末永照和(監修)『20世紀の美術』(12)
美術史を語ろうとするなら、サルバドール・ダリ(Salvador Dalí、1904-1989)は外せないだろうが、私は「好み」で作品をとりあげているので、これはパスする。
今回とりあげるのは、ハンス・ベルメール(Hans Bellmer、1902-1975)である。
私は、次の解説が気に入った。
ハンス・ベルメールは、画家であり、版画家であり、グラフィックデザイナーであり、写真家であり、人形作家である。…その人形もアナグラム的な遊びの要素の広がる球体関節という人を食ったふざけた装置を幾つも持つ人形である。球体を接合装置として、腕と脚の場所を付け替えたり、手と足を入れ替えたり..その接合とパーツの組み換えによりバリエーションもたくさん出来る。…ハンス・ベルメールは精神病理学にかなりの知見を持っており、どうやら肉体パーツの置換という発想、方法論はそこから帰結している。見慣れたものを解体し再度、観させること。そこで初めて、単なる透明化した「脚ー意味」が思わぬ物質性を帶びて出現する。安定した主客関係、主体ー対象関係を打ち砕き、主体ー他者関係を浮き彫りにする装置としての「球体関節人形」…「他者」とはまた「驚き」であり、「偶然性」を絶えず生産する。それは時として主体を脅かす。ベルメールの人形少女は「対象」ではなく「他者」として存在し続ける。人形とは古来からそういうものとして存在してきた。
ハンス・ベルメールは人形そのものを表した作家だ。ほんの数体の球体関節人形を作成し、それを最適な場所で写真に撮って発表した。そのむき出しの人形に驚愕した芸術家はみな、人形を作り始めた。又は人形に成り始めた。球体関節による接合バリエーションは次々に新たな、はじめての少女人形を出現させる。人形はさらに自由度・自在性を増し、ドローイング[素描]や銅版画の優美でシャープな線で増殖する。球体関節は万能である。もはや、名状し得ぬグロテスクな肉塊にまで少女人形は肥大する。ベルメールの狙い通りに。いや彼はこの世にイデアに通じる口を開いた、と言える。「人形」というものが何であったか、の定義から完全に放たれ、ベルメール曰く、突発的な他者として現在する人形。(koichi sato、http://dicipline2000.blogspot.jp/2014/05/blog-post_23.html)
ご承知の通り、アナグラムとは「単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊び」(wikipedia)であるが、人体をアナグラムするとは面白い。それが異形(いぎょう)となるからといって、気味悪いものになるとは限らない。人体のリストラクチャリングと言ってもよい。新しい意味が現出すれば、それはグロテスクなものではない。リストラされた人体は、「他者として現在する人形」である。
清水真理(多摩美大卒)の作品をみてみよう。
作品1
http://ginzanews.net/wp-content/uploads/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E7%9C%9F%E7%90%86%E3%81%95%E3%82%931.jpg
作品2
作品3
https://www.youtube.com/watch?v=7gvgO1jwCTo
清水真理は言う。
1924年、アンドレ・ブルトンがシュルレアリスム宣言を発表、
1934年、ハンス・ベルメールが自作の球体関節人形写真集「人形」を自費出版で発表。
機械の世紀と呼ばれる20世紀、同時に精神分析により無意識の世界は解放された。かつて神は人を作り、人はひとがたを作った。世界大戦で生命崇拝やモラルは死んだ。人は新たな神を生み出し、神は人間を模倣する。
そしてシュルレアリスム宣言から80年の2014年、今私の脳裡に投影されるのは、あらゆる宗教や哲学を超え、人類・動物・植物等あらゆる生命体が共存する楽園、新時代のイコンである。
(銀座ヴァニラ画廊における清水真理個展「ポップ・シュルレアリスム宣言」(2014/1/20-2/1)より)
作品3は、次のビデオからとったものである。
清水の球体関節人形*1が、「緑豊かな自然」の中に置かれる。この布置の発想は、セーラー服おじさんのものかもしれないが、koichi satoのいう「最適な場所」であるように思われる。都会の喧騒の中に置かれては意味がない。
人形を構成するものは、作品1のようにその内容が虚無あるいは不可視あるいは原子共同体*2である。だとすれば、人形は異次元の存在ではなく、「自然」と(シュールに)調和する。それはまさしく自然のなかに存在するイコン*3であるだろう。