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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

他人に危害を及ぼさない限り、何をしても良いのか?

加藤尚武『現代倫理学入門』(25)

今回は、自由主義の原則の第3番目、「③他人に危害を及ぼさない限り」についてである。

この条件は、「他者危害の原則」とも呼ばれる。自由主義の原理の中心部分であり、アトミズム[個人主義]と功利主義の性格の強い規定である。

加藤は、次のように述べている。これは考えてみる価値がある。

私がタバコを吸えば、周りの人間すべてが無関係ではいられない。私がダイヤモンドを掘り出せば他者に残されるのは残りのダイヤモンドであって、私が他者に何も働きかけなかったとしても、私の行為は他者と関わっている。これは私の行為が図柄で、外部の世界はその地柄となる関係である。私の行為や私の存在とそれを切り抜きだした残りの空間とは、ゼロサム関係と同じで、一方が決まれば他方も決まる。完全に相互規定的な関係にある。そして私にとっての他者は、私と相互規定的な地柄の中にいる。

  1. 私がタバコを吸えば、周りの人間すべてが影響を受ける。これは誰もが説明するまでもなく理解できるだろう。
  2. 私がダイヤモンドを掘り出せば他者に残されるのは残りのダイヤモンドである。これも言われてみれば、誰もが理解できるだろうが、これが意味するところを深く考えている人は少ないのではないかと思われる。
  3. 私が他者に何も働きかけなかったとしても、私の行為は他者と関わっている。こういうふうに抽象的に言われると、ほとんどの人が理解していないのではないだろうか。

ダイヤモンドの話は後回しにして、3番目からみていこう。

あまり難しく考えないで、日常生活から出発しよう。私は、朝起きて食事をし、会社に出かけて仕事をし、帰ってテレビをみて、家族と談笑し、寝る。休日には、また異なった行動パターンになる。これだけでも「私の行為は他者と関わっている」ということが了解される(ものと思う)。

では、「私が他者に何も働きかけない」とは、どういう事態だろうか。私は独身で、アパートの一室で眠っているとしよう。私がアパートで暮らしているとすれば、家賃を支払っている。水道光熱費も支払っている。そのための収入源は? 私がアパートで暮らすことができているのは、このようにカネが回っているからである。私が他者に働きかけ、為すべきことを為しているからアパートで暮らすことができる。他者に働きかけていることが前提になっている。

あなたは布団に入って寝ているとする。あなたは他者に何も働きかけていないのだろうか。そんなことはない。あなたを気にかけてくれる人がいる。あなたを気にかけてくれる友人や家族がいなくても、気にかけてくれる人がいる。それは誰か。あなたが、独居老人なら、ニートなら、就活中の学生なら、専業主婦なら、入院患者なら、餓死寸前の子どもなら、自衛隊員なら、組織の重要人物なら、……あなたの存在が、誰かの行動の対象になっているのである。これはつまり、あなたの存在そのものが、他者に影響を与えているということである。これはあなたが社会的存在だということであり、私たちは共に生きているということである。このことが了解されるなら、「他人に危害を及ぼさない限り、何をしても良い」などということは、「私たちは共に生きていて、より良い社会を望んでいる」ということをわかっていない独り善がりの人間であるか、他人はどうでもよいという利己的な人間であると言えるだろう。「他者危害の原則」を、「他者に危害を及ぼさない限り、何をしてもよい」と理解し、そう主張する者は、独善的/利己的な人間であると言われても仕方あるまい。

私と他者は、共同の中立的な空間の中のアトムではない。どちらにとっても同じ意味を持つ空間は存在しない。…他者危害の原則は、厳密には存在しないアトム・モデルに依存している。だから、他者危害の原則に従って自由を認められる行為は、厳密に言えばありえない。それなのに人格と行為のアトミズムという想定によって、自由主義の原則が組み立てられ、そのもとで「自由な行為」が存在を認められている。

