浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

権力とは 支配と服従

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(18)

第4章 国家論の禁じ手を破る の続きである。

フーコー権力論の衝撃

私はフーコーを読んでいない*1ので、いい加減なコメントになるかもしれないが、気にしないで読みすすめよう。

稲葉 フーコーの議論は…(略)

(コメント、略)

 

立岩 フーコーは、…けれん味[ごまかし]、はったりも確かにあるが、実証家としてはいいところも突いていて、説得力がある。社会がどういう仕掛けでできているのか、近代社会がどういうふうに仕組まれているかの記述屋としては随分なものである。

根拠とか自然ということで言えば、いろんなものを剥ぎ取っていって、まっさらなものが出るか出ないかっていう話がある。社会学も、玉葱の皮をむいたら、芯が出るのか出ないのかといった話が割と好きだったんだけれども、そういう話なのかな、というのは以前からあった。まず、あるとかないとか、どうやったら決着がつくの、と思う。次に、それは良しとして、仮に皮むいて何か残ったとして、そうして残ったものがよいものだってことにはならないじゃないか。人間の社会性とかを巡る事実と、事実に関する善し悪しが混ざってしまっている感じがする。そしてそうしたところから、フーコーは権力ばかり言って希望がないみたいなことが言われる。そんなことではないだろうと思う。権力・力が働いているから悪いってことにはならない。

それで僕は、事実の記述は記述とした上で、何がいい、何がよくないって言えるんだろう、とりあえず言ってみようと。最終的には循環になったり、どん詰まりになったりしてそれ以上遡れませんとなるんだけど、それはありとあらゆる規範命題について言えることでもあるから、仕方がない。だけど、自分の論点を明示するかたちでも言えればいいんじゃないかというスタンスでやったほうがいいんじゃないかと。

 「何がいい、何がよくないと、とりあえず言ってみる。自分の論点を明示するかたちでも言えればいい」は、見習いたいところである。

 

稲葉 だけど、「ここがどん詰まりだからいい加減やめようよ」と言ってしまうことが、単なる決断主義に聞こえるとまずいんで、そこをうまく橋渡ししたいという気持ちがある。

事実に関する善し悪しの議論(話し合い)をどこまですすめるか。ここがどん詰まりかどうかは、拙速に判断すべきことではない。…しかし残念ながら、ある規範命題について、徹底的にそれ以上遡れないところまで議論したという話は聞いたことがない。時間切れとか、価値観の相違だといって議論を一方的に打ち切る話はよく聞く。…問題によっては決めなければならないこともあろう。どこまで議論すべきなのか。検討課題である。

 

ここで稲葉の話の理解の一助として、「権力」とはどういう意味なのか見ておこう。論者によって異なるだろうが、大谷博愛の解説(日本大百科全書)を引用する。

ある者が他者をその意志に反してまでもある行為に向かわせることができる力を、一般に権力という。M・ウェーバーは、「社会関係のなかで、抵抗に逆らってまで自己の意志を貫徹する」ことを権力といっている。社会の諸領域でそれぞれの権力が存在しているが、特定の地域内において究極的優位性を有し、服従に対しては合法的に物理的強制力を行使しうるもの政治権力という。…アメリカの政治学者R・ダールは「AがBに普通ならBがやらないことをやらせた場合、AはBに対して権力をもつ」と規定した。 

 権力というと政治権力を思い浮べるかもしれないが、大谷の言う意味での権力が社会の諸領域に存在していることはちょっと考えてみればわかる。とりわけ会社や役所などで働いている人なら、「上司の命令には従わなければならない*2」という意味で、権力を実感しているだろう。私はこの会社等における権力の問題について、いずれ考えなければ、と思っているが、本書は国家論なので政治権力に限定しての話になるだろう。(とはいえフーコーは、軍隊、監獄、学校、工場、病院などをとりあげているので、権力を政治権力に限定して理解してはならないだろう)

 

