気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

音楽の力 フラッシュモブ 『歓喜の歌』

岡田暁生『音楽の聴き方』(22)

第5章 アマチュアの権利 の続きである。

音楽評論家パウル・ベッカー(1882-1937)は、「音はそれ自体ではただの音(=知覚される素材)に過ぎない。それを音楽として知覚する人々(=周囲世界)、そして枠組(=形式)があって初めて、音は音楽になる」と言っていた(音楽の力(ベートーヴェン、絢香)参照)。

私はこれを参照して、「ただの音(=知覚される素材)があり、これを一定の形に整序(パターン化する)ことによって、生物に快感をもたらすものが音楽である」と言えるのではないかと思っている。「生物」というのは、人間以外にも、音楽(「音-楽」)はあるだろうからである。ここで人間が、音素材を「意識的に」一定の形に整序するとき、人間社会にとっての音楽が誕生する。

 

彼の論考を何よりユニークなものとしているのは、それが単なる社会反映論――「音楽には時代と社会が映し出される」といった――にとどまっていない点にある。つまりベッカーは音楽を、ただ社会を受け身に反映するだけではなく、自ら社会に働きかけ、社会を批判し、場合によっては新たに社会を作り出す機能を持っているものとして、考えているのである。これなど後のアドルノの考え方そのままと言ってもいいくらいだ。

音楽が、社会に働きかけ、社会を批判し、社会を作り出すとはどういう意味だろうか。

ベッカーによれば、「新しい社会を作る」という音楽の力が全面的に解放されたのが、フランス革命以後の近代である。今や音楽は「群衆に呼びかけ、新しい生の価値それ自体を自らのうちに吸収し、前代未聞の規模でもって(社会を)形成し、教化する力を持ち始めた」。近代社会における音楽の使命とは、「この絶えず膨張し、見たところ全く有機性を欠いていると見える群衆に、一体感を喚起すること」である。無秩序の群衆のカオスを、音楽が持つ人々を鼓舞する力によって、有機的な共同体へと統合するのである。

岡田は、(ベッカー説を)「無秩序の群衆のカオスを、音楽が持つ人々を鼓舞する力によって、有機的な共同体へと統合する」としている。ベッカーにとっては「有機的な共同体」こそが望ましいものだったのだろう*1

「無秩序の群衆のカオス」は、ベッカーにとっての近代社会の見立てではあろうが、それを社会学的に分析して、処方するのではなく、「音楽評論家」として「音楽」に期待をかけたというところであろうか。

 

こうした意味での近代音楽の金字塔は、言うまでもなくベートーヴェン交響曲である。後にベッカーは戦場から戻って執筆した交響曲の歴史についての本で、ベートーヴェンからマーラーに至る近代の交響曲を、「共同体を形成する機能」を持つジャンルだったと書いた。

コンサートホールで鳴り響く交響曲とは、教会のミサと貴族のサロン、そして大学におけるコレギウム・ムジクム(学生が行う音楽会)を総合した「社会全体が集う空間」、つまり教会と貴族とアカデミーとの境界を取り去って一つの巨大な社会を作り上げる場だったというのである。ベートーヴェンが創り出したのは、「公衆という混沌とした群衆を公共性へ向けて再創造する統一の意識」であった。

なるほど、ベッカーは「コンサートホール」に鳴り響く交響曲をもって、「有機的共同体」を夢見ていたのか。

コンサートホールとは、

19世紀においては、“一般市民”でも料金さえ払えばだれでも音楽を聴ける場所という意味を含んでいた。ヨーロッパにおいて、古くから自らの城や宮殿を「演奏会場」として音楽を聞いていた“王侯貴族”と違い、“一般市民”が入場料を支払えば気軽にだれでも音楽を聴けるようになって200年程しか経っていないこともあり、ヨーロッパ各地に『コンサートホール』が作られ始めたのは19世紀以降である。(Wikipedia)

