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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

「生きる意味」のクリティカルシンキング

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(14)

今回は、第4章 「価値観の壁」をどう乗り越えるか 第4節 倫理的懐疑主義 および 第5節 倫理的懐疑主義への回答(一部)である。「生きる意味」のような価値主張に対して、「各人はどのような価値観を持とうと自由だ」として中立的な態度(放置/傍観/認容)をとっていれば良いのか。そうではなく、そのような価値主張もまともにとり上げて、批判的に(論理的に)検討すべきか。私は、価値主張に対して中立的な立場に立つことが、悲惨な結果を招くことがあるのではないかとの疑念を抱いているので、価値主張を批判的に(論理的に)検討すべきだと思う。

 

倫理的懐疑主義

倫理的懐疑主義とは、何が善いか、何をするのが正しいかに関する主張に対して、本当にそれが善い(正しい)のかどうか疑う、という立場である。…倫理的懐疑主義は常識を疑う。本当に約束を破るのは悪いことなのだろうか。同じような懐疑は他のタイプの価値主張、例えば美的主張についても成立する。しかし「これは美しい」「これはかっこいい」という類の主張が間違っていたとしても、別にそれほど困ることはない。しかし、「この行為は悪い」といった判断は、自分や他人の行動を縛ったり導いたりするために使われるもので、それが間違っているとなると我々の生活に大きな影響がある。その意味で、倫理的懐疑主義は特に大きな関心の対象になるのである。

 

伊勢田は、倫理的懐疑主義への回答として4つあげている。では倫理的懐疑主義が提起する問いとは何か、明確ではないように思われる。そこで、以下の4つの回答から、「問い」を考えてみた。それは、「あなたは、それを善い/正しいと主張するが、疑わしい。なぜそう言えるのか? その根拠は何か?」という「問い」である。

 

回答1:倫理的ルールの普遍性

基本的な倫理問題については、文化間や哲学上の立場の間で大きな食い違いはない。

例えば、「人を殺してはいけない」というようなルールは、いかなる文化/哲学であろうと、善/正であると認められている(普遍的である)。もちろん例外はある。但し、その例外は、

例外として、条件が明確に規定されたうえで認められるものである。これが例外として定められるということは、逆に例外以外のところでは規則が存在するということでもある。

よく例外を持ち出して(あるいは些細な部分をあげつらって)相手を論破した気になっている人がいるが、それはあくまで「例外」である。例外を承知で議論しているとすれば非生産的(敵対的)であるし、例外であることを知らなければ、無知である。ここから話を一歩進めようとするならば、論点はその例外をどのような条件で認めるか、ということになろう。ルールづくりの要諦は、原則を定めたうえで、例外をいかに定めるかというところにある。

私は、ここで言う「基本的な倫理問題」云々については、個別具体的にどのような内容のものであるかが明らかにされてのみ説得力を持つと思う。内容不明確な「基本的な倫理問題」の普遍性を言うことはできない。

 

回答2:倫理的ルールの合理性

これはいわゆる「社会契約」のかたちをとることが多い。…利他的な行動やお互いの権利を尊重する行動を要請する規範は、一般に社会契約による正当化が可能である。

「合理性」という見出しがついているがこれはよく分からない。回答としては「社会契約」であろう。そうすると、これは「私たちは、これを善い/正しいと考える」という明示ないし黙示の合意がある、と考えることができる。ならば、そのような「社会契約」があったとしても、「合理性」があることを意味しない。

伊勢田は、倫理的主張を正当化するのに合理性に訴えるのは両刃の剣である、と言っているが、これはよく分からない。

 

回答3:懐疑主義を回避する

倫理的懐疑をまじめに受け取ると何もできなくなってしまうので、まじめに受け取ることはできない。

これは、回答1,2と異なり、「何故そう言えるのかの根拠」を示すものではない。「あなたは、それを善い/正しいと主張するが、疑わしい。」という懐疑そのものを否定/拒否するものである。しかし、「極端な」懐疑でなければ、まじめに受け取らなければならない。さもなければ、これは「話し合い」(対話/議論)拒否である。「まじめに受け取ることができない」と言うためには、「極端な」懐疑であることを説得しなければならないだろう。

 

回答4:あなたのほうが先に説明せよ

伊勢田は、「文脈主義と立証責任」という小見出しをつけ、「文脈主義」を回答4としている。これは「あなたは、それを善い/正しいと主張するが、疑わしい」に対する回答であろう。すなわち、「文脈によって、善い/正しさは変わってくる。わたしは、善い/正しいと考えている。あなたがそうではないと言うのなら、あなたの方が先に善くない/正しくないと説明せよ」という回答であろう。これは実質的な内容(根拠)の検討に入る手続面での対立であるから、「立証責任」に対する合意を得る必要がある。

