浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

理性的議論の条件 - 理想的発話状況、原理整合性、普遍化可能性

平野・亀本・服部『法哲学』(37) 

今回は、第4章 法と正義の基本問題 第6節 議論 である。

ものごとを決めるにあたり、話し合い(議論)が重要だということは誰もが知っているだろう。しかし、この話し合い(議論)がどうあるべきか、ということを、まともに考えた人は少ないと思われる(私もこのなかに入る)。今回のこの平野の説明に拠って少し考えてみたい。

 

議論は、法によって実現されるべき正義の意味内容について意見が対立する時、調整を図る一つの手段として重要な意味合いを持っている。とりわけ現代社会のように、価値観が多様化し、実質的価値について意見の一致が見出しがたいような状況においてはなおさらである。しかし、単に議論をすればよいということにはならない。相互了解合意の形成をめざして議論をすることが大切である。では、相互了解を図り、合意が得られるようにするにはどのように議論をしたらよいのか。

どういう場面での話し合い(議論)を想定するかによって、話は異なってくる。例えば、企業における意思決定のための議論においては、対等な個人同士の議論というわけにはいかない。地位の上下が影響してくる。平野は、「法によって実現されるべき正義の意味内容について対立する意見の調整を図る一つの手段」として考えている。このように限定しないと話が拡散する。私もこのように限定して考えたいと思う。但し、どのレベルの法を考えるかによっても異なってくるので、ここでは「国家レベルでの法(政策)」を念頭におくことにしよう。但し、ここで考えることが、企業(組織体、共同体)における意思決定の問題にも通じるかもしれないということに留意しておきたい。

まず何のために話し合い(議論、対話)をするのか。それは「相互了解と合意の形成」のためである。これはいくら強調してもし過ぎることはない。相互了解と合意形成の意思がなければ、話し合いは成り立たない。問題はこのような意思を持たない相手をいかに説得し、話し合いのテーブルにつかせるかである。話し合いを拒否する者は、相手に対する大きな不信(憎悪、軽蔑)を持っている。この不信を解消する努力こそが先決であろう。本書は、話し合い(=議論、対話)が可能となるためにはどうすれば良いのかについてふれていないが、私はここが極めて重要なポイントではないかと感じている。しかし、これについては別途ということにして、本書の記述に従いみていこう。

 

議論の理論はそのための条件を提示する。「理想的発話状況」、「原理整合性」、「普遍化可能性」など、議論を公正に行い、できるだけ誰もが納得できるような合意に達し得るための理性的議論の条件である。

手続化が現代法の重要な動向の一つとなっている今日、そうした条件の意味を明らかにし、法的議論の基礎にあるものを改めて確かめておく必要がある。

相互了解を図り、合意が得られるようにするには、理性的議論が必要であるが、その条件として、「理想的発話状況」、「原理整合性」、「普遍化可能性」が挙げられる。

 

手続的アプローチと議論

異論が出て争いの原因になっている、またなりそうな事柄を決着させようとする場合、決定の方法としてはいくつかの選択肢がある。…社会的実践において通常最もよく行われるのは話し合いで決めるということである。投票で決める場合にも投票に至るまでの様々なレベルで話し合いが行われる。話し合いでは、決定の仕方そのものも論題にすることができる。…「正しい」ことが別にあるのかもしれないし、ないのかもしれない。しかし、ともかく「正しい」と言えることを見出していく共同の試みとして、私たちは話し合いをするのである。

正義への接近方法には、正しいことは何であるのかを直接の検討対象とし、正義判断の基準を確定していこうとする実体的アプローチに対して、結論の正しさよりも結論を得るにいたる過程の重要性を強調する手続的アプローチがある。話し合い、すなわち議論による解決の試みこそ、この手続的アプローチに属するものに他ならない。

 

平野は、正義(正しさ)への接近方法として、実体的アプローチと手続的アプローチを区分しているが、ここでは手続の重要性を認識しておけばよいだろう。(言うまでもないが、プロセスがよければ、結論はどうでもよいというものではない)

 

