浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

国家論の禁じ手? なぜ、「なぜ?」と問わないのか? 仕事しかしてないよ……

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(17)

今回から、第4章 国家論の禁じ手を破る に入る。

立岩は、国家を論ずるのに2通りの考え方があると言う

立岩 一つは、今ある国家の現状なり成り立ちの説明(事態の説明)。どういう力関係で今の政策決定なりが成り立っているのか。…もう一つは、強制力を必要とするのかしないのかという問いを立ててみて、それは何かしら必要であろうと言うことが出来れば、それを担うのが国家であると言うことができる。その強制力を行使してまでしなきゃいけない仕事っていうのが何なんだ、という規範論的な仕事がある。何をしちゃいけないのか、してもいいのか、するべきか、そういうスタンスでものを考えることもできるだろう。ぼくは、前者、実証的なきちんとした仕事をするだけの力量がないし、これからもたぶんないだろうから、後者、国家がする仕事は何だろうという問いを考えようと言う戦略です。

規範論的な国家論というのは興味深い。…ここで注意すべき点が2つある。1つは、現実を無視した規範論はありえないということ。現状把握(事実認識)の際には、価値観(規範)が影響するだろうということ(都合の悪い事実は無視するとか軽視する傾向がある)。自分の関心事項にのみ集中して視野狭窄に陥りがちなこと。立岩は実証研究するだけの力量がないというが謙遜であろう。いまは規範論に重点をおいて考えるということだと思われる。2つ目は、「国家」に限定する必要はないということ。さまざまなコミュニティ・レベルを考えた場合、国家は中間レベルの1コミュニティであるに過ぎない。「国家」を第一に考える思考(強固で頑迷な思考)が強すぎる。マスコミや教育により、国家第一を刷り込まれている?…規範論とは、どのレベルのコミュニティで、何をどのように決めるのかを考えることであろう。いや現状既にほとんど決まっているのだから、現状何が問題であり、どう改善すべきかを議論すべきということになろう。そういう個別具体的な問題に立ち入らないというのであれば、メタ規範論になる。

 

稲葉 そもそも、『私的所有論』の中で、「禁じ手を破る」と宣言されたわけですよね。社会学の伝統は実証がメインで、特にミシェル・フーコーの仕事が消化されるにつけ、規範の足場を掘り崩すようなことを社会学はがんがん率先してやってきた。それで規範的な提言を行うこと自体が、禁じ手であるかの雰囲気ができてしまって、そこを抜けるということをやるよって言ったのが「私的所有論」である。…実証的な国家理論が、単なる実証主義的な社会科学だったかというとそうではなく、非常に広い意味での批判理論だった。だから本来は、規範的な提言をするための準備としてあった。…実証は、ちゃんとした社会を作るための規範理論のための準備としてあり、それらをひっくるめて批判理論という。実証分析だったんだけど、同時に積極的提言だったわけではなくて、批判的・否定的な規範理論としてあった。 

「ちゃんとした社会を作ろう」という問題意識なしに、実証研究ができるものなのだろうか。価値判断抜きの記述が実証研究だと言うならば、現状肯定という(隠れた)価値判断をしているのではないかと疑われる。もちろんこれは独断的な主張を認めるというのではなく、価値前提を明示しての理論でなければならないということである。…具体的な法律や政策や制度を論じようとするとき、恐らく誰もが「ちゃんとした社会を作ろう」という意識を持ち合わせているはずである。現状に対するそのような問題意識なしに、規範論はあり得ない。

 

稲葉 ブルジョワ国家論の一つのメインストリームである社会契約論というのは言ってみれば国家道具説である。国家というのは人々が共同で合意によって作り出したある機構として、基本的には手段・道具として捉えられると。それに対して、マルクス主義者がそんなのウソっぱちで階級支配の道具だと言ったところで、相変わらず道具であるというのが20世紀中ごろまでのマルクス主義の国家論のメインストリームである。だから、批判しながらも枠組みにおいては共通していて、それは「国家とは道具だ」という前提であるが、それはどうかな、そんな単純な話ですか、というのがその次に出てくる。

稲葉が、「そんな単純な話ですか」と言うのは、マルクス主義者の「国家は階級支配の道具だ」という主張に対してだろう。(なお、「道具」と言ったとき、それがどのような意味で「道具」と言われているのか、詳細が分からなければ、何とも言えない。)

 

稲葉 アントニオ・グラムシが、死んでからも何度も引き合いに出されるのは、「国家は単なる支配階級の道具じゃないよ」と言っているからである。…被支配階級による支配体制への何らかの意味での支持と同意と言う契機を、国家がきちんと成り立っていくための必須条件と考えている。…グラムシは基本的には道具説の外には出ていたとは思うけれど、それでもまだ、ちょっと手の込んだ道具説として解釈する余地もあったように思う。支配階級だけの道具じゃなくて、支配階級と被支配階級のある種の合意――非対称的な社会契約かな――によって使われる、ちょっとややこしい道具、という議論のフレームにまだ落とし込める。(P211-212)

アルチュセールとかブーランツァスの国家論は、…単なる支配階級の道具でもないし、だからといって社会契約論者が言うような意味でのみんなの合意の上に立ったものでもなくて、あたかも独自の固有の主体性をもったものであるかのようにふるまう、一見神秘的なものとして、国家を捕まえようとする問題意識がある。…国家を自律したものとみなす問題意識の高まりと、フーコーの権力分析が広く批判理論の新しい道具だてとして受容されてくることとの間には、たぶん関係がある。……

