気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

世代間の対立?

加藤尚武『現代倫理学入門』(29)

今回は、第13章 現在の人間には未来の人間に対する義務があるか である。

現在の人の未来の人への犯罪

現在の世代が未来の世代の生存のために、環境と資源の保護という義務を負うとしよう。現在の地球人と未来の地球人との間には、相互的な関係はない。未来の世代は否応なしに、劣化した環境と資源をバトンタッチされる。未来世代はどんなにひどい仕打ちを現在世代から受けても、文句も言えない。しかし、環境と資源を守ることは、是が非でもやらなければならないオブリガトリーな完全義務であり、メリトリアスな不完全義務ではない。しかし、現在世代と未来世代は、保護者と保護される者、経済援助を与える国と受ける国という関係でもない。

「世代」という言葉を聞くと、団塊の世代・バブル世代・氷河期世代ゆとり世代・さとり世代などを思い浮べるかもしれない。あるいは歴史的な世代分類とは関係なく、未成年・壮年・老年世代の年齢区分を考えるかもしれない。しかし、加藤がここで言う世代は、ちょっと違う。環境と資源に焦点をあてて考えているので、本章のタイトルにある「現在の人間」(現在生きている人たち)を「現在の世代」と呼び、「未来の人間」(これから生まれてくる人たち)を「未来の世代」と呼んでいるようだ。

加藤は「未来の世代は否応なしに、劣化した環境と資源をバトンタッチされる」と言うが、これは「環境と資源の保護をしなければ」という文が省略されていると考えられる*1

環境と資源の保護は、「オブリガトリー(拘束的)な完全義務であり、メリトリアス(功績的)な不完全義務ではない」と言う。これは「環境と資源を保護しなければならない。できれば保護したほうがよいというものではない」と言い換えられるだろう*2

未来の世代とは、どれくらい先の世代まで考えているのだろうか。30年後? 100年後? 1000年後? それとも未来永劫? 有限な資源をどう使うのかが問題なのである。資源を「浪費」しなければ、1000年後、1万年後の世代も現在と同程度の資源が使えるとでも考えているのだろうか。「現在の使用量では、X年分の資源しかないと推定される。ではどうしたら良いのか?」が問題なのであり、未来の世代云々は関係ないだろう*3。環境問題も同様である。「世代」の観点から、環境問題を論じる必要があるのだろうか。

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どんな倫理システムも、一方的なエゴイズムを制限するという狙いがある。他者危害原理が必要となるにも、二つの意味がある。ある限度内のエゴイズムを許容することと、その限度を超えたエゴイズムを排除することである。加害者と被害者の間のバランスの回復を図るために、犯罪を行った加害者を刑罰の被害者にする。

未来の世代を被害者とするような犯罪は、現在の我々の文化の使っている倫理システムではチェックできない。なぜ、エゴイズムの通り抜ける、そのような大きな穴ができてしまっているのだろう。その穴のできた理由は、近代化というシステム転換のなかにある。

封建的なシステムでは、世代間のバトンタッチと言う形で倫理が出来上がっている。古い世代は新しい世代にあらゆる仕事を押し付ける。例えば、結婚は当人の幸福のためにするものではなく、家という世代間の連続を支えるために行われる。古い世代は未来世代の利益を代弁してもいる。

「犯罪を行った加害者を刑罰の被害者にする」とは、おかしな言い方だが、「環境と資源を保護しないことは、未来の世代を被害者とする犯罪にも例えられる」ということを言いたいのであろう。そして、そのような犯罪は「現在の倫理システムではチェックできない」と言う。倫理システムって何? 現在の倫理システムではチェックできないと言われても意味不明である。法律では規制できるが、倫理システムでは規制できないとでも?

エゴイズム(利己主義)が、大手を振って通り抜ける「穴」、その穴のできた理由は、「近代化というシステム転換のなかにある」と言う。その通りなのかもしれないが、「近代化というシステム転換」が何を意味しているのか、何の説明もなく、こんなことを言われても、「あ、そうですか」というより他ない。

「古い世代は新しい世代にあらゆる仕事を押し付ける」とか、「古い世代は未来世代の利益を代弁してもいる」とか、これは乱暴な決めつけであろう。

 

近代化の意味

人類は、近代化によって、「過去の世代にはもう遠慮はしませんよ」という文化を作り上げた。近代社会では、あらゆる有効な合意が同じ世代間の関係で成り立つ。約束、契約、投票、訴訟、立法というような人間相互の間の拘束力を生み出すような有効な決定は、共時的な構造を持つようになった。

「過去の世代にはもう遠慮はしませんよ」という文化、何これ? 「近代社会では、あらゆる有効な合意が同じ世代間の関係で成り立つ」というが、いったいどういう意味だろうか? 「約束、契約、投票、訴訟、立法」が、「世代」と何の関係があるのか? ここで言う「同じ世代」とは何を指しているのか? 共時的な構造って何? (入門者には、何を仰っているのか、さっぱり分かりません)

