浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

世代間倫理 恩返し 核廃棄物

加藤尚武『現代倫理学入門』(30)

第13章 現在の人間には未来の人間に対する義務があるか の続きである。

だから世代間倫理が成り立つための困難は、共通の価値観が不在だという点にあるのではない。利害関係があって、共通の価値観もあるはずである。但し、対話とか約束とかができない。面と向かって話し合う機会がない。 

 前回、私は、現在世代と未来世代との間で、有限資源をどう配分すべきか? という問いを念頭におき、世代論で論ずるのはおかしい。「ルール制定に関与することができる者」と「ルール制定に関与することができない者」との間で、有限資源をどう配分すべきか? と問うべきではないかとした。ここで何を言わんとしているのかの詳細についてはいずれ述べたいと思う。

私は、本章の問い(現在の人間には未来の人間に対する義務があるか)がよく理解できない。環境問題や石油等の有限資源の問題を、なぜ「世代間倫理」の問題として考えなくてはならないのか、よく分からない。もう少し読み進めてみよう。

 

加藤によれば、フレチェット(アメリカの環境倫理学者)は、「世代間相互性の日本的概念」(先祖が私たちにしてくれたことを、子孫にすることによって、恩を返す)で、世代間の「社会契約」が可能になる、と言っている。

このレシプロシティ(reciprocity、相互性)を、文化人類学では「互酬性」と訳す。与えられた者は与え返さなくてはならないという原理である。…この互酬性という原型から、通時的な世代間の相互性と共時的な同世代内での相互性とが、原始共同体が解体して古代国家がつくられたころに分かれてくる。…東洋では、倫理関係の原型を親子の世代間関係に還元するという観念的な試みが行われた。…西洋では共時的な相互性だけが拘束力のある倫理だと見なされる。つまり約束とか契約とかの形だけが、拘束力の原型になる

フレチェットは、現在世代の「義務」(~しなければならない。~してはならない)を言うために、対応する(未来世代の)「権利」を持ち出し、「社会契約」を擬制しているようだ。

加藤は、フレチェットを批判している。

ロールズの社会契約説を使って世代間倫理の裏付けをしようとするフレチェット女史の試みには、便乗主義の匂いがある。それにもともと社会契約説が世代間倫理を葬るために作られた代案だったという歴史的経緯について無頓着すぎるのではないかという気がする。なぜならば社会契約の前提は、無限の空間の中のアトムである個人が、なぜ共同生活をするかという理由の追求だったからである。環境倫理は、環境という共同の世界に参加しない自由がないという状況の倫理である。

社会契約という枠組みが世代間倫理に当てはまるはずがない。環境問題は、他者を否応なしに巻き添えにする構造を持っている。地球の生態系に対して個人が加入するかしないかの自己決定権を行使することはありえない。未来世代は契約によって地球生態系の一員となるのではない。彼らは、否応なしにこの共同社会の中にいる。だからこそ他者の権利を尊重しなければならない。

社会契約という枠組みは、環境問題(世代間倫理)に当てはまらないというのである。確かにそうだろう。

東洋には「先人木を植えて、後人その下に憩う」という言葉がある。木を植えた人と木の下に休む人は、膝詰めで話し合うことはない。しかし、ここに時間を隔てた対話がないとは言えない。「いつか人が来ると思って木を植えておいた。休んでいってくれ」「ありがとう。とてもいい気分だ」、先人が後人のために木を植えるのは、自分に利益が跳ね返ってくることを期待するからではない。その次元では、彼は相互性を断念している。しかし、その恩を受けた者は、自分の後人に恩を返す。バトンタッチ型の世代交代の中には、「恩を受ける」と「恩を返す」との相互性が成り立つが、各世代の行為は自発的自己犠牲という形であって、相互監視に基づく強制力を背景とするものではない

関係の型は、バトンタッチの相互性――通時的相互性である。現在の世代は制裁を予期して、未来世代に責任を負うのではない。緑の地球を受け取ったのだから、緑の地球を返さなくなくてはならないバトンタッチの関係の中にこそ完全義務が成り立つ。地球を守ることは、未来の世代に与える恩恵ではない。現在の世代が背負う責務である。