 

以上みてきた通り、懐疑主義の問いに対する回答としては、極めて不十分なものと考えられる。ではどうすれば良いのか。伊勢田は、CT(クリティカルシンキング)の手法が使えるという。

 

価値主張のクリティカルシンキング(CT)の手法

倫理的規範をはじめとする価値主張を批判的に検討するにはどうしたらいいのだろうか。

これが検討課題である。

こういう問いかけに対し、価値主張というのは趣味や価値観の問題に過ぎないからCTの対象にならない、と答える人も多い。偏見かもしれないが、科学におけるCTの手法を学んだ理系の人のほうに、こういう反応をする人がかえって多いように思う。

「趣味や価値観」は、芸術と同様、論理的な批判の対象になるものではない、つまり批判的に検討することができない、と考える人は多いと思われる。数理モデルが好きな文系の人間も「価値観」(価値判断)を棚上げにする傾向にあるように見受けられる(単純な仮定で、きれいなモデルをつくる)。

しかし伊勢田は、「全面的に価値主張に関する懐疑主義を採用したり、逆に全面的に懐疑主義を放棄したりしない限りは、価値主張についてもCTは可能である」と言い、以下CTの手法を解説する。

 価値主張のCTには、基本的に4つの視点が必要である。

  1. 基本的な言葉の意味を明確にする。
  2. 事実関係を確認する。
  3. 同じ理由をいろいろな場面にあてはめる。
  4. 出発点として利用できる一致点を見つける。

 

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https://partner-web.jp/article/?id=410

 

ここで、価値主張の例として、「生きる意味」がとりあげられる。

「生きる意味」は、宗教、文学、哲学等の永遠のテーマかもしれない。「生きる意味は、~にある」「~という生き方が望ましい」等々、表現はさまざまである。前回、伊勢田は「価値的な議論は必ず価値的な前提を持つかたちに整理することができる」として、次のような式をあげていた。(価値主張の無限連鎖 参照)

[式4-4](大前提)有意味な生活を送るのは望ましい。(小前提)Xという生き方は有意味である。(結論)Xという生き方をするのは望ましい。

価値前提は、「有意味な生活を送るのは望ましい」である。では、有意味な生活とは何か。

 

視点1:基本的な言葉の意味を明確にする。

「生きる意味」とか「有意味な生活」という言葉は、辞書的定義をするのもむずかしいし、哲学的定義はさらに難しい。…一つとれる方策としては、「生きる意味」という言葉の記述を、タマネギ[の皮]を一枚一枚むくようにすこしずつ薄くしていって、一致できる記述を探すことがある。薄い記述は、どういう分厚い記述が受け入れ可能かを決定するための出発点としての役割を果たす。一致できる薄い記述がいったん決まったら、だんだんそれを厚くしていく。この過程のどこかで意見の食い違いが出てくるだろう。一般に薄い記述を厚くするには二つのやり方がある。

 前回、薄い記述と分厚い記述の解説があった。次のような意味である。

薄い記述というのは、ある言葉のさす対象についての骨組みだけの描写のことであり、分厚い記述というのは、豊かな内容を伴った描写のことである。…薄い記述の典型は言葉の定義(辞書的定義、哲学的定義、操作的定義など)であり、定義にもっと具体的な内容を足したものが分厚い記述になる。

前回、私は「物事を理解するには「分厚い記述」が必要だろうと思う」とコメントした。しかし、「薄い記述は、どういう分厚い記述が受け入れ可能かを決定するための出発点としての役割を果たす」。うーん。なるほど。薄い記述にこういう役割があるとは、これまであまり考えてこなかった。「薄い記述」(骨組み)で一致する。そうすれば、そこを出発点として話が弾む(議論が展開する)。では、この薄い記述をどのように厚くしていくのか。伊勢田は二つの方法があるという。

まず一つ目の方法:

一つは薄い記述を満たすものについて調べるというやり方である。例えば、「私の年齢」という言葉の薄い記述(というより定義)としては「私が生まれてから現在までの年数」というあたりは誰でも認めるであろう。そして、この薄い記述を満たす年数は、と、具体的に私について調べると、例えば「26」という数字が出てくるわけである。このようにして記述を厚くする際に意見が食い違うのは、言葉の意味で意見が違っているわけではない。年齢という言葉が「生まれてから現在までの年数」だということについて一致があったうえで、その年数が26か36かで意見が食い違うのなら、私の出生の記録など、経験的データに基づいて食い違いを調停することができるはずである。

次に二つ目の方法:

