浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「他人に迷惑をかけなければ何をしても良い」という自由の空しさ

加藤尚武『現代倫理学入門』(27)

加藤は、自由主義の原則を次の5つ(の条件)に要約していた。

①判断能力のある大人なら、

②自分の生命、身体、財産に関して、

③他人に危害を及ぼさない限り、

④たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、

⑤自己決定の権限を持つ。

今回は、最後の「自己決定」の話である。

第五の「自己決定の権限」という結論部分には、干渉の弊害という論点が加わるが、「統制を実行しようとする企てが、その防止しようとする害悪よりもいっそう大きな他の弊害をもたらす」という典型的な功利主義的表現で示されている。

ここで「干渉の弊害」というのは、「統制がもたらす害悪>統制が防止する害悪」であるから統制はよくないという主張である。しかし、なぜそう言えるのかの説明はない。

ミルが実際に危険視していたのは、政府による政治的な干渉だけではなくて、大衆の宗教的な狂信に基づく個人主義者への不寛容であった。

道徳警察とでも呼ぶべきものの権限を拡張していって、ついには個人の疑う余地のない合法的自由までも侵害するほどになるということが、人間のあらゆる性癖の中で最も普遍的なものの一つであるということを、豊富な実例によって明らかにすることは難しいことではない(ミル)

政府の話だけかと思っていたら、「大衆の宗教的な狂信」という興味深い論点が出てきた。しかし、これは「豊富な実例」によって明らかにしてくれなければ、わからない。大衆と個人主義者の個人とはどう異なるのか。「大衆の宗教的な狂信」は、「道徳警察」を意味するのか。「道徳警察」は、集団リンチを意味するのか。それが人間の最も普遍的な性質だというのは、どういう意味か。「大衆」と「個人」と「人間」、どういう関係にあるのか。こういうわけのわからない文章を引用して何の説明もなければ、私のような「倫理学入門者」には理解できない。

 

自由主義の考え方は、現実に世界でもっとも現実的な倫理基準である。この原則を頭に入れておけば、たいていの倫理問題には解決がつく[と自由主義者は言う]。しかし、この原理の内訳の一つひとつには、とても解決困難な難問がつきまとっている。

おかしな文章なので、「と自由主義者は言う」を補った。これで意味が通じないわけではないが、この文章もまったく分からない。現実的な倫理基準-何故そう言えるのか? 原理の内訳-それは何? 解決困難な難問-それは何? 

 

最近では自由主義に対する共同体主義(communitarianism)からの批判の声が高まっている。自由主義(libertarianism)は人間をアトム的な個体とみなしている。これに対して共同体主義は、人間をいつもどこかの共同体(community)に帰属するものと見なしている。例えば代表的共同体主義者の一人であるサンデルは、個人には、家族・共同体・社会関係が刻印されており、「負荷のない自己」(the unencumbered self)というアトミズムの個人観は幻影にすぎないという。共同体主義者は、価値を社会的なもの、共同体に基礎を置いたものとして考える。あらゆる価値が個人の経験する快楽や、個人の選好の充足にあるとは考えない。これに対して自由主義者にとっては、自由を守ることが正義であり、国家の存在理由なのである。ところが国家にできることは、方法としては自由を制限することでしかない。そこで国家の義務は自分を最小限にすることであるという「最小限国家」という考え方が自由主義国家観の中心を占めることになる。

共同体主義(communitarianism)については、別途詳細にとりあげたいと考えているので、ここでは省略する。

ここでいう自由主義は、リバタリアニズム(libertarianism)であり、自由至上主義の訳が紛らわしくない。リバタリアンの言う「自由」が具体的には何であるのかよく分からないが、加藤の説明では、どうも「自由を守ることが正義である」らしい(守るべき自由とは何?)。ただし、「自由を守ることが…国家の存在理由である」とか「国家にできることは、方法としては自由を制限することでしかない」が、何を意味しているのか分からない。

 

例えば、言論を自由にすれば間違った意見は淘汰されて。真理が明らかになるというのが「言論の自由」の擁護論である。自由は真理を発見するための手段である。これと反対に、たとえ俗悪な出版物が出る結果になっても言論は規制すべきではないという主張では、自由が目的となっている

言論の自由とは、「個人が直接にも間接にも抑圧を受けることなく自己の思想・信条・意見を公に発表できる自由」(大辞林)であるが、「真理」も関係してくるらしい。

 

