気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

無知のヴェール 負荷なき自我

平野・亀本・服部『法哲学』(34) 

いま読んでいる箇所は、第4章 法と正義の基本問題 第5節 共同性と関係性 である。今回は、そのうち「負荷なき自我」をとりあげよう。平野は次のように書いている。

共同体論によれば、自由主義的な正義の理論は、何ものにも拘束されない選択主体を前提にしている。例えば、契約論的なリバタリアンは、個々人を、自然状態で有する自然権保有主体と捉え、それによって自由権の最大限の尊重とその最小限の制約を説く。また、平等主義的なロールズの正義論においても、正義原理は、特定の善の追求につながりうるような属性については知らないという「無知のヴェール」の想定の下に、原初状態の当事者の合意によって採択するものとされる。それによって、自由に関しては、他の人の同様の自由と両立し得る限り最大限の平等な自由への権利を、また平等に関しては、機会の平等原理および格差原理が求める広い範囲の平等の権利を導き出すのである。 

 ロールズの「無知のヴェール」、「原初状態」に引っかかるといけないので、ここで簡単にみておきたい。小野原雅夫がうまい説明をしているので引用しよう。(たまたま見つけたもので、もっとうまい説明をしている人もいるだろう)

ロールズは、社会契約論者たちが 『自然状態』 を想定したのに倣って、『原初状態 the original position』 というものを想定します。これは社会が形成される以前の段階ですが、あくまでもそうした状態を想定・仮定してみるというだけのことであって、現実にそういう状態があったかどうか、ありうるか否かといったことは関係ありません。そしてロールズは、この原初状態にいる人々には 『無知のヴェール』 がかけられていると想定します。つまり、自分が何者であるのか、資産家の子どもなのか浮浪者なのか、スポーツの才能に恵まれているのか先天的な障害をもって産まれてきているのかなどの個人情報がまったくわからないものと仮定されます。このような条件下で人々はどのような社会が構成されることを望むだろうか、どのようなルールなら受け入れられるだろうかという思考実験を試みてみようというのです。…ロールズ無知のヴェールは、自己中心性を脱却して考えるための道具立てであり、客観的・普遍的なあるべきルールを導き出すための、思考実験にもとづく仮定・想定です。

http://blog.goo.ne.jp/masaoonohara/e/88715d5e6e6e179ddf7f76a2aead5e5d

どうだろうか。ロールズの意図はわかるが、「自分が何者であるのか、資産家の子どもなのか浮浪者なのか、スポーツの才能に恵まれているのか先天的な障害をもって産まれてきているのかなどの個人情報がまったくわからないものと仮定する」なんて、できるはずがない、非現実的な仮定だ、というのが大方の反応ではなかろうか(「補足」参照)。

私はこのロールズの仮定は、(小野原も言っているように)「相手(他者)の立場にたって考えてみる。相手(他者)のことを思いやる」ことを、難しく言っているだけだと理解している。

「私は裕福な家庭の子どもとして生まれたが(あるいは私は裕福な生活をしているが)、そうでない人のことも考えないとね」と言えるかどうか。でも残念ながら、「私には能力がある。その能力に見合って報酬を得ている」とか、「競争社会を勝ち抜いていかなければならない。その勝者をねたみ、自分の努力不足を棚にあげて、再分配せよとはもってのほかだ」とか、「競争があるからこそ、人は努力するのであり、社会が進歩するのだ」というような言説が支配的であるように見受けられる。ここには、「相手(他者)の立場にたって考えてみる。相手(他者)のことを思いやる」という「心」がない。それは(強者の)自己中心主義(利己主義)である。なぜそうなるのか?

