気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

確率的な推論は妥当なものとして受け入れてよい

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(20)

前回、「事実関係をはっきりさせることが難しい政策決定一般にかかわる問題」として、次の3点があげられていた。

  1. 不確実な状況における推論の問題
  2. 立場の違いに起因する問題
  3. クリティカルシンキングそのものの倫理性

今回は、(1) 不確実な状況における推論の問題 の続きである。(前回は、「やわらかい反証主義」の話であった)

反証主義は、ある営みが全体として科学と呼べるかどうかの問題を扱っていたが、科学的な営みの中で出た仮説でも、個々の主張の信憑性には大きな差がある。そうした個々の科学的な主張の評価には、反証主義とはまた別の考え方が必要になる。 

 

確率的な推論

科学において使われる推論は、演繹的に妥当な推論に限らない。むしろ、統計的な証拠をはじめとして、確率を使った推論(以下、「確率的な推論」と呼ぶ)のほうが大多数を占める。これは演繹的に妥当な推論が情報量を増やさないことを思えば、ある意味で当然である。科学は非常に限られたデータから、遠い過去や未来、極小の世界や宇宙全体についての理論を立てなくてはならない。手持ちのデータから一歩踏み出るような推論が必要なのである。

「演繹的に妥当な推論」については、論理的推論 ウェイソンの「4枚カード問題」参照。では、「確率的な推論」とは、どういうものであるか。

確率的な推論にはいろいろなパターンがあるが、科学において使われる典型的なパターンは、[式5-2]のようなかたちをとる。

式5-2(確率的な推論)

 大前提 Aという仮説が間違っているとすれば、Xという証拠が得られることはほとんどあり得ない

 小前提 Xという証拠が得られた 

 結論  Aという仮説はおそらく間違っていない

式5-3(例)

 大前提 彼女が私に気がないとすれば、彼女が私の方に向かってにっこりすることはほとんどあり得ない

 小前提 彼女は私の方に向かってにっこりした

 結論  彼女はおそらく私に気がある

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これはどう頑張っても演繹的に妥当な推論ではない。仮に前提2つが正しくとも思い違いということはある。更にこうした推論は一定の法則性がこの宇宙に存在していることを前提としているので、第3章で少し触れたヒューム流の懐疑主義を受け入れると確率的推論は認められないことになってしまう。しかし、そうした懐疑主義が問題とならないようなもっと非哲学的な文脈においてであれば、この推論が妥当であることは多くの人が認めるだろう。

ヒューム流の懐疑主義」とは、次のようなものであった。

今までうまくいってきた法則や規則性がこれから観察するもの、これから起きることにもそのままあてはまると期待する理由は何もないのではないか。 

これに対して、つぎのような言い方をしてみる。

  • 今までうまくいってきた法則や規則性は、これから観察するもの、これから起きることにもそのままあてはまるとは言えないのではないか。
  • 今までうまくいってきた法則や規則性は、これから観察するもの、これから起きることにもそのままあてはまる可能性が高いと言えるのではないか。

このように並べてみると、ヒューム流の懐疑主義と確率的な推論は、「程度の差」のようにも思える。しかしここではそれは問題ではない。確率的な推論(式5-2)は、誰もが認めるだろう。

確率的に妥当な推論に共通するのは、前提が正しければ結論も正しいという「演繹的に妥当な推論」の条件は満たされないけれども、前提が正しければ結論が正しい確率が高い、という若干弱い条件は満たされる、ということである。もちろん、科学の正しい方法論について論じる場合など、こうした推論の妥当性そのものを疑う必要のある文脈もあるにはある。しかし、それ以外の大半の場面では、かなり厳密な科学的正確さを要求される文脈においても、確率的な推論は妥当なものとして受け入れてよいだろう。こうした視点からは、シミュレーションの使用も(信頼性しだいで)正当化されるということになる。

第3章の議論と合わせると、推論に関しては、演繹的推論すら疑う文脈、演繹的推論は妥当として認めるがそれ以外は疑う文脈、演繹的推論に加えて確率的な推論の一部も妥当として受け入れる文脈、の3つの文脈がここまでで区別されたことになる。

 