典型的な自由主義的な信念によれば、各人の自発的な表現が総体として互いに他を説得しようと競い合う「思想の自由市場」(free market of ideas)を形成し、その自由競争の過程で真理が勝利し、真理に基づいて社会が進歩すると説かれる(思想の自由市場論)。正しい知識と真理は、各人の自発的言論が「思想の自由市場」へ登場し、そこでの自由な討議を経た結果として得られるものと考えられることから、表現の自由は真理への到達にとって不可欠の手段であるとみる。(Wikipedia)

思想/言論/表現が、自由市場で競争すれば、真理が勝利する、その結果社会が進歩する、などとは全く説得的でない。そんな自由市場がどこにある? 仮にあったとして誰が参加しているのか? 思想/言論/表現は、競争して勝ち負けを決するものなのか? なぜ真理に到達すると言えるのか? 真理って何?

「お互いの話し合いや、より良きものをめざしての切磋琢磨の活動が、より住みやすく楽しい社会をつくることになるだろう」とでも言っておけばよいのではないか。

思想の自由市場→真理→社会進歩という根拠なき推論で、「自由」を礼賛することがどういう結果をもたらすかを見ておく必要があるだろう。

この「思想の自由市場」に関しては、下記<補足>も参照ください。

 

自由という観念の中心には「何をしてもいい」という不確定さがある。「汝の欲するところを行え」という格律の中には、すべてを呑みつくす深淵のようなものがある。自由には、悪の許容という要素がある。他人に危害や迷惑をかけないなら何をしてもいいというのが、自由主義の中心にある考え方である。ここには積極的に何をすべきかということに、一言もふれまいとする覚悟がある。

他人に危害や迷惑をかけないなら、何をしてもいい。「自由」を声高に叫ぶ者は、これしかないのではないかと思われる。そして「他人に危害や迷惑をかけないなら」をよく考えず(軽視して)、「何をしてもいい」を重視する。端的に言えば、直接的に危害や迷惑をかけなければ、危害や迷惑をかけていないと判断し、自己および親密な仲間*1の利益のみを追求する行為を、「自由」の名のもとに肯定するのである。

次のネットワークのイメージ図をみてみよう。複雑な因果連鎖を見てとることが出来るなら、「他人に危害や迷惑をかける」ことが、決して単純なものではないことが了解されよう。

f:id:shoyo3:20170510181855j:plain

http://array.cell-innovator.com/wp-content/uploads/2015/01/Network_image_GeneMANIA.png

 

引用の最後に、「ここには積極的に何をすべきかということに、一言もふれまいとする覚悟がある」というのがあった。これはちょっと考えてみなければならない。…これは「積極的に何をすべきかを言うべきではない」と言い換えられるだろう。何をするかは各個人の自由だから、「特定の個人の主張を採用して、他の主張を排除すべきではない」ということだろう。これは一見もっともらしい。賛成する人も多いだろう。しかしここには、一人前の知性を持った人間が想定されている。だがあらゆることに通じた人間などいるはずがない。私たちは、社会の中で他人とともに生活している。お互いに協力しながら生活している(なぜ食事をとることが可能なのかをちょっとでも考えてみればわかる)。ということは、お互いに話し合い(議論、対話)しながら、より良き生活をめざしている。だから、何をすべきかに関しても、一人で考えているのではなく、お互いに話し合っているのである。だから「私はこうすべきだと思う」、つまり「積極的に何をすべきかを言う」ことは、社会生活では、まったく当り前の行為だと思う。だが、リバタリアン自由至上主義者)は、「積極的に何をすべきかということに、一言もふれまい」と覚悟するらしい。まったく異様な覚悟に思える。(なお、特定個人の主張が強制されるべきではないことは言うまでもない。)

 

立法の原理と個人倫理がともに「自由の承認」をめざし、それによって社会的に許容された無数の自由な行為が富をもたらす。それ以外には何もない。

「社会的に許容された無数の自由な行為」により、「富がもたらされる人々」に都合の良い「立法の原理と個人倫理」が主張される、これが自由至上主義ではなかろうか。なぜそう思うかと言えば、現実の格差と貧困に苦しむ者、悲惨な労働環境(一部ではあろうが)、ひたすら自己の利益を追い求める人(拝金主義者、貪欲な人)がなくならないからである。

 

自由主義というのは、要するに「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という思想である。密室でポルノを見る。危険なスポーツをする。宗教上の理由で輸血を拒否する。自己決定権が最高原理なので、人格の完成目標、万人の持つべき美徳の目録は要らなくなる。

「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」というのは、私は「未熟な人間」の言い分だと考えている。未熟な人間というのは、他者のことを考えないで、自己(および親密な仲間)の利益のみを考えるエゴイストである。