「私と他者は、共同の中立的な空間の中のアトムではない」というのは、「私たちは、共に生きている社会的な存在である」ということの言い換えである。「個人」が、「社会」を離れて存在しうるかのような幻想をもって、「自由主義の原則が組み立てられ、そのもとで自由な行為が存在を認められている」のだとすれば、そのような自由な行為は存在しえない、と言わねばなるまい。だから、加藤が「他者危害の原則に従って自由を認められる行為は、厳密に言えばありえない」と言うのはその通りだと思う。正確に言えば、厳密に言わなくてもありえない。

(他者危害の原則(あるいは危害原理)については、法の射程と限界(1) 他人に迷惑をかけなければ、何をしようと自由なのか? も参照ください)。

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2番目の「私がダイヤモンドを掘り出せば他者に残されるのは残りのダイヤモンドである」について考えてみよう。これは「私が他者に何も働きかけなかったとしても、私の行為は他者と関わっている」ことの例として挙げられているのだが、他者危害の原則との関連で言えば、「他人に危害を加えることなく、私がダイヤモンドを掘り出して取得したのだから、あなたに文句を言われる筋合いはない」ということになろう。こんな主張を認められるだろうか。

さてここでダイヤモンドの代わりに、「鉱物」と称することにしよう。鉱物とは、

金鉱、銀鉱、銅鉱、鉛鉱、そう鉛鉱、すず鉱、アンチモニー鉱、水銀鉱、亜鉛鉱、鉄鉱、硫化鉄鉱、クローム鉄鉱、マンガン鉱、タングステン鉱、モリブデン鉱、ひ鉱、ニッケル鉱、コバルト鉱、ウラン鉱、トリウム鉱、りん鉱、黒鉛、石炭、亜炭、石油、アスファルト、可燃性天然ガス、硫黄、石こう、重晶石、明ばん石、ほたる石、石綿石灰石ドロマイト、けい石、長石、ろう石、滑石、耐火粘土、砂鉱。(鉱業法の対象鉱物:41鉱物)

鉱業法は、次のように定めている。

国は、まだ掘採されない鉱物について、これを掘採し、及び取得する権利を賦与する権能を有する。(第2条)

この法律において「鉱業権」とは、登録を受けた一定の土地の区域(以下「鉱区」という。)において、登録を受けた鉱物及びこれと同種の鉱床中に存する他の鉱物を掘採し、及び取得する権利をいう。(第5条)

ここで注目すべきは、「他人に危害を加えなくても、自由に採掘・取得すること」を「国が認めていない」ことである。そして「国が、その権利を賦与する権能を有する」としていることである。つまり自分の土地(私有地)であっても、このような鉱物は自由に自分のものとすることができないのである*1。これは、(民主主義国家においては私たち)が決めたルールである。地球に存在するこのような天然資源に関しては、当然の取り扱いであるように思われる。

この議論は2つの方向に拡張できる。一つは、国家に関してである。「鉱物を掘採し、及び取得する権利を賦与する権能」を、「国家」ではなく「国際機関」(国際資源管理機構)にする方向である。現状はかっての植民地主義に対抗する意味で「国家主権」を認める段階かもしれないが、「国際機関」とする方向が必要だろうと思う。それは、領土問題の解決にも寄与する。むろん既得権益の調整は困難であるが、国家エゴむき出しの縄張り争いに明け暮れているようでは、知性が疑われる(暴力団の抗争と同じ)。二つ目は、「鉱物」から「土地」への拡張である。どういうことかと言えば、「国(将来的には、国際資源管理機構)」が、「土地を利用する権利を賦与する権能を有する」とすることである。鉱業法の第1条は、「この法律は、鉱物資源を合理的に開発することによつて公共の福祉の増進に寄与するため、鉱業に関する基本的制度を定めることを目的とする」としているが、これにならえば、「この法律は、土地を合理的に利用することによつて公共の福祉の増進に寄与するため、土地に関する基本的制度を定めることを目的とする」ということになる。土地基本法がどうあるべきかを考える上では一つの参考になるだろう。

*1:土地の所有権の範囲は、「法令の制限内においてその土地の上下に及ぶ」(民法第207条)となっている。この法令の制限のーつが鉱業法に規定する鉱業権であり、鉱業権なしには、土地の所有者であっても鉱物を掘採し、取得することはできない