大谷は、現代社会の政治権力について次のように述べる。

デモクラシー観念の一般化は、権力の概念を大幅に修正してきた。デモクラシーは支配者と被支配者の同一化であり、いわゆる権力者と服従者の交代を論理的に可能にするものである。権力の正当化ひいては維持にとって世論の支持は不可欠のものとなる。権力者といえども一般の人々の影響を受けたり、操作的手段を用いて支持を取り付ける必要に迫られる。今日のマス・デモクラシーにおいては、大多数を占める大衆を標的とした政治が要求され、合理的判断に基づくよりはイメージによる権力の正当化が試みられる。さらに、今日の社会は、国内外を問わず、さまざまな領域が複雑に絡み合って相互に深い関係をもっている。これは、他の領域の力が政治権力に強い影響を及ぼすことを意味している。ことに、国際関係の緊密化はかつての国家主権の概念を一変させている。形式的には領土内における権力は個々の国家の政治権力者が独占的に保有しているが、現実には少なからず外国勢力の影響を受けている。今日、一国が鎖国状態で孤立することは、貿易などによる恩恵を放棄することを意味するだけに考えにくく、政治権力に対する外国からの圧力は不可避的なものになっている。たとえば、軍事的、経済的に深い関係をもつ二国間において、一方の強い要請に他方の政府は単なる要請以上のものとして対処せざるをえないのが実情である。

特に赤字にしたところが強調されねばならない。かかるデモクラシー(民主主義)を考慮せず、強制力としての国家権力のみを問題にすることは視野狭窄に陥ることになろう。

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稲葉 フーコーが「権力」という言葉を使っている時にも、うまく問題を表現することの難しさがあって、やっぱり結構レトリックに走っているところがある。「権力それ自体は、良くも悪くもない」と言ってみたりする。それは昔ふうの公権力道具論、国家道具説にもつながりかねないようなイメージもある。さらに言うと、「権力は主体ではない」「権力は主体を生産する」「権力を行使する特権的な主体としての権力者というのがいるわけでもない」、というややこしいことを言っている。「権力はそれ自体は良くも悪くもない」と言いながら、しばしば人が「悪だ」とか「問題だ」と思うものごとに絡んでいるメカニズムを指す言葉として「権力」という言葉が使われていることに変わりはない。もちろん彼の議論は、「悪者探しをやめよう」というものではある。例えば、「権力者を打倒すればそれで終わりではなく、誰かがそこに座らなくてはならないように権力の配置はしばしばできている」というようなことを言う。だからといって「悪者探しをやめよう」というのが、悪を脱問題化するとか、「世の中の悪をほっときましょう」と言ってるわけではない。

フーコーはそれぞれの文脈で、権力とか主体という言葉をどういう意味で使っているのか、「ややこしい」などと言わずに解説して欲しい。稲葉は、フーコーを引用して何を言いたいのだろうか。

 

稲葉 フーコーの権力論は、一つの解釈として権力者っていうものを必ずしも必要としない権力概念を提出する。権力と主体との関係において重要なのは、主体が行使する力の一種としての権力であるよりは、主体がそれによって形作られている力としての権力なのであって、お話の順番としては、まず権力があって、その権力の中で主体が産出されてくる、という順序である。しかしながら、そこに特権的な主体はいないという場合であっても、振り返ると、どうしてもある種の権力の流れや権力者というものを人はみてしまう、力の流れを擬人化して捉えてしまう――擬人化するというのは人間の思考にとって一つの決め手なので。ここで「悪者探しをするな」というのは、ひょっとしたらいないかもしれないし、いたとしても重要であるかもわからない権力者を探すことに精力を傾けすぎるのはやめよう、それよりも権力のフレーム自体のありようを考えよう、という問題提起として読むことができる。読むことができるんだけれども、どうしても人がそこに権力者の幻影を見てしまうのは仕方がないことだとも言える。仕方がないけど、それが幻影だという意識が高じてくると、例えばアンダーソンの「想像の共同体」論とか、吉本の共同幻想論のようなものが生まれるのかもしれない。

稲葉の話は難しい。フーコーは「権力者を必要としない権力概念」を提出したというが、それはどういう意味か。先ほどの大谷の権力の説明からすれば理解しがたいのだが…。「まず権力があって、その権力の中で主体が産出されてくる」とはどういう意味か。「主体」とは何か。…「特権的な主体はいない」と言うが、特権的な主体とは何か。「権力の流れ」とは何か。「力の流れを擬人化する」とは何か。フーコーは、「特権的な主体=悪者はいないので、悪者探しはやめよう」と言っているのだろうか。それとも稲葉がそのように言っているのだろうか。「権力者の幻影」というのは、「特権的な主体=悪者はいない」と言わんとしているのだろうか。ヒトラースターリンは、「特権的な主体=悪者」ではないのだろうか。「権力者の幻影」なのだろうか。