 

コミュニタリアンで最近特に有名なマッキンタイヤーの主張は、次の言葉によく示されている。

三世紀にわたる道徳哲学の努力にもかかわらず、依然として、自由主義個人主義には首尾一貫した合理的な弁明がない。他方、アリストテレス的伝統に従えば、道徳的・社会的態度とコミットメントに合理性を回復することができる。(マッキンタイヤー)

 道徳哲学がどういう努力をしてきたのかは知らない。アリストテレスに回帰するらしいマッキンタイヤーの主張にも同意できない(アリストテレス的伝統というものがどういうものか分からないので、正確には保留なのだが)。

 

すなわち、自由には文化の質を向上させる要因があると信じたミルの啓蒙主義は、大いなる誤算だったと言っている。むしろ、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という自由の空しさ(否定性)は、文化を退廃と混迷へと導いている。マッキンタイヤーのこの主張は正しい。ミルの期待に反して、自由主義と理想主義はひとつに重なり合わなかった。愚行権を認めることが、人生をひとつの愚行に終わらせる危険をはらむことが、見えてきている

私は、リバタリアンの言う自由は空しいとは思うが、「文化を退廃と混迷へと導いている」とまで言えるのかは疑問である。

愚行権を認めることが、人生をひとつの愚行に終わらせる危険をはらむことが、見えてきている」、これは面白い言葉だ。「人生はひとつの愚行に終わってよい」、それがリバタリアンの自由というものである。別に「危険」でもなかろう。ある意味、愚行に終わらない人生などあるものか、と思ったりもする。

 

自由主義は不毛に終わったが、共同体主義の主張である徳の倫理学は未来に富んでいるというわけだ。しかし、個人の自由を共同体的な価値として認めるという立場の共同体主義者も多い。したがって、自由主義を実際に運用するときのさまざまな問題点を、共同体主義者が解決したとは言えない。我々は、場合によっては、さまざまな欠点をさらけだす自由主義を、なんとか使いこなしていかなくてはならない。

共同体主義(communitarianism)については、別途詳細にとりあげたい。

加藤は、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という自由の空しさ(否定性)は、文化を退廃と混迷へと導いている、というマッキンタイヤーの主張は正しい、と言いながら、ここでは「自由主義を、なんとか使いこなしていかなくてはならない」と言う。何故だろうか。

 

(補足)言論(思想)の自由市場(free market of ideas)

加藤によれば、リバタリアン自由至上主義者)は、「言論を自由にすれば間違った意見は淘汰されて。真理が明らかになる」から「言論の自由」を擁護するらしい。これは詭弁か、希望的観測か?

大谷卓史によれば、

ホームズ判事(米国最高裁判事、1841-1935)は、人間は判断や意見を誤るから,自由な言論によってそれを正していくべきだという言論の自由市場論を唱えた。…ホームズの説には,プラグマティズムにおける,認識論における可謬主義と組み合わさった真理の実在論の反響が聞こえる。…「言論の自由市場」の比喩には,限界があるように思われる。第一に、言論の自由市場でもまた市場の失敗がありうるかもしれない。そうすると,この市場の失敗を補うために,政府が介入すべきという議論が登場することになるかもしれない。…第二に、言論の自由市場の比喩は,多数決によって意見の真理が決まると述べているようにも思われる。すなわち,オープンかつ公正な場で言論が競い合うことによって,人々の評価によって,ある言論(意見)がより多くの支持を受けることで,よりよい言論が何であるか明らかになるのだと,この比喩はいいたいように思われる。…そうすると,芸術や学問的言説の価値は多数決によって決まるという帰結を導かないだろうか。

言論の自由市場の比喩は,超越的観点から言論や芸術の価値を独善的に判断することは不可能であり,かつ望ましくないので,人々の目に触れる公開の場から事前に排除してはならないという含意は評価できても,多数決や購買のような多数者の支持によって(のみ)言論の価値が決まるかのようにみえる点は,理念的にも現実的にも,言論や芸術の価値判断について誤解を招きかねない面があると考える。(大谷、https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/59/10/59_699/_pdf

「超越的観点から言論や芸術の価値を独善的に判断することは不可能であり,かつ望ましくないので,人々の目に触れる公開の場から事前に排除してはならない」というのは、その通りだろう。これを「自由市場」に喩えるから話がおかしくなる。なおかつ「真理」云々は、大谷の言う通り誤解を招く。

*1:親密な仲間…家族、同じ趣味を持つ人たち、同じムラの人々、やくざ集団、自分が所属する会社、自分が所属する国など。