議論の重要性

手続的アプローチとしての「議論」の重要性は次のような点に見出される。

第1に、公共的決定においては利害が対立し意見が異なることがしばしばある。そのような場合に、決定の正しさを独立の基準によって判断するのではなく、できるだけ公正な仕方で議論を尽くし、共同して得られた結論としての合意内容を暫定的に正しいこととして受け入れていく。それは、価値観が多様化し、実体的な価値判断の基準について一致が得られにくい現代社会においてはとりわけ、平和的な問題解決の方法として意義あることだとされる。

 対立―――→合意=「正」

私は、経産省 次官・若手プロジェクトの 「不安な個人、立ちすくむ国家」について、いくつか記事を書いているが、そこでは「(一部の)若手世代の主張(感覚)」が色濃くでていて、対立意見の検討が極めて不十分だと感じる。つまり「公正な仕方で議論を尽くしていない」と思われる。

第2に、議論のダイナミクスもよく指摘される。議論は、説得の試みであり、特定の決定の良し悪しが、実体的な価値判断の基準を引き合いに出して、またその解釈を展開することによって論じられる。様々な問題点について、様々な次元で、相手方ないし聴衆が納得し得るような努力が為されるのである。従ってまた、議論には実体的考慮が入ってくるわけであり、議論が尽くされて合意に至れば、それが実体的規範体系に新しい要素を付け加えることになる。合意による暫定的な「正しさ」は、更に状況の変化により、あるいは同種の別のケースにおいて形を変えながら、引き続き繰り返し議論の俎上に上がってくることもあるであろう。

合意による正しさは、「暫定的な正しさ」であり(科学的真実とは意味合いが異なる)、「状況の変化」により、絶えず見直しが迫られるものである。「状況」をいかに捉えるか、そこには多様な見方がありうる。この意味で、あるルール(法)が、絶対的に正しくて、絶対に遵守しなければならない、ということにはならない。「状況の変化」に不適合なルール(法)は見直されなければならない。

合意による正しさが「暫定的な正しさ」であるということには、議論に参加したメンバーの問題がある。メンバーが変われば、合意による正しさの内容も変わり得る。どのようなメンバーであるべきかも、大きな問題である。

 

 第3に、共同体論のところで問題にされた実質的考慮が議論においては十分に尽くされうるということもある。特に法的な議論においては倫理的な問題が議論の対象になるときには、原則に対する例外であれ、原則そのものの見直しであれ、主張の根拠が問われることによって、原理的判断として実質的な理由付けが共同して探求されることになる。議論は、相対立する見解が共有できる理念なり正義観なりにまで下り立って一致できる点を探し求める過程であり、そこには、架橋し難い溝を埋め、克服し難い対立を克服する可能性が秘められているといえよう。

 「相対立する見解が、共有できる理念なり正義観」を探し求める。…相対立する見解が、(相手の話に聞く耳を持たず)自説を頑迷に主張するだけならば、話し合い(=議論、対話)とは言えない。「相互了解と合意の形成」が目指されているのならば、「共有できる理念なり正義観」を確認することになるだろう。しかしこれは、「言うは易く行うは難し」である。自説の根拠なり価値観を否定できる「度量」(心の広さ、懐の深さ、柔軟性)がなければならない。相手を打ち負かしたり、追い詰めたりするのではなく、「相互了解と合意の形成」を目指していることが何度でも確認されなければならないだろう。

 

議論プロセスの公正さ

しかし、いかに実体的かつ実質的な考慮に基づき、相手方を説得する試みとして議論が展開されるとしても、ただ話し合えばよい、議論すれば合意に至れるという保証はない合意に到達したとしても、権力的に一方向的な合意が取り決め得られた場合には、議論が尽くされたとは言えず、十分な納得も相互了解もなく、真の合意とは言えない。そこで本当の意味での合意に至れるように議論の過程をできるだけ公正にするという要請が出てくる。

ただ話し合うのではなく、「議論を尽くす」ということが肝要である。議論を尽くさずして、相互了解と合意の形成はあり得ない。

 