通時的とは、複数の現象が時間の継起に従ってあるさま。また,ある対象を時間的・歴史的な変化の相にしたがって記述しようとするさま共時的とは、現象が継時的変化としてではなく,一定時の静止した構造としてあるさま。また,時間的・歴史的な変化の相を考慮に入れずに,ある対象の一時点における構造を体系的に記述しようとするさま。(大辞林)…通時的は時系列分析、共時的は横断面分析と考えたら分かりやすい。

 

それが実は、共時的なシステムは「未来の世代にも責任を負いません」という反面を含んでいる。共時的相互性の倫理には、現在の世代の未来の世代に対するエゴイズムをチェックするシステムが内蔵されていない。つまり封建倫理は単に古い世代の支配だというのは、近代主義者の偏見であって、封建倫理は未来世代のための倫理でもあったのだ。「家」という観念には、未来世代の繁栄を願う気持ちが含まれていた。

共時的なシステムは未来の世代にも責任を負わない、とはどういう意味か。「現在の世代の未来の世代に対するエゴイズム」とは何か。環境を破壊し、資源を浪費しているという意味以上のものがあるのだろうか。ここで「家」という観念を持ち出し、紛らわしいことを言っているが、この文脈でいったい何が言いたいのだろうか。

 

通時構造は、近代ではイデオロギーの領域に追いやられる。即ち伝統と過去に忠実であろうとする保守主義と、未来を重視し進歩の理念に忠実であろうとする進歩主義との対立が、近代的なシステムの補完的システムとして生まれる。進歩と保守が綱引きをすることで、世代間のつなぎが保たれる。

通時構造って何? 保守主義進歩主義との対立が、近代的なシステムの補完的システムとして生まれる。「対立」が「システム」として生まれる、こんな文章ってあり? 進歩と保守が綱引きをすることで、世代間のつなぎが保たれる? いったいどういう意味だろうか?

 

進歩という理念は、決定構造論の問題としては、通時的決定が共時的決定に転換した近代に、その共時性を補う通時性として導入されてきたものである。それは、①知識・技術・生産の不可避的な増大、②未来は常に「より良い」ものであるという楽天観、③進歩主義保守主義という政治的選択肢を提供した。

決定構造論って何? 通時的決定が共時的決定に転換した、とはどういう意味だろうか。進歩という理念は、①、②、③をもたらした、と言うのだろうか。

 

近代主義が進歩の風を吹かしている間は、未来世代と現在世代は利害が一致している建前だった。「未来の世代は、僕たちよりもずっと幸せになれる」という信念が、進歩主義であるからだ。進歩主義は、自分で未来の世代の生存条件を悪くしているとは思わなかった。未来の世代が自分より繁栄すると信じていた。気がついたら、石油という先祖の遺産を浪費してしまって、後の世代には何も残らない。そのくせ、おれは子孫のために自動車を発明してやったなどと得意がっているのが現代文化である。自動車文明を作って残し、石油を残さないというのは、二階に上げて梯子をはずすようなものだ。そればかりか放射性の廃棄物を未来の世代に残す。

加藤はどこに位置しているのか? 先祖の遺産を浪費し・自動車を発明したと得意がり・放射性の廃棄物を未来の世代に残している現在世代ではないのか。それとも<第三者>か。

 

世代間の関係

現在の世代は未来の世代に責任がある。しかし、この二つの世代には、対話とか合意とかの可能性すらもない。すると問題は、本当に世代間倫理は成立するのかどうかということである。現在の世代が未来の世代に義務とか責任を持っていると、どうして確認できるのか。どうしてまだ存在しない人との間に、約束とか契約とかの関係を取り結ぶことが出来るのか。その関係は、もしも成り立つとしても、双務的、相互的なものでない一方的な責務に拘束力がどうして成り立つか。

「現在の世代は未来の世代に責任がある」などと、どうして(一般論として)言えるのか。いかなる意味での責任か。「二つの世代には、対話とか合意とかの可能性すらもない」というとき、「未来の世代」とは「これから生まれてくる人たち」を意味するなら、「不可能」であることは言うまでもない。「現在の世代が未来の世代に義務とか責任を持っていると、どうして確認できるのか」というが、それは「確認」するような事実問題なのか。未だ存在しない人との間の契約などと、おかしな言い方をする必要はないだろう。

まず、現在の世代と未来の世代との間に利害関係が存在することを確認しなければならない。そこには配分と引継ぎという基本的な関係がある。

①生物種を含めて地球上の資源が有限である以上、現在の世代が資源を浪費すれば、未来の世代は同じ資源を消費できなくなる。すなわち現在の世代と未来の世代の間には資源の配分という関係が存在する。ここでは現在の世代と未来の世代とは基本的に利害が対立する。

