付けないものがある。誰かがそのような哲学者の学説の「解釈」を示すと、その解釈はおかしいと批判する者があらわれる。その「哲学者」の文章の書き方がダメなのだという者はあらわれない。しかし「無名の哲学者」の文章だと、そんなのダメだと批判する。

 

自分のやっている音楽の意図を、完璧な発音などせずとも、自ずと察知してくれる共同体があるということが信じられない不安。それをトスカニーニの完璧主義は、ストラヴィンスキーやシェーンベルグの演奏家不信と共有している。…彼らは他者に白紙委任状を与えることができない。例えば演奏家の主観や判断に委ねる箇所だとか、聴き手の想像力に任せる箇所などを作ろうとしない。何から何まで一人で仕上げ、言い切り、余白が出来ないようにするのだ。

トスカニーニの解釈が「完璧主義」だったとして、それは「共同体」と関係のある話だろうか。それに指揮者(解釈者)の「完璧主義」とは何だろうか。「解釈」はあくまで「一解釈」であり、完璧も何もないと思うのだが。また音楽は一人でつくってはいけないものなのだろうか。余白云々と言うが、一人で余白を作ることもできるだろう。

 

音の背後の「意味/意図」に対する、トスカニーニ無神論的な態度についての興味深いエピソードを、アドルノは次のように紹介している。「同時代のある作品のスコアを見せられたとき、そこに一つのピチカート[弦楽器で、弓を使わずに指で弦をはじいて音を出す奏法]にクレッシェンド[だんだん強く]とデクレッシェンド[だんだん弱く]がついているのを見て、トスカニーニは余白に『アホらしい』(stupid)と書き込んだと言われる。専門家としての見地から彼は、作曲家のファンタジーに『愚か』という烙印を押そうとしたわけだ。いったんピチカートを弾いたら、もはやその音をコントロールしたりすることは出来ないにもかかわらず、それをクレッシェンドしてから再びデクレッシェンドするなどということはバカげているということである。このことによって彼は、一つの音にも生命をかきたてようとする独創の天分よりも、経験と実践と退屈な現実の方を優先したのである。こうした指示は、それを表現するための手段を探すことを指揮者に要求するのであり、たとえそれが見つからなくても、ゆめゆめ無視したりしてはならないにも関わらず、それをトスカニーニは『アホらしい』と言ったのだ。しかしここに示されている世俗的な小賢しさは、別の次元の愚かさ、つまり精神に対する技術専門職的な敵意なのである」。

トスカニーニは音を「あたかも~であるかのように聴く」ということが出来ない。そこに込められた「意味」を信じることが出来ない。彼にとっては音は音でしかないのだ。究極の即物主義である。(P159)

トスカニーニが『アホらしい』と思ったのであれば、一解釈なのだからそれはそれで良いではないか。聴衆が、そのような解釈に共感できなければ、その解釈者は支持されない。それだけのことだろう。それを「世俗的な小賢しさ」だとか「精神に対する技術専門職的な敵意」だとか、大げさに侮蔑の言葉を投げつける必要があろうか。

 

フルトヴェングラートスカニーニの間には、次のような興味深いエピソードがある。

1937年夏のザルツブルク、ナチのオーストリア併合前の最後の音楽祭期間中のこと、トスカニーニは、なるべくフルトヴェングラーと顔を合せたくない、と思っていたのだが、ある日ばったりと街角で2人は出会ってしまった。そこで案の定、口論となってしまったのである。

T「今日の状況下で、奴隷化された国と自由な国の双方で同時に指揮棒をとることは、芸術家にとって許されることではありません。」

F「私は、音楽家にとっては自由な国も奴隷化された国もない、と考えます。ベートーヴェンが演奏される場所では至る所で人間は自由です。もしそうでないとしても、これらの音楽を聴くことにより自由になるでしょう。音楽はゲシュタポも手だしのできない広野へと人間をつれだしてくれるのですから。私が偉大な音楽を演奏する、そのことがたまたまヒトラーの支配する国で行なわれたからといって、それで私がヒトラーの代弁者だということになるのでしょうか。偉大な音楽はナチの不思慮と非情とに真っ向から対立するのですから、むしろ私はヒトラーの敵になるのではないでしょうか。」

T「第三帝国で指揮するものはすべてナチです!」

この論争の勝敗は、残念ながらトスカニーニに軍配があがった。今日、政治と無関係でいることは誰もできないのだ、ということをヒトラーは明らかにしたのである。

http://classic.music.coocan.jp/cond/modern/toscanini.htm

この2人の議論を読む限りでは、フルトヴェングラーの意見が正論だと思う。ただし、ナチス政権下での活動が、客観的にみて、ナチス文化政策を支えるものであったとしたらどうだろうか。単純な話ではなさそうだ。