浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

介在神経系

木下清一郎『心の起源』(10)

木下は、前節において「神経系がどれほど特異な位置を占めるとしても、神経系を持たない生物には心はないなどと言い切るのは差し控えておきたい」と言い、また「これとは逆に、神経系があれば心もあるに決まっているとも言い切れない。心が現れるには、神経系の働きにもう一つの条件が備わらねばならない。それは情報処理の中枢化ということである」と言っていた。今回は、この後者の神経系についてである。

前節までの仮定は次の通りであった。

  1. 生物体はある領域を自己の領域として限定し、その他の領域を外界として区別する。
  2. 生物体は自らの必然的要請として、外界の情報を受容し、これを処理するための系を持つことになった。多細胞の生物体がつくられると、そこにはこういう系の一つとしての神経系があらわれる。
  3. 神経系が情報として処理できるのは、外界に生起している事象のうちのごく一部分に過ぎない。したがって、神経系内での情報処理に、外界の事象のすべてを反映させることはできない。

なお、前回の記事(男性ホルモン、エクスキュルの環世界、南北を向いて糞をする犬)で、第3番目の仮定を間違って引用していましたので、上記のように、お詫びして訂正いたします)

 

多細胞生物のうち植物についてはしばらく措くとして、動物に神経系が発達してくるまでには、進化の長い歴史が必要であり、その間には数々の変遷があった。そのいずれの段階で心の芽生えは見出されるのであろうか。構造の上からみれば、神経系の中枢化とそこにあらわれた介在神経系が鍵となるが、機能の上からいえば、記憶の出現が鍵になっている。この二つは心の芽生えの両面である。

心の話は動物に限った話ではないが、ここは木下の記述に従ってみていこう。

 

神経細胞は初めは体中に分散して広がっていたのが、ある部分に(たとえば体節ごとに)集中してきて、狭いながらも一定の領域(先の例で言えば一つの体節)を支配できるようになる。これは神経の中枢化のはじまりであるが、さらにそれらの小さい中枢を連ねて個体全体を支配できるようになって、中枢化は完成する。

神経系がどこにあるか確認しておこう。木下は、「神経系の中枢化」の図をあげており、同様な図がないか探してみたが見当たらなかったので、代わりに次の図をあげておこう。

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神経系は原生動物と海綿動物を除く動物にみられ、動物の種類(進化の程度)によって構造が異なっている。ヒドラやクラゲなどの神経系は、神経細胞が網の目のように連絡した神経網を形成している。このような神経系を散在神経系という。プラナリアなどでは頭部に神経細胞体が集まって神経節を作るようになる(かご形神経系)。ミミズやゴカイなどの環形動物やエビやバッタなどの節足動物では、体節ごとに神経節が1対づつあり、これらが神経繊維でつながったはしご形神経系を形成する。頭部の神経節は発達して脳と言われるようになり、頭部集中化がすすむ脊椎動物では、すべての神経細胞は神経管に由来する(管状神経系)。神経管を構成する細胞が分化して、いろいろな神経細胞を作り出す。神経管は脳や脊髄になり、これらを総称して中枢神経系と呼ぶ。

http://www.tmd.ac.jp/artsci/biol/textlife/neuron.htm

詳しく見ていくと、おなじみクラゲの神経系の話(例えば、「クラゲは何を考えているのか?」)など面白そうだが、ここは同じ動物でも、いろいろな神経系があるのだなあという程度で先に進もう。

 

介在神経系の出現

中枢化の進行に伴って神経細胞の機能の分担もおこり、末端から中枢へ向かう知覚神経(求心性という)、中枢から末端へ向かう運動神経(遠心性という)、両者を連絡する介在神経などが分かれてくる。いずれも重要であるが、これから心のはたらきを考えようとするには、介在神経の役割は見逃せない。

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以上2つの図は、http://s-crawfish.kj.yamagata-u.ac.jp/communication%20II/comII04.pdf より。

感覚器(目、耳、鼻、舌、皮膚など)が外界より刺激を受け取り、効果器(筋肉・腺・線毛・鞭毛・発電器・発光器など)を作動させる。知覚を運動へつなげるのは神経細胞ニューロン)であるが、知覚神経(感覚神経)と運動神経を介在する神経細胞があり介在神経という。

 

介在神経は初めは知覚を運動へとつなげる反射の回路を仲介したり、その反射の活動に対して若干の調整を行ったりする程度の比較的単純な役割を担うに過ぎなかったが、やがて介在神経がつながり合って網目を作るようになると、それ以上のことが出来るようになる。即ち、介在神経の網目の中で神経細胞の興奮性を変えたり神経細胞間の接続部分を調節して伝達性を変えたり、あるいは新たな連絡回路を作ったりすることによって、ひとたび興奮がその回路を通ると、そのことを何らかの痕跡として回路内に記録を残せるまでになる。これは記号の刻印であり、言い換えれば情報の刻印の原型でもある。

木下が「心の芽生え」と呼ぶものの一つがこの介在神経系である。知覚→運動 を介在するものに、心の芽生えをみる。この理解のしかたでは、明らかに「ヒト」に限定されない。ここが興味深いところである。では物理的に介在神経が存在しなければ、知覚神経は感覚神経にどうつながるのか。介在神経はなぜ出現したのか。進化論で説明するのなら、介在神経のない動物は、なぜ今も生存し得ているのか。

 

二種類の刻印

刻印として記録に残すということ自体がすでに画期的な変化であった上に、ここにもう一つ見逃せない大事なことがある。その経緯は生物学的にまだ解明されていないが、介在神経系の中には二種類の情報が同時に刻印されはじめ、しかもそれらは全く逆といってよいくらい別々の性格を持っていることである。ここにいう二種類の情報とは、一つは本能行動のプログラムのような生得的(先天的)情報であり、もう一つは外界からくる知覚のような獲得的(後天的)情報である。刻印のされ方に重きを置けば、前者は生得的刻印であり、後者は獲得的刻印ということになる。

私は、人間に焦点をあわせた場合、どちらかというと後天的に神経回路に刻印される獲得的刻印に興味を惹かれる。それは社会的刻印でもあろう。

 

次のような「抽象絵画」を観たとき、「心」は、何かを感じている。介在神経はどのように活動しているのだろうか。

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ブログ「翔んで翔んで」より、

http://blog.goo.ne.jp/haru1832/e/240345f0dde1a7326dbd39dc207c7c73

 

次回から「記憶」の話に入る。