もう一つは、薄い記述にさらに新しい条件を付け加えるというやり方である。例えば、「カレーライスとは何か」と聞かれて、「食べ物の一種だ」と答えた場合、確かにこれはカレーライスの薄い記述にはなっているが、十分な記述ではない。そういうときには「ご飯の上にカレールーをかけたもの」という新しい記述を足して記述を厚くする必要があるだろう。こういう場合、「いや、カレールーでなくてもカレー粉をいためてご飯にかければそれはカレーライスだ」とか、「いや、じゃが芋と人参とタマネギが入っていないものはカレーライスではない」とかと意見が分かれるかもしれない。この段階で意見が分かれるなら、これは言葉の意味に関する食い違いである。なぜそう思うのかについての意見を戦わせることはできるが、一致は期待しないほうがいい

ただ、本当に純粋に意味の上での違いなら、言葉の用法について共同の取り決めをしさえすればよい。哲学者がよく使う手管[手段]としては、対立する用法は記号をつけて区別する。例えば、カレーライスという言葉の意味についていくつかの立場があるなら、それぞれを「カレーライスa」「カレーライスb」「カレーライスc」などとやって区別し、混乱を防ぐのである。

 どうだろう。分かったような、分からないような…。

第一の方法…例えば、誰かが「音楽は素晴らしい」と言い(キンモクセイのアルバムに『音楽は素晴らしい』というのがある)、私もそれに共感し話が弾むとする。この「音楽」という言葉の「薄い記述」(定義)は、どういうものだろうか。

音楽の定義に次のようなものがある。

・音楽とは、音による芸術である。

・音楽とは、音による時間の表現である。

・音楽とは、人間が楽しめたり、意味を感じたりすることのできる音全体のことである。(Wikipedia)

 この定義(薄い記述)を満たすものとして、いろいろな曲をあげることが出来よう。そうすると「ああ、音楽とはこういうものなんだ」と了解できよう。ここで極端な例をあげると、『4分33秒』 (John Cage)のような曲がある。(音楽作品の客観的存立とその解釈 参照)

こんなものは音楽ではない、という人も多いだろう。しかしケージは「意味を感じている」。彼の音楽の定義は、

・音楽は音である。コンサートホールの中と外とを問わず、われわれを取り巻く音である。(Wikipedia)

いずれにせよ、この薄い記述(定義)を満たす具体的なものをあげていくと理解が深まり、話が弾む(議論ができる)。

 

第二の方法…「新しい条件を付け加える」は、音楽の場合、どうなるだろうか。「カレーライスa」「カレーライスb」「カレーライスc」のような例示を見ると、音楽ジャンルがこれに相当するのかなと思う。

音楽の「ジャンル」とは音楽の様式や形式のことである。例:クラシック音楽交響曲、独奏曲、歌曲、オペラなど)、ポピュラー音楽 (ジャズ、ロック、フォークソングR&Bテクノポップなど)、民族音楽ワールドミュージック)(アラブ音楽、ヒンドゥースターニー音楽、インドネシアの音楽、純邦楽、ブラジル音楽 など)(Wikipedia)

私は、イージーリスニングとかインストルメンタルが結構好きなので、これも「代表例」にあげてくれよと言いたいのだが、こういう話をしていけば、「厚い記述」になっていくのだろう。

 

「生きる意味」の定義(薄い記述)

さて、それでは「生きる意味」という言葉について、誰もが一致できる薄い意味を特定することはできるだろうか。

ここで、伊勢田はメッツ(米、哲学者)の議論を紹介している。メッツは、「[生きる]意味」という言葉の意味[定義]として、3つの候補を考える。([式4-4]の大前提は「有意味な生活を送るのは望ましい」であった)

① 何らかの価値ある目的を達成するために行動する

西洋の伝統的考え方なら「価値ある目的」の具体的な内容(分厚い記述)として「神の計画」が入ることになり、近年の考え方では「自分で立てた目標」が「価値ある目的」となる。そして、両者の間では、「神様とはいえ見ず知らずの他人が立てた計画に従うのが本当に価値あることだと言えるのか」「自分で立てた目標なんてそんないい加減なものに価値があるのか」というかたちで、「かみあった議論」が可能になる。ここで注目してほしいのは、共通要素としてある薄い記述を特定したからこそ、それまでどうやって論争していいかすらわからなかった二つの立場が論争の手掛かりを得た、というところである。これだけでも大きな前進である。

② 何らかの価値ある仕方で自分を超えることをする

典型的には神様とつながったり、子孫や仕事を痕跡として後の世代に残すことが「超える」こととみなされる。

③ 自信や尊敬に値することをする

自分の生活が神の計画の一部だと考えることで自信を持つことが出来るし、倫理的に生きること、自分が生きた痕跡を残すこと、すべて自信や尊敬の根拠となりうるだろう。

以上三つの薄い記述[定義]は、重なる部分もあるけれども、それぞれ「[生きる]意味」という言葉の別の解釈である。例えば「[自分を]超える」ことを生きる意味の本質的な要素だと思う人からすれば、自分で立てた目標を実現するのが生きる意味になりうるという主張は不可解なものとなるだろう。従って、「私が生きる意味は何だろう」と思い悩む人は、まず、例えば自分がこの三つの候補のうちなら、どの意味での「[生きる]意味」に関心があるのかをはっきりさせたほうがよいだろう。

