気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

キリストと姦通をした女/マックス・ベックマン

末永照和(監修)『20世紀の美術』(10)

新即物主義とはいかなる絵画か。

1920年代から30年代初頭のドイツにおける、克明な形態描写と社会批判的なシニシズム冷笑主義]を特徴とするリアリズム絵画の総称。…グループとしてのまとまりはなく、それぞれの画家の個別的な活動に終始した。…その絵画様式は、ドイツ表現主義やベルリン・ダダが分かち持っていた社会批判的側面を受け継ぐように、第一次大戦後のドイツの政治体制・社会風俗への風刺性を持つ。その厳密かつ冷徹な客観性を追求した表現には…ドイツ表現主義の主観主義や抽象的傾向への反発が込められていた。(現代美術用語辞典)

本書では、グロスの「技師ハートフィールド」、ディクスの「カード・プレーヤー(カードに興じる傷痍軍人)」、ベックマンの「キリストと姦通をした女」が取り上げられている。

Christ and the Woman Taken in Adultery / Max Beckmann 1917

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http://artsdot.com/Art.nsf/O/9H5PHH/$File/MaxBeckmann-ChristandtheWomanTakeninAdultery_St.Lou.JPG

 

今回は、絵画を離れて、このタイトル「キリストと姦通をした女」について見ていくことにする。

このタイトルを理解するのに、次の文章を読んでみよう。

イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派*1の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネによる福音書第8章1節~11節)

これによってキリスト教に誘われるのか、人生訓を得るのか、人さまざまだろうが、私はここで「法」の問題として考えてみたい。その前に、「イエスを試して、訴える口実を得るために~」という部分を、次の解説によって理解しておこう。(清弘剛生牧師、http://www.j-e-s-u-s.org/shoei/2011/20110313.htm

律法学者たちが提示した質問は、実に考え抜かれ周到に準備されたものでした。イエス様が「モーセの律法にあるとおり、彼女を処刑しなさい」と言ったらどうなるでしょう。彼らはイエスを「訴える口実」を得ることになります。なぜなら、建前としては、死刑を執行する権限は支配者であるローマ人が持っていることになっているからです。…ですから、もしイエス様がモーセの律法に従って死刑にしなさいと言うならば、ローマの権威よりもモーセの権威の方が上にあると主張する者、すなわちローマの権力に反逆する者としてでっち上げることができるわけです。ではイエス様が「死刑にしてはいけない」と言うならば、どうなるでしょう。イエスをあからさまにモーセの律法を否定する者として攻撃することができるでしょう。モーセの律法に背くことを公然と教える悪しき教師として訴えることもできる。いずれにせよ、イエス様は困ることになるわけです。

イエスは「死刑にせよ」とも「死刑にしてはいけない」とも言えない。どちらでも、律法学者やファリサイ派の人々に訴えられる。さあ困った。イエスさん、どうする? …知恵者イエスは言う、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」。これでうまく切り抜けた。しかし話はここで終わらない。

「罪無き者、まず石を投げよ」と言われたら誰も石を投げられなかった、というのは自然な展開のように見えます。しかし、ここで私たちは状況をよく考えねばなりません。ファリサイ派などの敬虔なユダヤ人の中には、「幼い時より律法は守ってきました」という自負を持っていた人は少なくなかったのです。皆が罪人であるというのは、必ずしも共通の認識ではありませんでした。もし「わたしは正しく生きてきました」という人が一人でもいて、その人が最初の石を投げたらどうなったでしょう。石打ちの刑には執行の仕方があります。証人が最初の石を投げます。それが合図となって皆が石を投げるのです。誰かが主の言葉に従って最初の石を投げたなら、他の人々もいっせいに石を投げ始めたことでしょう。そして、その場はたちまち凄惨な血の海と化したに違いありません。その結果、律法学者たちの目論みどおり、イエスがこの出来事を先導したのだと訴えたに違いありません。そのようなことは、十分に起こり得ることだったのです。

おやおや、イエスは危険な選択をしたのか。あなたがイエスの立場ならどうする?

 

ここで「キリストと姦通をした女」の話を、「法」の問題とすることができる。(いささか変形している)

  1. ルールAがある。(実定法)
  2. ルールBがある。(倫理/慣習/自然法
  3. 行為Cをすることは、ルールBに適うが、ルールAに反する。(処罰することは、実定法に反する)
  4. 行為Cをしないことは、ルールAに適うが、ル-ルBに反する。(処罰しないことは、倫理に反する)

問いは、「行為Cをするべきかどうか」である。

イエスの選択は、トリッキーなものであった。行為Cをするか、しないかの選択を迫られたのに対して、それを避けて問題を解決しようというのである。「もしあなたが行為Cをする資格があると思うなら、行為Cをしなさい」、これは自ら選択をせず、逆に相手に選択を迫ったものだ。だがこれは危険な賭けだ。相手が行為Cをすれば、イエスは行為Cを示唆/教唆したとみなされるかもしれない。

ではイエスがこの問題を真正面から受けとめようとするならば、どう考えるべきであったか。それはルールAとルールBの対立/矛盾(卑近な例で言えば、官僚が政治家の意思を忖度すること)を解消することである。但し、すべてを実定法にするわけにはいかないから、なかなか難しい面はある。意見(価値判断)の対立/差異をどう調整(克服)するか。…しかし、まずはルールが問題なのだと見定めることが肝要であろう。

 

ベックマンは「キリストと姦通をした女」というタイトルをつけた。その意図するところは分からない。律法学者やファリサイ派の人々の言動を「冷笑」したのだろうか。

*1:①キリスト時代のユダヤ教の一派。律法を厳格に守り、細部に至るまで忠実に実行することによって神の正義の実現を追求した。その結果、形式主義となり偽善に陥ったが、ユダヤ教を後世に伝承することになった。②宗教や道徳で、形式に従うだけで、内容をかえりみない人。偽善者。形式主義者。