加藤は、世代間倫理を「バトンタッチ型の相互性」、要は(社会契約ではない)「恩返し」と考えているようだ。

 

なぜ「世代間倫理」という話が出てきたのか。それは、「地球温暖化などの環境破壊」、「有限の天然資源」などが問題化されてきたからであろう*1。…素直に考えてみたい。私たちがこの地球上で生きていこうとする限り、現在のこの瞬間だけでなく、将来のことも考える。私が死ぬまで後何十年(何年?)あるだろう。楽観的になったり、悲観的になったりする。「世代」などというわけの分からない概念を持ってきて「倫理」の問題とすれば、問題は解決するというのだろうか。「恩返し」と考えれば、問題は解決するのだろうか。

 

加藤が本書を書いた時点(1996年)では、原子力発電所の「放射性廃棄物」の問題は意識になかっただろう。原発の問題も「いずれ」なのだが、ちょっとだけふれておく。「世代間倫理」で片づけられる問題ではなかろう。

NHKクローズアップ現代」2012年10月1日放送の「10万年の安全は守れるか ~行き場なき高レベル放射性廃棄物~ 」より。http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3254/1.html

高レベル放射性廃棄物は原発で使い終わった使用済み核燃料から生まれます。

日本では使用済み核燃料を再び燃料として使用するとされていますが、その処理の過程で極めて強い放射能を持つ廃液が出てしまいます。この廃液に高温で溶かしたガラスを混ぜステンレス製の容器に入れるとその後、固まった状態で閉じ込められます。ガラス固化体と呼ばれる物質。これが高レベル放射性廃棄物です。

発電に使われた核燃料の放射能は使用前の1億倍に増えます。ガラス固化体にした時点で放射能は少し下がりますがそれでも人が近づけば20秒で死亡するほど危険なものです。もとのウラン鉱石と同じレベルにまで低下するには10万年もの歳月を必要とします。そのため日本では地下300メートルより深い地層に埋め込む地層処分という方法が国の方針となっています。

今回(2012年9月)、日本学術会議は地層処分を行うのは地震の多い日本では困難だと結論づけました。

「千年から万年、10万年先なんていうのは、責任もって大丈夫と言えるような状況ではない。」(日本学術会議検討委員会 今田高俊委員長)

「今現在われわれの世代で『ここなら10万年間大丈夫です』という場所を選べるか具体的に指定できるかというとそれはできない。一言で言えば、この日本列島で地層処分をやるというのは未来世代に多大な迷惑をかけるかもしれない、かける可能性のある非常に無責任な巨大な賭けだと思う。」(神戸大学 石橋克彦名誉教授)

「地層処分の根拠といいますか、それを推進する根拠になっていた、地震、地層処分が逆にリスクが大きいということですね。それは一つは地震活断層の問題、それから地下水の問題ですね、こういう2つによって、地層処分ということに対する根本的な疑念が出たんじゃないか。だからこそ白紙に戻せということですので、これは改めて考え直さないといけない。」(京都大学 植田和弘教授)

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http://www.rist.or.jp/atomica/data/pict/05/05010101/09.gif

 

福島原発事故から3年半、病気と病死が急増しているらしい。

福島原発事故から3年半が過ぎました。通常、子どもの甲状腺がんは「100 万人に1人か2人」と言われていましたが、福島県では原発事故当時18歳以下の子ども約37万人に「ガンないしガンの疑いが103名」も出ています。(通常のおよそ150~300倍)(2014/9/12)

http://www.windfarm.co.jp/blog/blog_kaze/post-17547 

 

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http://www.windfarm.co.jp/blog/blog_kaze/post-17547

*1:もしどうしても「世代間倫理」を問題にしたいのであれば、私は、「法」(社会のしくみ)が未来世代に大きな影響を及ぼすという意味で、「法」(社会のしくみ)をとりあげなければならないと思う。