「生きる意味」についてどう考えたらよいか皆目見当がつかない人は、最初の手掛かりとして、メッツの3つの候補を考えてみたらよいかもしれない。あるいはまた「私はこう思っている」という信念があったとしても、このような考え方をする人がいるということを知っておくべきだろう。さもないと独断主義に陥る。

 

さて、「有意味な生き方」の薄い記述がある程度固まってきたら、もとの三段論法の大前提(「有意味な生活を送るのは望ましい」)との調整も必要になってくるだろう。例えば、右のような考慮の結果、「有意味な生き方とは、何らかの価値ある目的を達成するために行動する生き方をさす」と(言葉の意味の問題として)認められたとしよう。そうすると、何らかの価値ある目的を達成するために行動する生き方が本当に望ましいかどうかを考え直す必要が出てくるだろう。もしこの大前提が否定されたら、例えば神の計画にしたがって生きることが「何らかの価値ある目的を達成するために行動する生き方」にあてはまるとしても、最終的にはそんな生き方は望ましくないことになってしまう。

逆に、「有意味な生活を送るのは望ましい」という大前提はゆるがせにできないと考えるなら、それに応じて、望ましい生活だけが有意味になるような薄い記述を選ぶ必要があるだろう。従って、「何らかの価値ある目的を達成するために行動する」という生き方が絶対に望ましいと思えないなら、それが有意味にならないような記述を選ぶことになるだろう。こうした要素が入ってくるために二次的評価語[一見価値主張でないように見えて実は価値主張を背後に含んだ言葉]についての意味の食い違いは調停するのが難しい。「カレーライスa」「カレーライスb」といったやり方で「生きる意味a」「生きる意味b」などと記号をつけて手打ちとはなかなかいかないのである。

価値主張の前提となる大前提に使われる言葉の定義(薄い記述)をする(視点1:基本的な言葉の意味を明確にする)も、見てきたように、なかなか難しいものがある。だが、最初に一致点を見いだすべく「薄い記述」を試みることは大事なことである。そこから話し合い(議論)が始まる。

 

(メモ1)定義について

今回の記事を書くにあたり、定義について、wikipediaをみていたら、なかなか面白いものがあったのでメモしておこう。

厳密な定義のためには、「対象を種として含む類」および「対象を他の種から区別する特徴」を述べればよい。前者を最近類、後者を種差という。(wikipedia)

 言葉を定義するとは、このように最近類種差を述べることだという。なお、最近類とは「ある概念のすぐ上位にある類概念」(デジタル大辞泉)のこと。(なお、は種の集まりであり、は類の構成要素である。複数の類を構成要素とする上位の類を考えることもできる。このとき下位の類は、上位の類にとっての種である)。

定義の例(種差と最近類で定義されている):

・トラとは、黄色地に黒縞のあるPantheraである。

・人間とは、理性的な動物である。(wikipedia)

 「人間」をこのように定義すると、「理性的」ってどういう意味? 「動物」って何? というような質問が出る。「科学的な議論」をしようというのであれば、このような質問はあるだろうが、そうでなければ「そうだね」と相槌をうって、話をすすめることになる。

 

(メモ2)生物の分類

分類学という学問分野があって、なかなか興味深い。「」という階級分類がないことに注意。定義に関して言えば、このような階級分類を考慮すると、「種と類」ではなく、「要素と集合」と言ったほうが良いかもしれない。

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(Wikipedia)

 

は長らく、最上位の階級で、動物界と植物界の2つのみが認められてきた(二界説)。この考えは現在でも一般社会では広く通用している。しかし、19世紀末からさまざまな界が新設され、特に20世紀末以降は、界分類の再編が日常的に唱えられている。(Wikipedia)

キャバリエ=スミス (1998) は、細菌界、原生動物界、クロミスタ界、植物界、菌界、動物界の修正六界説を唱えている。

 

(メモ3)内包と外延

内包(Intension)はある概念がもつ共通な性質のことを指し、外延(extension)は具体的にどんなものがあるかを指すものである。…例えば「芸術」という言葉は、「自己表現」「人間活動」などの属性を内包とするのにたいして、「演劇」「音楽」「絵画」「彫刻」「文学」などの非属性を外延として指す。(Wikipedia)

先ほどの薄い記述を厚くしていく第1の方法:「薄い記述を満たすものについて調べる」は内包に、第2の方法:「新しい条件を付け加える」は外延に対応しているように思われる。