理想的発話状況

そうした議論プロセスの公正さについて、ハーバーマスは「理想的発話状況」の理論を提示している。「討議倫理」として、倫理的でもある理性的な条件を満たして議論をするところに、相互了解をめざすコミュニケーション的行為の合理性が見出されるとする。理性的議論のための理想的な条件とは次のようなものである。

① いつでも討論を開始したり、継続したりできること。

② 主張について、説明や正当化、あるいは異議の申立てや反対論証がなされること。

③ 各人が自ら正しいと思うことを、偽りなく誠実に述べること。

④ 主張と反論の完全に対等な機会が保障されていること。

 理性的議論のためには、この4条件で良いのかどうかは、私には未だわからない。だが、この4条件だけでも、実際にはかなり難しいという気はする。それゆえ「理想的」なのであろうが、「理性的議論のための条件」を明確にして合意する、ということが非常に大切なことであることを認識したい。

これらの条件は、議論参加者の限定のない対等性を保障することと、主張が理由を示して展開されるなど議論内容の実質性が確保されることを求めている。議論による相互の意思疎通が障害なくスムーズに行われることを規定するものであるから、外部からの作用によって議論が妨げられたり、内部的に強制があるなど議論参加の対等性を損なうような、外的・内的な障害から自由であることを含意している。また、議論への参加という点において完全な相互性・対称性を求めるものでもあるので、議論参加者が各々独自の利害関心なり人生目標を持っていること、それぞれが等しい判断能力・責任能力を有する自律的人格の主体であることを、相互に認め合い尊重し合うということをも伴っている。

従って、理想的発話の条件には、予め議論の手続きを決め、それに従ってフェアに主張をやり合うという単なる手続的公正さ以上のものが含意されていることになる。それは、議論を通して相互了解に至れるような「討議倫理」の要請内容としてそれが提示されているためである。

「それぞれが等しい判断能力・責任能力を有する自律的人格の主体であることを、相互に認め合い尊重し合う」というが、これは果たしてどうか。「それぞれが等しい判断能力・責任能力を有する」ことはあり得ないだろう。「相手の人格を認める」ということで良いのではないか。

  

原理整合性

公正に議論がなされ、相互了解と合意が得られるようにする条件として、そうした手続的なプロセス条件に加え、主張内容の実体に関わる形式的要請が説かれることがある。原理整合性と普遍化可能性である。

原理整合性とは、主張を展開する場合に、その主張をできる限り共通の論拠ないし共有の知に基づいて正当化するということであり、法的議論など規範的な内容に関わる主張の場合には、実定法や判例など、これまでの法的判断の基礎にある法原理すなわち実質的な価値判断の基準に可能な限り整合するような仕方で議論を組み立てるということである。例えば、差別的な言論でも言論の自由として許されてしかるべきだ、とう主張の根拠として、憲法第21条を挙げ、その基礎にある、精神的自由の優越性や思想の自由市場論、政府規制の中立性などといった法原理を引き合いに出すような場合がこれにあたる。もっとも、どのような原理にどのような意味において整合させるかが問題になるが、ともかくも共通論拠としての原理に依拠することにより、議論に共通の地盤ができ、その解釈に争点が絞り込まれることによって、合意に向けて、議論の前進が図られうるのである。

「共通論拠としての原理に依拠することにより、議論に共通の地盤ができ、その解釈に争点が絞り込まれることによって、合意に向けて、議論の前進が図られうる」…ここが大事なところである。例えば、差別的な発言(ヘイトスピーチ)の規制に関しては、表現の自由、思想の自由の原理とその解釈に関する話し合いになるだろう。

 

普遍化可能性

また、普遍化可能性とは、自らの主張が単に自己中心的な主張ではなく、また特定の利害関係にのみ関わる主張でもなく、普遍化が可能である、つまり何らかの普遍性を備えたものになっているということである。普遍化が可能であれば、理性的な議論として、相手にそれを受け入れることを求め得るような一定の倫理的力を持つということになる。但し、普遍化可能性にはそれ自体さまざまな捉え方がある。例えば、「他の人からしてもらいたいと思うことを他の人にしてあげなさい」という黄金律、あるいはその逆命法としての「自分がしてほしくないと思うことは他の人に対してしてはいけません」という格律である。普遍化可能性のこの種の捉え方は、相手の立場に立った場合でも受け入れることが出来るという意味で「立場の互換性」と言われることもある。

