浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

不平等論(11) 思いを超えてあってほしいという思い

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(15)

前回、稲葉は、「所有のみならず、権利一般に関して、周囲の同じ世界に共存している他人が認めようが認めまいが、人はある権利を持っているというふうに、多くの場合において言える」と述べていた。これは、①「普遍的な自然権」なるものがある。②「所有権」はそういう自然権の一つである(「汝盗むなかれ」は、「所有」を前提とする)。③「土地所有権」は、「所有権」の代表的なものである。という議論の仕方であったように思う。そして、ロールズも立岩も普遍的(超越的)な思考をしているのではないかと予想している。これをうけて立岩は次のように述べる。

 

立岩 人が権利を持つということがどの水準で言えるのかという問いがある。事実問題というか、実際には、人に権利があると言ったって、その権利をその権利として周囲の者たちが承認しないことには何ら実効性を持たないものにしかならない。これは事実問題として言える。その意味では、すべての人の合意であるか否かはともかく、まさに現実の現実性というか実現可能性の問題として、その権利と周囲の人々の承認とは同時に存在する。承認は権利の必要条件として存在するということは言えるだろう。これが一つ。これは良いも悪いもなくて、事実そうだろう。

例えば「表現の自由」という権利。周囲のものがそれを承認しなければ、何ら実効性を持たない。これは事実としてそう言える。ヘイトスピーチは、「表現の自由」として許されるものかどうか。

 

立岩 しかし、いま言った通りでありながら、人がいいって言わなきゃ人に権利はないのか。そうだって言いたくない。つまり、人が何と言おうと、自分のことをどう思っていようと、あるいはその人がどうであろうと、その人には権利なら権利があるよって考えたいというか、あるいは考えるべきだって思っているということがある。…つまり、一つ、事実として権利は人々の承認を待って初めて発効するというか実効力を持つということは自明である。しかしそれだけかというと、そうでありつつ、人の権利は、人が認めたり承認したり、好きだったり嫌いだったりすることと独立して存在するべきだと思っているし、ぼくも思っている。そしてそういうふうに思っているということ自体がわれわれの人生の中に事実として存在するのではないか。という3つくらいの話が合わさっているように思います。

立岩は、「人の権利は、人が認めたり承認したり、好きだったり嫌いだったりすることと独立して存在するべきだ」と言っている。稲葉が立岩も普遍的な思考をしているだろうという部分である。ただ第1点目の「人々の承認」の部分を見落とすべきではない。「普遍」を崇め奉っているわけではない。

 

立岩 つまり、あなたには権利がある、それは私らが承認することによって初めて発効する、しかしそういうわれわれの恣意・価値とは別個にその人に権利があると言いたい。次に、そう思いたい、考えたい私たちの気持ちというか価値というものは事実として――その根源がどこにあるかはわからないが――あるって言えるんじゃないか。

繰り返しではあるが、第3点目の「そう思いたい、考えたい私たちの気持ちというか価値というものは事実としてある」という点。これは、「他人が認めようが認めまいが、大事な価値(人権)がある、と思いたいというのは事実としてある」という意味だろうか。「普遍的な価値がある」と断定するのではなく、「普遍的な価値がある、と思いたい」のである。「普遍的な価値がある」と断定してしまうと、独断的な主義・主張になるが、そうではなく「そう思いたい」というのは、事実としてあるだろう、というところから出発する。

 

 

立岩 そういう意味で言うと、補足になるが、最近の、間近の関係性から何かを立てていくとか、親密圏といったことを一生懸命いってみるとか、あるいは承認っていうことをポジティブに出していくっていう話はたいへんよくわかる部分がありながら、しかしそういったものと別にあるべきだろう、あることを欲しているという別の側面を見ていないんじゃないか、と思うところがある、というのが補足です。

これはちょっと難しい。「親密圏」と「公共圏」の議論を知らないと、この話はおそらく理解できない。

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http://www.careforlife.org/images/children-participate-in-community-celebration.jpg?crc=3793114146

 

以下は、対談ではなく、後で追加された文章(補記)である。

 立岩 私たちは、「思いを超えてあるとよいという思いの実在」という位相を忘れたり、軽くみたりすべきではない。何か具体的なものを共有したりしていることによって仲良くなれることは確かにあるだろう。しかし、そんなことが多々あることとまったく同時に、自分がどのような自分であれ、認められたら良いという感覚もまた、現に、具体的に、存在する。であるのに前者だけを強調するのは間違っている。私がこれまで、「他者」と「私」について述べてきたことは、基本的に、普遍性につながっていく。

立岩は「思いを超えてあると良いという思い」と分かりやすく言っているつもりかもしれないが、果たして分かりやすくなったかどうか。私はこれは、先ほどの「普遍的な価値がある、と思いたい」という意味に理解した。それはただ単に「仲良くなる」ことではない。

 

立岩 個別の特性や関係を超えてあろうとする思いは、自分がしかじかの特性を有することを認めて欲しいとか、あるいは他人がしかじかであるがゆえに好きであったり嫌いであったりすることと同時に同時に存在する。ただ、しばしば人生にとって大切であることは後者の契機であるから、前者において、抽象的・普遍的に私が認められたとしても、ふられた私は少しもうれしくない。何の慰めにもならないというのはその通りである。だから世界から悲しみは決してなくならない。また、二つがあることを言ったとして、両者が並存・両立することを言えるとして、それは普遍的な権利が優先されることを意味しない。

「普遍的なもの」と「個別の特性や関係」、私たちの人生は、「普遍的なもの」を見(ようとしながら)、「個別の特性や関係」のなかにある。だから私は「普遍」と「個別」の両者を同時にみなければならないと思う。

 

立岩 これらをみな認めた上でも、やはり依然として、どのようにであっても大丈夫な方がよい、とは言える。それは世の不幸を取り去ることはないが(それが取り去られるのなら、そのときには幸福の相当の部分もまた取り去られることになるだろう)、しかし、なくすことができ、なくすべきでもある不幸は減る。だから、どのようにあっても、という欲望の現実性、強さを知り、それを言うことは意味のないことではない。(P195)

「どのようにであっても大丈夫な方がよい」とはどういう意味だろうか。この文章はよく理解できない。立岩の著作を読まないと分からないかもしれない。