浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

相対主義

加藤尚武『現代倫理学入門』(31)

今回は、第14章 正義は時代によって変わるか である。加藤は、価値基準が場所や時代によって変わるとして、ヘロドトス等から色々な例を簡単に紹介しているが、あまり面白くないので、これは省略する。

加藤は、相対主義の立場をまとめて次のように言う。

①「善い」という言葉は、「ある特定の社会にとって善い」ことを意味する。

②ある社会の人々が、他の社会の価値や道徳的行動を非難したり、干渉したりするのは不正である。

 加藤によれば、この①に関しては次のように拡張される。

この「善い」を「正しい」、「美しい」などに換え、「社会」を「階級」、「準拠集団」、「時代精神」などの言葉に置き換えると、相対主義のさまざまな変種を生みだすことが出来る。

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準拠集団とは、人の価値観、信念、態度、行動などに強い影響を与える集団。家族、地域、学校、職場など。(Wikipedia)

①は、単に「善い」という言葉の説明であって、何が「ある特定の社会にとって善い」のかを述べていないので、「ある物事・行為・考え等は」を補足した。「等」には、例えば「芸術作品」を含む。

加藤は、「善い→正しい」、「ある特定の社会→あるパラダイムの科学」と置き換えた例を挙げているが、パラダイムの話は面倒なのでパスする。

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ウィリアムズ(Sir Bernard Arthur Owen Williams、1929-2003、イギリスの哲学者、倫理学者)は、相対主義(上記①②)に次のような批判を加えている、という。

この見解は明らかに一貫性を欠いている。なぜならそれは第二の命題において、他の社会のことを扱う上での正しいことと不正なこととについて、ある主張をしているが、この主張は第一の命題では許されていない「正しい」の非相対的な意味を使っているからである。

この文章は難しくてよく分からない。加藤は次のように説明している。

相対主義を理由に、ある価値体系を否認した人は、あらゆる別の価値体系を主張する権利を失ってしまう。相対主義は実は「正義は存在しないという態度をとることが正義である」という矛盾した主張をしていることになる。相手を攻撃するのに有効なレトリックではあるが、それ自体正しいわけではない。相対主義を認める以上は、けんか両成敗にしなければ嘘になる。これがウィリアムズの論証である。

この説明を読んでも分からない。「相対主義を理由に、ある価値体系を否認した人」と言うが、相対主義者ならば、他の価値体系をも尊重するだろう。だから、他の価値体系を非難すべきではない(上記②)と言う。自分の価値体系(価値観)が優れていると主張するが、他の価値体系を否認することはない。否認するようであれば、彼を「相対主義者」と呼ぶのは適当ではない。

相対主義は実は「正義は存在しないという態度をとることが正義である」という矛盾した主張をしている」などという紛らわしい言い方をするのは、「入門者」(本書は「現代倫理学入門」である)を惑わすだけである。「相手を攻撃するのに有効なレトリックではある」と言うが、どうして「有効なレトリック」なのか分からない。「相対主義を認める以上は、けんか両成敗にしなければ嘘になる」これも何を言おうとしているのか、全く分からない。「けんか両成敗」って何? 果たしてこれがウィリアムズからの引用文の説明なのだろうか。「これがウィリアムズの論証である」と言われても、???である。

 

加藤の考えは、以下のようなものである。

基本的人権生存権については、「どちらでも好きにすればよい」という原則は成り立たない。…生死の選択では、多元的価値が併存できる余地がない。宗教の選択では共存の余地がある。独立して共存の余地のある観念体系の間には、相対主義が成立する。しかし、人間の生命や健康については、普遍的で客観的な尺度が大きな役割を果たしている。

その通りだろう。独立して共存の余地のある観念体系[物事・行為・考え等]の間には、相対主義が成立する。ここでは「より優れたもの」を目指すことになろう。しかし、基本的人権生存権については、「どちらでも好きにすればよい」という原則[相対主義]は成り立たない。ここでは、何を「基本的人権」と捉え、「生存権」をどう考えるべきなのかを問題にすべきである。

最初の図示の表現を少し変えてみよう。

  1. ある物事・行為・考え等は、特定のコミュニティにとって、善い/正しい/美しい。
  2. ある物事・行為・考え等は、ほとんどのコミュニティにとって、善い/正しい/美しい。
  3. ある物事・行為・考え等は、すべてのコミュニティにとって、善い/正しい/美しい。
  4. すべての物事・行為・考え等は、特定のコミュニティにとって、善い/正しい/美しい。

「ある物事・行為・考え等」の具体例を考えれば、「どちらでも好きにすればよい」と考えてよいものかどうか分かるだろう。(例えば、「生命・自由・幸福追求権」に関連して、軍事研究をどう考えるかということである。「軍事」など考えるのはイヤだという人は、「治山治水」を考えても良い。)

何でも「相対主義」(「どちらでも好きにすればよい」あるいは「それもありだね」)では、世の中成り立たない。当たり前のことである。