「相手の立場に立ってみよ」とはよく言われることである。これは頭では理解していても、なかなか出来ないことの一つである。理性的な人間でも難しい。なぜか。相手が頭痛で苦しんでいる。だが私は相手の立場にたって苦しむことができない。それでも私が頭痛を経験したことがあれば、相手の頭痛をある程度は想像できる。つまりは経験の差が大きい。それでも「想像力」を働かせて、相手の立場に立って考えることが必要である。例えば、医療制度について議論している場合でも、病気の苦しさを経験している人とそうでない人では、医療制度のあり方に差異が生じてくる。

また功利主義的な捉え方として、普遍化が可能であるというのは、多くの人々が受け入れることが出来るということである、とする見解がある。最大多数の最大幸福を正しさの基準とする考え方の一つの表現である。多くの人が受け入れることが出来るようなことでなければ普遍性を持ち得ない、とされる。

あるいはまた、普遍化可能性の義務論的な捉え方もある。代表的であるのは、カントの定言命法である。カントは実践理性の普遍的な要請は次のような定式で示されるとした。即ち「あなた自身の意思の格律がつねに同時に普遍的立法となりうるように行動しなさい」ということである。ここには、相手の立場に立つことも、多くの人々の幸福や受容に関わることも含まれていない。純粋に形式的な要請である。「普遍的立法」とはどのようなことかが問われるが、形式的な要請として一定の規制力を備えている。

功利主義と義務論については、コメントを省略する。

普遍化可能性についてはこのように、捉え方に異なる見解があるが、しかしいずれにしても、普遍性を有し得るような主張を展開することは、理性的な合意を可能にする条件の一つにはなるであろう。

確かにそうだ。普遍化可能性は、「理性的な合意を可能にする条件の一つ」であろう。

 

(参考)北朝鮮の核開発をめぐる「対話と圧力」について

核問題を全面的に論ずる能力はないので、このような話題はとり上げないほうが良いのだろうが、どうしてもひとこと言っておきたい気分なので、「対話と圧力」に焦点をあてて、書きます。

安倍内閣総理大臣は第72回国連総会において一般討論演説を行った(2017/9/20)。一部引用する。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/unp_a/page4_003327.htm

国際社会は北朝鮮に対し,1994年からの十有余年,最初は「枠組合意」,次には「六者会合」によりながら,辛抱強く,対話の努力を続けたのであります。しかし我々が思い知ったのは,対話が続いた間,北朝鮮は,核,ミサイルの開発を,あきらめるつもりなど,まるで,持ち合わせていなかったということであります。対話とは,北朝鮮にとって,我々を欺き,時間を稼ぐため,むしろ最良の手段だった。何よりそれを,次の事実が証明します。すなわち1994年,北朝鮮核兵器はなく,弾道ミサイルの技術も,成熟にほど遠かった。それが今,水爆と,ICBMを手に入れようとしているのです。対話による問題解決の試みは,一再ならず,無に帰した。なんの成算あって,我々は三度,同じ過ちを繰り返そうというのでしょう北朝鮮に,すべての核・弾道ミサイル計画を,完全な,検証可能な,かつ,不可逆的な方法で,放棄させなくてはなりません。そのため必要なのは,対話ではない。圧力なのです。…「全ての選択肢はテーブルの上にある」とする米国の立場を,一貫して支持します。そのうえで私は,北朝鮮に対し厳しい制裁を課す安保理決議2375号が,9月11日,安保理の全会一致で採択されたのを,多とするものです。それは,北朝鮮に対する圧力をいっそう強めることによって,北朝鮮に対し,路線の根本変更を迫る我々の意思を,明確にしたものでした

要約すれば、次のようになろうか。

  1. 国際社会は、最初は「枠組合意」、次には「六者会合」により、辛抱強く、対話の努力を続けてきた。
  2. 北朝鮮は、我々を欺き、今,水爆と大陸間弾道ミサイルを手に入れようとしている。
  3. 対話による問題解決の試みは、一再ならず、無に帰した。
  4. いま必要なのは、対話ではなく、圧力である。
  5. 全会一致で採択された安保理決議2375号は、北朝鮮に対する圧力をいっそう強めるものである。