 有限な資源の配分問題とは、当該資源をどの範囲の人を対象に、どのように配分するかの問題である。現存する人だけでも大きな問題である。どれだけ将来を考えるかは、代替資源の開発スケジュールにも依存する。世代間の利害調整の問題ではなく、代替資源をいかに開発するかの問題と考えるべきだろう。現存する人の間の問題として考える場合、価格メカニズムだけで良いのかが問題である。

②資源、環境、技術的なノウハウを含む文化(伝統)を、未来の世代は現在の世代から引き継ぐ。あらゆる世代が引継ぎの連鎖の中にある。バトンを受け取るものは、やがてはバトンを渡すものとなる。ここでも現在の世代と未来の世代の利害が基本的に一致するとは限らない。放射性廃棄物、有害化学薬品などの負の遺産を未来の世代に残す結果になることがあるからである。現在世代と未来世代の間には、厳しい利害関係が存在するのに、対話とその利害関係を調整する倫理的なシステムがない。

負の遺産を残すから、現在世代と未来世代の間には、厳しい利害関係が存在すると言っているように聞こえる。これは公平な言い方ではない。正の遺産があるだろう。正の遺産も負の遺産も引継ぐのに、世代間の利害対立があるかのように主張するのはおかしい。世代間の利害調整の倫理システムを考えるというのは、問題の捉え方を誤っているように思われる。

 

加藤に従い、仮に世代間の利害対立があるとした場合、調整することは可能だろうか。

しかし、「そのような[利害調整の]システムを作ることは無理だ。二つの世代は価値観が違うのだから、共通の尺度が存在しない」という疑問が出るだろう。

「価値観が違い、共通の尺度が存在しないから調整は無理だ」というのは説得力があるだろうか。加藤は反論を二つ挙げている。

(1) たとえ価値観が違っても共通の尺度が存在するという反論。例えば宗教の違う人々、政治的信念の違う人々が共存する世界はたくさんある。南の人が麻布を出し、北の人がルビーを出して交換する時、南の人にとっては麻布よりもルビーの方が価値があり、北の人にとってはルビーよりも麻布の方が価値がある。価値観が違うから交換が可能になる。

加藤は「物々交換」の例をあげて、「価値観が違っても共通の尺度が存在する」という。この場合の共通の尺度とは何か。必ずしも明確ではない。…この後、加藤は「趣味」についてふれ、「趣味や性格の違う人々の間にも、正義という共通の尺度はあるだろう」と言う。「正義」ほど、多義的な概念はないと思うのだが、これが共通の尺度であるのか? いずれにしても、「共通の尺度」があるというわりには、それがどういうものか明確ではない。

 

(2) 価値観が違うとは言えないという反論。放射性物質の危険度、人間に必要な最低限度のカロリー、人間の人生の長さなどなど、未来にもあまり変わらないと思われるたくさんの生活条件や、生活形態がある。しかし、火星人と地球人の間では、共通の価値が何もないために、共通のルールや尺度を作ることが出来ないかもしれない。価値観が違うということとあらゆる価値観が違うということとは、全く別の事態である。現在の人と未来の人とが、地球人と火星人ほどに違うとは言えない。趣味については十人十色でも、生存の基礎的な条件については、人間という生物の間にたくさんの共通点がある。

この反論は、「生存の基礎的な条件」について共通認識があるから、価値観が違うとは言えない、という主張のようである。しかし、このような「生存の基礎的な条件」についての認識を「価値観」と呼んで言って良いのだろうか。それは「事実認識」(事実判断)ではないのか。この反論は、事実と価値の混同があるように見受けられる。

 

では、「現在世代と未来世代との間では、価値観が違い、共通の尺度が存在しないから調整は無理だ」との主張に対して、どう応答するか。現在世代と未来世代との間で、有限資源をどう配分すべきか? という問いを念頭において考えてみよう。私は、世代論で論ずるのではなく、次のように問題をたてる。

「ルール制定に関与することができる者」と「ルール制定に関与することができない者」との間で、有限資源をどう配分すべきか?

「ルール制定に関与することができる者」だけでも、有限資源の配分問題は難しい。さらに、「ルール制定に関与することができない者」も考慮に入れなければならない。

 

私は現在、伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』を読んでいるが(本ブログでとりあげている)、同書に「価値観の壁をどう乗り越えるか」という章がある。これは大いに参考になる。

 

世代の価値観に話をもっていき、世代間対立を煽るような議論の仕方には賛同できない。

本章はまだ続きがあるので、次回また考えてみよう。

*1:省略すべきではない。省略すると、おかしな文章になり、思わず、はあ?と言いたくなる。

*2:このような言い回しをするのは、倫理学入門者を眩惑させるだけである。

*3:「未来世代はどんなにひどい仕打ちを現在世代から受けても、文句も言えない」…世代間の対立を煽るような言い方をすべきではない。