コンサートホールに集う“一般市民”が、ベッカーのいう「混沌とした群衆」であったのか、よく分からない。

 

しかしながら新興ブルジョワの19世紀は、ベッカーの考えによれば、音楽を通したこのユートピア創出の夢が、次第にただの娯楽へと萎えていく没落のプロセスにほかならなかった。教会や貴族に代わって音楽の担い手となった市民階級は、音楽に単なる享楽しか求めなかった。何よりベッカーが問題視するのが、19世紀に入って生まれた音楽産業である。…音楽はベートーヴェンのように社会全体に向けて呼びかけることを停止し、人々を統合する代わりに、小さな集団ごとにそのニーズに合った音楽を提供することでもって、それを分断してしまった――これが19世紀の音楽史についてのベッカーの見立てだ。

毎日のように砲弾が飛び交う中で書かれたであろうベッカーの論考は、しばしば音楽社会のユートピア創出を希求する幻視となる。大戦前の音楽ジャーナリズムにおいて花形批評家の一人であった彼は、今や音楽の商品化を激しく呪詛する。

 では、教会や貴族に代わって音楽の担い手となった市民階級(新興ブルジョワ)は、コンサートホールに出向くことはなく、ベッカーの「ユートピア創出を希求する幻視」に過ぎなかったのか。

 

「私たちが見た、そして今なお見ているものは、解体しつつある社会の姿である。なぜなら社会意識は、社会義務の意識としても、社会権利の意識としても、もはや存在していないからである。しかし芸術はまさにこの二つを前提としているのであって、どちらも存在していないのだから、私たちはもはや芸術生活(芸術の生)ではなく、芸術産業しか持つことはできないのだ」

 「解体しつつある社会」とか「社会意識は…もはや存在していない」とか、このような感覚的な表現をされても、その時代・その場所にいない者には、理解できない。また芸術はこの二つ(権利と義務? あるいは社会と社会意識?)を前提としている、と言われても、何を言っているのか分からない。利己的な個人しかいない、と言いたいのであろうか。

 

私たちにはもはや社会はない。しかし音楽は社会を前提としている。音楽を創出するにはまず社会を創出しなくてはならないと、ベッカーは考えている。…言うまでもなくベッカーの呼びかけには、かなり危なっかしい部分があることは明らかだろう。第一次世界大戦以後の歴史において、「創造者と社会とが一つになって作り上げる新たな芸術/生のユートピア」という理念がどんな怪物を生み出したか、私たちはよく知っている。どうやらベッカーは、かっての教会や貴族が果たしていたのと同様の強力なイニシアティヴを、今後は国家が果たすべきだと考えているふしがある。しかしながら音楽の産業化への彼の憎悪が、後の国家社会主義的な芸術政策と紙一重の危険を孕んでいたことを、看過してはなるまい

「新たな芸術/生のユートピア」と「国家社会主義的な芸術政策」については、決して、ソ連ナチス・ドイツだけの問題ではない。…「新たな芸術/生のユートピア」は、「国家社会主義的な芸術政策」をもたらすから、「新たな芸術/生のユートピア」を追求してはならないとか、国家は一切関与せず自由放任が望ましい、というような単純な理解をすべきではない。「国家」を「私たち」と置き換えてみればよい。「私個人」が「新たな芸術/生のユートピア」を追求していればよいのか、それとも「私たち」が「新たな芸術/生のユートピア」を追求したほうがよいのか。…国家権力と自由という図式で考えるべきものではない。

 

Madness at Main stage, 2009

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https://en.wikipedia.org/wiki/Exit_(festival)

 

例えば国家が音楽も統制し、人民に奉仕させようとした社会主義リアリズム。そこではショスタコーヴィチのような著名な作曲家すら、絶えずシベリア送りの恐怖と背中合わせの中での創作を余儀なくされていた。またフルトヴェングラークナッパーツブッシュリヒャルト・シュトラウスといった大音楽家たちを擁していたナチス・ドイツは、「偉大なるドイツ音楽芸術」を繰り返し政治的プロパンダに利用した。