二分法による議論

確率的な推論の考え方を導入すると、演繹論理の観点からは単なる過ちだったものが、確率的な推論の観点からは擁護できる場合もある。

以前、「誤った二分法」の話があった。これは、

複雑な状況を、AかBかと言うかたちで単純化して、AではないからBだ、と結論する過ちである。人間をすべて敵と味方に二分して、「お前は味方ではないから敵だ」というような判断をするのはこれにあたる。

しかし、二分法による議論が全くダメというわけではない。

AでないものがおおむねBであることが分かっているのなら、これは確率的には妥当な推論にもなりうる。例えば、通勤手段として5割の人が電車、4割がバス、1割がその他の手段を使っていることが分かっているとしたら、相手がバス通勤でないことが分れば「恐らくこの人は電車で通勤しているのだろう」と推定するのは十分根拠がある推論である。もちろんこの結論は間違っている可能性があるが、それは多くの文脈では許容されるし、間違いの確率が低ければ低いほどこの推論が許容される文脈も広がる。 

 「AでないものがおおむねBであることが分かっていない」にもかかわらず、「AではないからBだ」と結論する誤りが多すぎるように思う。それゆえ、「誤った二分法」の注意喚起が必要である。

「AでないものがおおむねBである」ことが分かっているのなら、これは確率的には妥当な推論にもなりうるのだが、ここで重要なことは、「AでないものがおおむねBである」という事実確認である。この事実確認なしに、「Aでないから、Bだろう」と言うことはできない。

 

権威からの議論と対人論法を再考する

一般に、他人の証言を信頼せざるを得ない状況はすべて権威からの議論を援用することになる。従って、7歳の子供に「お留守番をしていた間、何をして遊んでいたの?」と尋ねて、その答えに基いて何か主張するのも権威からの議論である(その子供は自分が何をやったかについての権威なのである)。つまり権威からの議論なしには我々の生活など成り立たない。確率的な推論を認める文脈では、条件さえ整えば、胸を張って権威からの議論をやってよいのである。

伊勢田の言わんとすることには賛成なのだが、子供の例とこの言い方には賛成できない。「その子供は自分が何をやったかについての権威なのである」と言うが、この「権威」という言葉の用法はおかしい。「その子供は自分が何をやったかについて、誰よりもよく知っている」というべきだろう。また「条件さえ整えば、胸を張って権威からの議論をやってよい」と言うが、その「条件」なるものが明確ではない、ここでの「権威」が何を意味しているのかも明確ではない。おかしな権威の主張を、「胸を張って」受け売りしてもらっても、戸惑うばかりである。やはりここは、「権威からの議論(権威に訴える議論)をするが、間違っているかも知れない」という意識を持っていなければならないだろう。

一般論としては、その人の権威がどういう根拠から発生しているかということと、問題になっている主張の内容に関係があるかどうかで、権威からの議論を使っていいかどうかを判断することになる。

これは素人(非権威者)が判断できるだろうか。例えば、大学教授で、原子力規制委員会の委員であれば、原発に関する発言を、「無批判」に受け売りして良いだろうか。素人ができることは、いろんな人の話を聞き、素人なりの判断をすることではなかろうか。

 

対人論法もまた、権威からの議論を使ってよいのと同じ条件が整えば使っても良いだろう。つまり相手の性格に問題があるとか、経歴に問題があるとかいったことも、もしその事実が主張の信憑性と関係しているなら、根拠として使えるということである。

対人論法とは、「こんなひどい奴が言うことだから正しいわけがない」という議論であった。Wikipediaは、「権威に訴える論証の逆は、発言者の権威の欠如などを理由にその主張を偽であるとする人身攻撃である」と言っていた。伊勢田の言うように「条件が整えば」対人論法を使ってもよいのかもしれないが、そんなことを言うよりも、対人論法は「人身攻撃」であると考えておいた方が良い。

「権威からの議論」と「対人論法」は、広範にみられる現象なのだから、これはダメと何度でも強調すべきであり、紛らわしいことを言うのは適切ではないだろう。(「権威からの議論」と「対人論法」については、(権威に訴える論証)生物学者のKI教授によれば…… 参照)

 