事実に関して無知で(あるいは生半可な知識で)、疑うことあるいは批判的思考というものを知らなければ、この演説を聞いて、「北朝鮮は、どうしようもない国だ。対話などという過ちを繰り返すのではなく、もっと制裁を強化しなければならない」と思うだろう。

私の疑問は、次のようなものである。

  • 「枠組合意」や「六者会合(北朝鮮、アメリカ、中国、韓国、日本、ロシア)」における議論はどのようなものであったか。それは、「理性的議論のための条件」、「原理整合性」、「普遍化可能性」を満たすものであったか。これらの事実認定において、問題ありとすれば、対話(議論)がなされたとは言えないのではないか。
  • 北朝鮮が核実験やミサイル実験を繰り返してきたのは事実であろう。しかしそれが「北朝鮮は、我々を欺いた」となるかどうか。北朝鮮はどう主張しているのか。相手の言い分を聞かずに、判断を下すべきではない。(検察の主張だけで判決を下すというような誤りを犯すべきではない)
  • 仮に北朝鮮が約束を破って核実験を強行したというのが事実だとして、そこから直ちに「いま必要なのは、対話ではなく、圧力である」となるだろうか。何故、北朝鮮がそういう行動をとるのかの分析が必要である。対話のための条件の一部が欠落していたかもしれないのである。もしそうなら、その改善により、対話が有効であるということになるはずである。そこの検討が必要だろう。
  • 安保理決議2375号は、北朝鮮に制裁(圧力)を加えるものであろうが、それだけか。制裁を加えれば、問題は解決するのだろうか。「問題」は何であり、「解決」はどういう事態を言うのか。

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https://bee-media.co.jp/archives/553

 

安保理決議 2375号は、2017/9/11に、採択された。一部引用する。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000292227.pdf

(前文の一部)安全保障理事会は、…憲章に従い、全ての国の主権、領土保全及び政治的独立への約束を強調するとともに、国際連合憲章の目的及び原則を想起し、…事態の平和的かつ外交的な解決に対する要望を更に表明するとともに、対話を通じた平和的かつ包括的な解決を容易にする理事国及びその他の加盟国の努力に対する歓迎を改めて表明し、…

(29) 朝鮮半島及び北東アジア全体における平和と安定の維持が重要であることを改めて表明し、事態の平和的、外交的かつ政治的解決の約束を表明し、対話を通じた平和的かつ包括的な解決を容易にするための理事国及びその他の国による努力を歓迎するとともに、朝鮮半島内外の緊張を緩和するための取組の重要性を強調する。

(30) 包括的な解決のための見通しを進展させるため、緊張を緩和する更なる作業を要請する。

(31) 平和的な方法による朝鮮半島の完全な、検証可能な、かつ、不可逆的な非核化の目標の達成が必要不可欠であることを強調する。

このように、安保理決議 2375号は、具体的制裁を規定する(引用は省略)とともに、「対話を通じた平和的かつ包括的な解決」を強調している。

また、「六者会合」については、

(28)安全保障理事会は)六者会合への支持を再確認し、その再開を要請するとともに、中国、北朝鮮、日本、大韓民国ロシア連邦及びアメリカ合衆国によって2005年9月19日に採択された共同声明に定める約束並びにその他の全ての関連する約束への支持を改めて表明する

「共同声明に定める約束」には、

  • 六者会合の目標は、平和的な方法による朝鮮半島の検証可能な非核化であること、
  • アメリカ合衆国及び北朝鮮は相互の主権を尊重し、平和裡に共存することを約束したこ
  • 六者は経済協力を推進することを約束したこ

を含む、としている。

このように、安保理決議の「六者会合」に対する評価は、安倍総理(日本政府)の評価(六者会合による対話の努力は「過ち」であったと評価している)とは、全く異なる。

このような、「対話ではなく、圧力を」とする姿勢で、対立が解消され、望ましい結果になった事例があるだろうか。