ナチス・ドイツと芸術については、退廃芸術 内なるファシズム 参照。

 

《第九》が歌う「音楽への感動を通した新しい社会/国家の創出」が本当に実現された瞬間、それは悪夢に転じる――この否定の弁証法こそが、現代社会における音楽のありようの究極の矛盾なのかもしれないのである。

「この絶えず膨張し、見たところ全く有機性を欠いていると見える群衆に、一体感を喚起する」(ベッカー)近代音楽の危うさは、既に何人かの識者が気づいていたものでもある。例えば第一次大戦後に書かれた『魔の山』の、いみじくも「政治的にうさんくさい!」と題された章の中で、トーマス・マンは主人公の一人セテムブリーニに次のように言わせている。

「音楽が私たちを麻痺させ、眠り込ませ、私たちの行動と進歩とを阻害するとしましたら? 音楽はそれもできるのです。麻酔剤の作用にも精通しているのです。悪魔的な作用にもです、みなさん! 麻酔剤は悪魔的です。なぜならば、麻酔剤は鈍感と停滞と無為と奴隷的静止を生むからです。音楽にはうさんなところがあります、みなさん。私は音楽がうさんくさい性質を持っているという考えを変えません。音楽は政治的にうさんくさいものであると申しても、過言ではありません」。

 今まで書いてきたことを忘れて(先入観なしに)、《第九》(ベートーヴェン 交響曲第9番第4楽章『歓喜の歌』)を聴いてみよう。

ww.youtube.com

 どうだろう。私には、《第九》は、「無秩序の群衆のカオスを、音楽が持つ人々を鼓舞する力によって、有機的な共同体へと統合する」ようなものとは聴こえなかった。

 

近代社会における音楽的感動の真実が、人々を地獄へ誘う子守歌や行進曲にもなりうるという事実は、最近公開された映画『帝国オーケストラ』を見れば一目瞭然である。…鉤十字の旗の下で《第九》や《ニュルンベルクの名歌手》前奏曲を指揮するフルトヴェングラー。涙なしでは聴けない感動的な演奏。死に魅入られたような目をして聴き入る聴衆。あちこちに負傷兵と思しき人々もいる。そして熱狂的な拍手を送るゲッペルスらの姿が映し出される。確かにここには、あらゆる身分階級を超えて、音楽の感動によって結ばれた共同体が存在している。おそらく臨席していたすべての人が、「この芸術、ここに集まった人々のためなら、命を投げ出すことも厭わない」と思ったのではないだろうか。誤解を恐れずに言えば、《第九》がこれほどまでに偽りのパトス[情念]なしに響く場を、私は他に知らない。ベッカーが第一次大戦の戦場で夢見たような、社会のすべての人々が一体になった共同体が、ここには確かに存在している……。

この映画に出てくる当時のベルリン・フィルの楽団員の証言によれば、敗色濃厚な戦争末期、それでも演奏会は行われ続け、熱心に人々が集まってきた。毎夜のように空襲があり、停電で真っ暗になったホールの中でベートーヴェンを暗譜で弾いたことも、空襲警報で演奏をいったん中断し、爆撃機が飛び去った後、中断した箇所から演奏を再開したこともあったらしい。耳や鼻が削げ落ち、あるいは手足を失った負傷兵の阿鼻叫喚の中で、慰問コンサートを開いたこともあったという。そんな中で奏でられたベートーヴェンが一体どんなものであったか。それはCDを聴いて「よかった」とか「悪かった」とか言っている私たちの想像を、はるかに絶した体験だっただろう。死に直面している人びとすら一つの共同体へと統合する音楽が本当に実現してしまったとき、音楽の感動は身の毛もよだつ悪夢に転じるかもしれないのである。