稲葉は、相変わらずいろんな人の名前を出してくる。フーコーとかグラムシとかアルチュセールとかブーランツァスとか…。それでいったい何が言いたいの? と言いたくなる。

どうしてこんな話になるのだろうか。先人の意見をよく聞くということは非常に大切なことである。しかし、先ほど述べたように、現状に対する問題意識があって、先人の意見を参照するというのでなければ、「誰それが、こう言いました」で終わるだろう。

 

立岩 道具には二つある。みんなのための道具と特定の支配階級のための道具。ぼくは、後者は当たっている気がして、今もそんな気もするんだけど、何でそうなっちゃうんだろうというのは、言えるならきちんと言えるはずだと思う。だって、いちおう一人一票持っているんだったら、なんで一部の人のものになっちゃっているのっていう素朴な問いに対して、まあいろいろ仕掛けについては言われているけれど、それで全部説明された感じはしなかったというのがまず一つある。そこのところは今でもよくわからない。

「支配階級」なる言葉を使うと、すぐに「資本家階級と労働者階級の階級対立/階級闘争」が連想されて、「何をいまさら」という感じがする。こんな言葉を使っていたら、建設的な議論をできないだろう。

ある法や政策や制度が、一部の特定集団の利害が反映したものになっているということはあり得ることである。「一人一票持っているにもかかわらず、なぜそうなっているのか」という問いは素朴であるかもしれないが、未解決の解明すべき問いであると思われる。

 

立岩 もう一つ、道具としての国家だけじゃないだろうという話は、いろんな経路からあったと思う。…ある種の幻想なんだけど、幻想よりリアルに存在するものとしてある。言われてみるとそんなところってあるなあと思える。ある種の国民国家論というのは、ベネディクト・アンダーソンなんかもそうなんだけど、流れとしてはそっちの流れで、言われていることはいちいちもっともで、国民国家形成のときにこういう手練手管で、っていうのはわかる。けれど、そこから二の句が継げないっていう感じはする。その話を進めていってどこに行きつくのかっていうのが分からない。それを閉塞って言うのか何て言ったらいいのか分からないけど、この話って続けていったときにどの話になるんだっていうのが見えない感じがしたんですよ。

稲葉の話も同様で、国家は階級支配の道具ではないと言ったときに、「その話を進めていってどこに行きつくのかっていうのが分からない」。

 

立岩 人に権利があるか。ぼくはあるって答える。では権利は強制力なしで担保されるのか。いかじかの条件のもとでは、無理か、あるいは著しく困難であるとは言えそうだ。そうするとやっぱり国家は要るよねっていう話になって、その限りにおいて強制力は必要で、国家と言うかは別にして、何かしら強制力を持つ主体というか範域――ぼくの場合は、国家というよりもっと広い範囲で考えるべきだという立場に立つが――が必要である。ではどこの場面でそれが必要なのか、不要なのかと考えたときに、やんなくていいことやってるし、やらなくてはいけないことをやっていないという素朴な感覚があって、それを何とかして言えればいいなというのがあった。

特定の場合に強制力が必要だということは、誰もが認めるだろう。義務違反に対する罰則を、どのような「強制力」をもって対処するかは、個別の権利義務内容・事情に応じて規定されねばならない。例えば、「表現の自由」を侵害する検閲や脅迫にどう対処すべきか。エロ・グロ・ナンセンスやうそ八百を並べ立てたものや犯罪奨励の表現は、表現の自由で保護されなければならないのか。

 

立岩 もう一つ、国家という話の手前で、搾取という話をどう扱ってよいのか分からなかった。…それを規範的な理論のベースに置くのがよいのかについて、わりと最初からネガティブだった。労働者の生産物を労働者が取得できるはずなのに、その一部分というかいいところがはねられているというのは、基本的には、生産者による生産物の取得という図式に乗っかった話になっているから、ぼくはその根っこのところを共有した上でその先に進むという議論じゃ嫌だなと思った。妥当性と別に、それを基に立てるというのは乗れないというのが最初にあった。

現状の何が問題なのか。私は(さまざまなレベルのコミュニティにおける)「格差と貧困」が最大の問題だろうと考えている。その問題を考える場合に、マルクスの議論を参照してもいいだろうが、「搾取」を前提(共通認識)にしようとすると決して前に進まないだろうと思われる。

とはいえ、現象面だけみて、感情的な対応をしたり、おざなりの対応をしても問題の解決にはならない。問題が生ずる原因をどこまで追究するか、「なぜ?」をどれだけ繰り返すか? 迂遠なようではあるが、まずはそこから始めなければならないように思う。

なぜ、「なぜ?」と問わないのか?…それが私の疑問である。テロ、紛争、異常気象、凶悪犯罪、人種差別、格差、貧困、いじめ、男女差別、出世競争、受験戦争、パワハラ・セクハラ、…「なぜ?」をどれだけ繰り返したか。問題が解決しないということは、「なぜ?」と問わないことを意味する。その悲劇的な結末は「死」である。*1

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国家論の「禁じ手」とは、規範的国家論(国家はかくあるべし)の意味だろうか。評論としては自由だが、学問としては規範論はないという意味だろうか。もしそうなら、単に事実を記述しているように見えながら、暗黙のうちに特定の価値観を前提しての記述になっていないかに留意する必要がある。またある事実を記述するときに、なぜそうなっているのかを記述するということは特定の価値観を前提にしているであろう。そうだとすると、他のあり得る価値前提を無視すべきではない。従って、価値前提を明示しての議論がむしろ中立的な議論になるだろう。

*1:なぜ、「なぜ?」と問わないのか?…https://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201207120000/ を読んでみて下さい。「なぜ?」と問うことを教えない教育。…あなたは、(マニュアルを見ないで)竹で水鉄砲を作れますか?