気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

アマチュアの領分

岡田暁生『音楽の聴き方』(23)

第5章 アマチュアの権利 の続きである。

「聴く音楽」と「する音楽」

大戦中にベッカーが提起した音楽と社会をめぐる問題を、1920年代に入ってさらに展開させたのがドイツの音楽学者ハインリッヒ・ベッセラーである。…ベッセラーの論文がユニークなのは、音楽を「人(社会)との関り」という点から考察しようとする点である。彼が提示するのは、「聴く音楽」と「する音楽」という二分法である。コンサートホールのために作られた近代西洋音楽は、対象として傾聴する音楽であった。それに固有なのは、自分の身体を動かさず、目を閉じて音楽に耳を傾ける聴衆である。それに対してダンス音楽のように、一緒にする音楽がある。それらにおいて、注意深く耳を傾けることは、そんなに大切ではない。この種の音楽は、それを共に体験することによって、人と人の交わりが生まれることを目的にしている。つまり「身体を動かして一緒にする」のである。その典型はジャズやキャバレー・ソングだが、近代社会ではほとんど見られなくなった労働歌、あるいは中世のモテットなどにも同じ特徴がみられる。そもそも本来の音楽とは「する」音楽であって、近代芸術音楽のように身体も動かさず粛々と傾聴する音楽のほうがよほど特殊なのだというのが、ベッセラーの主張の眼目である。

「聴く音楽」と「する音楽」というのは、おかしな区分だ。この文章を読む限り、「個人で聴く音楽」と「共に聴く音楽」の区分であるようだ。作曲者は別にいる。近代西洋音楽は「個人で聴く音楽」であり、ジャズやキャバレー・ソングは「共に聴く音楽」である(ダンス音楽が念頭にあるようだ)。「人と人の交わり」が生まれるか否かの区分であるようだ。だとすれば、「共に聴く音楽」が「本来の音楽」であり、「個人で聴く音楽」が「特殊な音楽」であるというのはおかしい。「つくる人」(作曲、演奏する人)と聴く人という区分をすれば、これもまた「人と人の交わり」と言ってよい。

 

彼もまた近代西洋音楽には極めて批判的である。ベッセラーいわく、近代音楽に固有なのは、「完全に原子化された、互いに無関係な群衆」だ。彼らが音楽に求めるのは娯楽ないし感動だけであり、プロが提供してくれる「完璧を理想とする音楽」、つまり商品としての音楽に受身で浸り、満足の度合いを拍手で表明することしかしない。ベッセラーに言わせれば、パウル・ベッカーの理想とは裏腹に、「交響曲が持つ共同体を形成する力などは実現はされなかった」。「本来のベートーヴェン的な理念に従えば、人類全体の代表であるべき演奏会の聴衆は、ブラームス(1833-97)やリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)くらいの世代になると、教養市民階級に限定されてしまった」。全人類を交響曲でもって統合するなど絵に描いた餅であって、それは結局のところ金持ちのステータス・シンボルになるのが関の山だったということだ。

ベッセラーは、コンサートホールで、近代西洋音楽を聴く者は「完全に原子化された、互いに無関係な群衆」である「教養市民階級」であるという。 これには、半分賛成半分反対といった感じだが、「それで?」と問いたくなる。また「共同体を形成する力」に対する誤解(皮相な理解)もあるような気がする。

こうした19世紀のコンサートホールに集まったブルジョワたちに特有なのは、「気分に浸る連想的な聴き方」である。つまり自分で身体を動かしもせず、うつらうつら夢想にふけるハイソでロマンティックな聴き方ということだろう。ベッセラーによれば本来音楽は、もっと自覚的に聴かれるべきもの、聴き手も自ら積極的に参加すべきものである。「響きにはりついた気分に浸ったり、音楽の動きを文学的描写的に絵解きしたりすることは、本来の意味における音楽とは一体何であるかを、ほとんど私たちに忘れさせかねない」。人は自分も身体を動かして音楽を体験しなければならない。それによって初めて音楽は、人と人を結びつけコミュニティを作ることができるのである。

実をいうと私には、「うつらうつら夢想にふけるハイソ(ハイソサエティー、上流社会に属しているさま)で、ロマンティックな聴き方」に憧れる部分があって、私たちみんなが、このような聴き方をできる社会がくればいいなと「夢想」している。そしてまた、「音楽の動きを文学的描写的に絵解きする」のも、「身体を動かして音楽を体験する」のも、大いに結構だと思っている。

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マチュアの領分

ベッカーやベッセラーが考えるような、「する」ことを通した音楽共同体の蘇生という問題は、思うにアマチュア復権ということと深く関わっている。何度も示唆したように近代においては、音楽における「する」と「聴く」と「語る」の分業が加速度的に進行してきた。本来愛する人」(アマートル)を意味したアマチュアの概念は、近代においては「下手な素人」の代名詞になってしまった。この言葉の没落のなかにこそ、近代の音楽状況の病が端的に表れているのかもしれないのである

ここで岡田が言う「する」というのは、「作曲する/演奏する」という意味のようだ。

ここでアンダーラインを引いた部分が気になった。アマチュアとは「愛する人」を意味したとある。アマチュアとは、「愛人」(不倫相手/パートナー)のこと? 「愛する人」に「アマートル」というルビがふってあったので調べてみたところ、「何かを愛する人」(amator ← amo-tor)という意味で、愛の対象ではなく、主体を意味するものであった。従って、音楽において「アマチュア」とは、「音楽を愛する人」という意味である。普通の日本語で言えば、「音楽の愛好家」、「音楽が好きな人」ということになろう。「何かが好きな人」といっても非常に幅広い。岡田は、近代においては「下手な素人」の代名詞になったと言っているが、そうでもないだろう。「上手な素人」も少なくない。アマチュアとプロの差は、「職業」とするか否かの差であるように思われる。従って、アマチュアの概念が「没落」したなどというのは随分と奇妙に聞こえる。但し、岡田はここで「近代の音楽状況の病」、即ち音楽が商品化してしまった、ことを言いたいのだろうとは思う。

続いて、岡田はロラン・バルトを引いてアマートルの説明をしているが、バルトの言葉は難しいのでパスする。「音楽の商品化」が岡田の言いたいことだろう。

 

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民俗/民族音楽に限らずとも、近代の西洋音楽の中にすら、アマチュアが「して」楽しむために作られた音楽がたくさんある。いわゆる「家庭音楽」と呼ばれるジャンル――特に連弾やリート――がそれである。例えばシューベルト即興曲などをコンサートホールで(あるいはCDで)プロのピアニストが非の打ちどころのない響きでもって弾くのを聴くと、いつも私は強い違和感を覚えてしまう。こうした「素人がする」ために作られた音楽にあっては、箱型ピアノの古ぼけた響きとかアマチュアの不器用な指使いといったものが、作品の不可欠の一部となっているのではないか。たとえミスタッチだらけであったとしても、弾いている本人にとっては楽しくて仕方がない、そういう音楽があるはずである。

シューベルト即興曲というのは、素人がする(演奏する)ために作られた音楽だったのか。

 

シューベルト 即興曲 Op.90-2  [Schubert Impromptu op.90 no.2]

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