岡田は、ベッカーの評論を読みすぎていないか。そしてフルトヴェングラー指揮の《第九》や《ニュルンベルクの名歌手》を、ナチス・ドイツと結びつけすぎてはいないか*2ヒトラーフルトヴェングラー指揮の《第九》を聴いたからといって、フルトヴェングラーや《第九》に否定的評価を与える理由にはならないだろう。

また、20世紀のヨーロッパの人々に、《第九》が好まれたとしても、それを「政治的にうさんくさい」とか「有機的な共同体」とか評価するのは、果たしてどうだろうか。

 

《第九》は、EUの歌として定められている。

「EUの歌」は、1823年ベートーベンによって作曲された交響曲第9番第4楽章「歓喜の歌」の主題部分です。「歓喜の歌」は、ドイツの詩人フリードリヒ・フォン・シラー人類愛と平和を理想とする心にベートーベンが共感して作曲したとされ、その理想はEUと共通しています。ヨーロッパ・デーや他のさまざまなEUの公式行事の際にEUの歌として披露される場合は、オーケストラが演奏するのみで、歌は付きません。

1972年にヘルベルト・フォン・カラヤンによって編曲された「歓喜の歌」が、欧州評議会によって「欧州の歌」として発表され、1985年にミラノで開かれた欧州理事会(EU首脳会議)において「EUの歌」として承認されました。メロディーのみで構成される「EUの歌」は音楽が共通の言語となり、欧州の自由と団結を表現しています。また欧州の共同体意識と各国市民の平和に対する賛歌であるとともに、EUに加盟しようとする他の国民をたたえる意味もあります。「EUの歌」は加盟国の国歌に置き替わるものではなく、あくまで各国の市民が共有するEUの基本的な価値をたたえる歌なのです。(http://eumag.jp/question/f0814/

欧州の歌は1972年のヨーロッパ・デーにおいて大々的に告知された。1985年、欧州連合(当時は欧州共同体)の加盟国首脳は欧州の歌を共同体の歌とすることを採択した。この採択は加盟国の国歌と置き換えるものではなく、域内の多様性における統一を共有する価値観を称えるということが目的であった。欧州の歌は自由、平和、結束という統合されたヨーロッパの理想を表すものである。(欧州の歌、wikipedia

どうだろうか。《第九》は、政治的にうさんくさいだろうか。

 

前回、「歓喜の歌」のフラッシュモブ*3を紹介したが、もう一つ別のものを紹介しよう。

www.youtube.com

 このフラッシュモブは、①演奏者が最初は1人だが、その後群衆の中から演奏に参加するものが次第に増えていき、演奏が終了すれば群衆の中に消えていくという形をとる(つむじ風のようなもの?)。②コンサートホールでの演奏ではなく、特定の観客が想定されていない。足を止めて聴こうが聴くまいが自由である。その意味では「大道芸」(ストリートパフォーマンス、ストリートライブ)である。但し投げ銭はない。③観客が高揚し、一緒に歌ったり踊りだしたりすることはあるかもしれないが、そこに政治的な意味合いを見出すほどのものではない。 ④「歓喜の歌」のような特定楽曲でのみ群衆は観客になる。と言えるだろう。

*1:「有機的な共同体」がどのようなものであるか明確ではない。想像だが、ベッカーは抽象的な言葉を並べているのではないかと思う。私はこの「有機的な共同体」とは、「個々バラバラに自由気ままに生きるのではなく、お互いに助け合って生きていく社会」といった程度に理解している。

*2:ど素人が偉そうなことを言ってすみません。

*3:フラッシュモブflash mob)…インターネットを通じて連絡を取り合った大勢の人々が、突如としてある場所に一斉に集まることである。フラッシュモブの名称は、2003年に米国で開かれた大規模集会において初めて使われたとされる。それ以前から開かれていた「オフ会」に比べると、特定の目的や主張のもとに会合を開くという意味合いはより薄く、むしろ一種の即興・集団パフォーマンスに近いといえる。日本でも、フラッシュモブの形式で一斉に人が集い何かのパフォーマンスを行う事例が登場している。(IT用語辞典バイナリ)