気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

エコール・ド・パリのマルク・シャガール

末永照和(監修)『20世紀の美術』(13)

今回は、第5章 両大戦間の国際的動向 である。内容は、エコール・ド・パリ、パリの抽象美術、イギリスの抽象美術、メキシコ壁画運動、アメリカン・モダン、第二次大戦下の美術。…しかし、ざっと見た限り、とり上げたいと思う画家はいなかった。でも、シャガールくらいはとり上げてもいいかな。

西洋美術の観点からは、どういう時代であったのか。

1914年8月に勃発した第1次世界大戦は4年間続き、その傷がようやく癒えた1920年代にはヨーロッパの各都市は空前の好景気と自由の時代を享受する。とりわけ「芸術の都」パリの繁栄は頂点を迎えることになる。第1次大戦前後から、セーヌ左岸のモンパルナスが芸術家たちの生活と制作の場となっていたが、画家や彫刻家だけでなく、前衛を志す作家、詩人、評論家、画商、舞踊家、音楽家らがカフェやアトリエに集い、交流を深めていた。こうした芸術分野を横断した交流をもっとも象徴的に示したのは、1917年5月18日、セルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団によってパリのシャトレ座で初演されたバレエ「バラード」であろう。詩人ジャン・コクトーの台本にエリック・サティが音楽をつけたこの舞台では、ピカソが幕と衣装などの舞台装飾を担当したのである。

彼らの作品に魅力はないが、エコール・ド・パリという言葉は教養程度に知っておきたい。

両大戦間のパリには、ダダやシュルレアリスム、抽象のような新しい前衛美術傾向以外に、具象的な世界を追求した「エコール・ド・パリ」(パリ派)と呼ばれる芸術家グループが存在した。この動きは、明確な美学や主義を表明したわけではないが、伝統的な美術を逸脱し、自分本来の造形世界を求めたものである。含まれる芸術家の国籍や作風は多様で、その中核をロシアや東欧から1910年前後にパリにやってきた異邦人が占め、貧しくかつ「エコール・ド・ジュイフ」(ユダヤ人派)とも呼ばれるほど多数がユダヤの血を引いていた。その作風には、表現主義的傾向、メランコリックな叙情性を挙げることもできるが、彼らはパリで遭遇したフォーヴィスム表現主義的傾向を咀嚼しながら、自らの国民性、民族性に根差した造形精神を忘れず、各人が独自のスタイルを確立していく。作風は多様でも、この街の芸術的、創造的な雰囲気を享受したことで生まれた傾向であり、まさしくパリが媒材となった「エコール」(流派)との呼称がふさわしいのである。

本書がとりあげる画家は、モーリス・ユトリロアメディオモディリアーニ、シャイム・スーティン、マルク・シャガール、ジュール・パスキン、マリー・ローランサンマン・レイ(写真)、藤田嗣治(つぐはる)である。

 

マルク・シャガール

白ロシアのヴィデブスクに生まれたユダヤ系で、母国でアカデミックな美術教育を受けた後、1910年にパリに来た。…この街でフォーヴィスムの色彩やキュビスムの空間表現に影響を受けながらも、現実と夢、追憶が共存した独特の哀調を帯びた色彩による幻想的な画風を獲得した。

シャガール(1887-1985)がどういう時代に生きたのかを抜きにして、以下の幻想的とも思える絵は印象深い。

1.杯を掲げる二重肖像

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2.エッフェル塔の新郎新婦

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3.街の上で

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シャガールという人物の来歴を知ってみると、その時代・場所を背景とした、妻ベラへの愛を描いたものだと了解される。

シャガールは、シュルレアリスムに共感を持てず、自分のことを「シュルレアリストと呼ばないで欲しい」と語っている。アポリネールは彼の作風を“シュルナチュラリスム(超自然主義”と呼んだ。(wikipedia