 

稲葉 古典的マルクス主義国家論は……。ネオ・マルクス主義においては、「相対的」というエクスキューズをつけながらも国家というアクターの自律性を改めて導入した。…人々の取り結ぶ関係に他ならないんだけど、人が固有の主体性をそこに見ざるを得ないように国家という組織の配置はできてしまっている。「法人」というのは本当に人でなくていい。つまり意識とか主体とかを持っていなくてもいいけれども、それにかかわる人間があたかもそうであるかのようにその関係性をみなすというのが「法人」である。そういうような議論として国家の相対的自律性論というのがあった。

ネオ・マルクス主義が国家の相対的自律性を述べたとして、それがどうしたというのだろうか。

  

稲葉 だからフーコーの場合は、人がどうしてもそこに見てしまう幻影としての「権力者」は、存在しないとは言わないけれど、本質的に重要じゃないよという言い方で、議論のレベルを少し進めたのではないかと思う。その後で「想像の共同体」論が出てきても、昔とはちょっとニュアンスが違ったようになってきている。

フーコーは、「権力者」は、本質的に重要じゃないと言っているのか。本当に?

 

稲葉 こうした中で、「フーコーの議論は批判や規範の可能性を掘り崩すんじゃないか」「人々の持っている性格や規範は実は権力に先立たれて、権力によって形作られているんだから、権力を批判しようという身振り自体も、あらかじめ権力によって形作られ、最初から罠にはめられているんじゃないか」というタイプのフーコー批判が出てきたわけだが、そうではないという議論を展開することが可能ではないだろうか、ということは昔『リベラリズムの存在証明』のエピローグで書いた。

私はフーコーの理論を理解していないので(稲葉による説明もないので)、上のようなフーコー批判があったとして、それがあたっているかどうか分からない。

 

稲葉 すなわち権力を批判して、そうじゃない在り方を求め、そこから逃れようとすることはフーコー的フレームの中で可能であって、それには確かに根拠はあるんだけれども、ただその根拠っていうのは権力の作動の後からやってくるものである。権力に侵される前にまっさらなところがあって、「こいつさえいなければ」という批判ではなくて、権力の作動の結果成立してしまった人々が、しかし権力によって作られたのにもかかわらず、これを不愉快に感じるということで批判し、さらには規範的主張をするということが可能になる、という構図でいいんじゃないかと思っている。

これも分からない。「フーコー的フレーム」とは何か。「根拠はある」、「根拠は権力の作動の後からやってくる」とはどういう意味か。「~という構図でいいんじゃないかと思っている」というが、稲葉は結局何が言いたいのだろうか。

 

立岩 『リベラリズムの存在証明』の後ろのところでそんなふうに書かれていて、ぼくもその件に関してはそうだよね、と思った記憶がある。繰り返しになるが、ぼくはやっぱり、今の力の働きよう、例えば19世紀から20世紀にかけての権力の作動の仕方を見ようとすると、こうじゃなくてこういうふうになっちゃてるじゃない、こういうふうに動いてるじゃないということを、現に社会がこう組み立ってる、作動してるということをフーコーは言ったんだと理解しようと今のところ思っている。権力と主体の関係についても、こういうふうな装置が作動すると、こういうふうな主体が形成されるということはうまく書けているなと思っている。うまく書けていると思うし、自分たちの気持ち悪さも言えてるっていう気がする。その仕掛けの中にわれわれは生きているんだけれど、それがわれわれのすべてではないということは矛盾なく言える。その中で自分の作られ方みたいなのが気持ち悪いぜっていうことも言える。

「権力と主体の関係についても、こういうふうな装置が作動すると、こういうふうな主体が形成されるということはうまく書けているなと思っている」と言うが、フーコーを読んでいなければ、「そうなんですか」というしかない。何も得るところがない。本書は素人向けの本だと思うが、ならばフーコーを読んでいないことを前提に、解説が欲しいところである。

*1:ブログを書くということは、自分がいかに無知であるかを公表することでもあるので、私は「幼稚園児」だと最初に断っている。そう言ってしまえば、気楽なもので、いろいろ教えてもらえるし、間違っていれば、訂正すればよい。

*2:上司の命令に対して「反対意見」を言うことがどの程度許されるかは、命令内容にもよるし、組織風土にもよる。場合によっては、違法行為もある。