 

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本書に戻り、共同体論者(サンデル)の「負荷なき自我」について考えてみよう。

こうした理論の前提になっている人格概念を、M.サンデルは、「負荷なき自我」(unencumbered self)あるいは「主意主義的自我」(voluntarist self)と呼んでいる。実際上のいかなる制約からも自由な、純粋な選択主体、原子論的自我である。しかし、私たちは、A.マッキンタイアが述べているように、すでに誰かの子であり、どこかの国の国民である。家族・地域共同体・国・民族・宗教など、特定の属性を持つものとして私たちはある。歴史・文化・伝統などそれぞれの属性に伴う正の遺産・負の遺産を共有しつつ、特定の刻印を帯びた存在として私たちはある。したがって、人間の本来的なあり方は負荷のない自我ではなく、「位置づけられた自我」(situated self)あるいは「物語的自我」(narrative self)というべきであるとされる。(P172)

「負荷なき自我」の観念が問題であるのは、実際のありかたにそぐわないだけでなく、人間をそのように捉えると私たちが例えば家族の成員として、会社の一員として、また特定の国民として、通常負っている広い範囲の道徳的・政治的責務の意味を理解できなくなるからである。「負荷なき自我」は、一切の責務の根拠を自らの選択ないし同意に求め、それ以外のいかなるものにも自己拘束の根拠を見出さないような自我である。それが確立するアイデンティティは希薄であり、それが享受する自由は空虚である。自律の基盤になるどころか、かえって環境条件や移ろいやすい感情に左右されてむしろ他律的な自我であると言わざるを得ない。それゆえ、「位置づけられた自我」「物語的自我」こそ、私たちのアイデンティティの実質的な基礎となり、真に豊かな人間的主体性が確立される基盤となりうるものである、とされるのである。

encumberとは、邪魔する、煩わせる、(債務を)負わせる等の意味である。従って、「負荷なき自我」(unencumbered self)とは、邪魔されない、煩わされない、負わせられない自己の意味である。しかし私たちは、実際には「家族の成員として、会社の一員として、市民・国民として、一定の責務(~しなければならない等)を負わせられている」。私たちが、コミュニティ(共同体)のメンバーである限り、そのような責務の遂行なしには、コミュニティは存続しえない。しかしながら、自由主義者は、そのようなコミュニティにおける責務にお構いなく(邪魔されず、煩わされず、負わされず)、つまり何ものにも拘束されず、自由に行動が選択できる主体(自己)を標榜しているようである。

しかし、共同体主義者によるこの自由主義批判も要注意だと思う*1。…私はリベラルが、コミュニティ(共同体)の一員としての責務を無視しているとは考えられない。即ち「負荷なき自我」などという人格概念を前提していないと思う。コミュニティ(共同体)の一員としての(道徳的・政治的)責務を認識しながらも、それは「強制力をもって」(わかりやすく言えば、「言うことをきかなければ、刑務所にぶち込むぞ」)遂行されるべきものではない、と言わんがための「自由」の主張ではないかと思う。だから、どのような文脈で「自由」が主張されているかに注意しなければならない。文脈によっては、「空虚な自由」(「自由」信仰)もあるだろうが、そうではない自由もあるだろう。

また「負荷ある自我や位置づけられた自我や物語的自我」を主張する共同体論者が、「地域」や「国家」の「古き良き伝統や文化」を強調するときには、グローバルな視点からの批判的検討が必要だろう。

 

(補足)

加藤は『現代倫理学入門』第13章(「世代間倫理 恩返し 核廃棄物」の記事では引用を省略した)で、次のように書いていた。

「あなたが男だか女だか、白人だか黒人だか分からないと想定して判断して下さい」と言われたら、常識的な人間は「それじゃ判断できません」と言うだろう。自分のことは何も知らない状態と言うのが本当にあったら、狂気の沙汰ではないか。無知のヴェールからどのように、奇妙な権利理論が出てきても、それを再び無知のヴェールの陰で吟味するということはありえない。

理論上の仮説であることが了解されないと、このような反応が生じる。無知のヴェールとは、「相手(他者)の立場にたって考えてみましょう」ということを、ちょっと修辞的に言ったまでである。しかし、こんな誤解を招く言い方をすべきではないだろう。

*1:私は「リベラル・コミュニタリアン論争」の内容を全く知らないで言っているので、的外れのことを言っている可能性がある。