 (2) 立場の違いに起因する問題

立場の違いに起因する問題には、いくつかのパターンがある。以下では、そのうちから、①価値観の違い、②ものの見方の違い、③目的の違い、という3つの違いについて考えていこう。こうした違いは、特に合意をとる必要がないときには別に放置していても構わないだろうが、何らかの合意に達しないといけないような状況(政策決定など)では、なんとかしてお互いの違いを擦り合わせていく必要がある。

 

①価値観の違いの擦り合わせ

自分にとっては当然正しい(不正な)行為と思われるものや、自分にとっては当然望ましい(望ましくない)状態だと思われるものについて、他の人が異議を唱える場合があり得る。

まず、実践的三段論法を使って、お互いの価値判断の背景にある大前提(より一般的な価値判断)と小前提(大前提と結論を結ぶ事実判断)を特定する。大前提で違っているのか小前提で違っているのかで意見の調整の仕方が違ってくる。小前提の方は(単純に考えるなら)、証拠を突き合せたり言葉遣いの違いをはっきりさせたりすれば対立を解消できるはずである(すぐに説明するようにそこまで単純にはいかないが)。 

 実践的三段論法については、価値主張の無限連鎖 参照。

大前提のほうの対立は、さらに大前提に遡るか、あるいはお互いの大前提がもっともらしいかどうかを他の事例にあてはめてみることで判断する、という方法を採ることができるだろう。豊かで環境負荷*1の高い大量消費社会と、豊かさにおいては劣るが環境負荷は小さい小規模消費社会のどちらを好むか、という対立を例にとれば、小前提(大量消費社会が最終的に大破局に直面するかどうか等)についての意見の差と、大前提(物質的豊かさそのものの望ましさ、現在世代が未来世代の利害をどの程度考慮に入れるべきか等)についての意見の差が複雑に絡まっているように思われる。しかし、例えば「大破局で大量の死者が出るような事態は望ましくない」といった主張については誰も反対しないだろう。そういう一致点をうまく利用すれば意見の調停は可能となるだろう。

価値観の違いについては、伊勢田の言うように、「大破局で大量の死者が出るような事態は望ましくない」というような一致点を見つけることが重要だろう。

ただし、こうした調停には原理的な限界がある。というのも、一般的なレベルでも個別具体的なレベルでも価値判断の上でまったく一致がとれないということであれば、調停は出来ないのである。価値判断の対立は、有無を言わせぬ証拠を突き付けて解決する、というわけにはいかないのである。こういう場合にはお互いの価値判断をそれぞれに尊重しつつ妥協する、といった解決を探らざるをえなくなるだろう。これが価値に関するCT(クリティカルシンキング)には「よりましな解答」はあっても「正解」はない、ということの意味でもある。

前章で紹介したさまざまな手法でも擦り合わせきれない価値観の相違が残る時、我々は何をすればよいのだろうか。これはCTというよりも、根回しやら「腹を割って話す」というテクニックが活躍する場面で、本書で述べるべきことはあまりない。 

 「お互いの価値判断をそれぞれに尊重しつつ妥協する」、「根回し」、「腹を割って話す」、いずれも大切なことであると考える。「話し合う」、「相手を尊重する」ことが出来れば、希望はある。…しかしそこに至れない現実がある。それは何故か。どうすれば良いのか。

 

合理的な調停の事本的な方針としては、対立する人々全員を公平に配慮するようなやり方で調停案を出すことにすれば、全員が納得するはずである。そうした公平な配慮のことを「正義」と呼ぶことにすると、正義に適った調停案が合理的な調停案だということになる。そうした調停方法の一つとして「手続的正義」という考え方がある。これは、関係者の誰もが認めるような手続に基づいて、対立する意見から一つを選び出す、というやり方で、これならば対立する見解の人たちも結論に納得するはずである。手続的正義の手法で一番典型的なのは民主主義社会における多数決の原理である。ただこれは環境問題など、未来の人々が関わるような問題についてはあまりうまく機能しない。まだ生まれていない人々は、環境政策の利害関係者であるが、彼らは代議員を立てて国会で現代人に論戦を挑むというわけにはいかない。ということで、手続的正義の考え方を使うにはまだまだ工夫が必要だが、話の本筋からかなり脱線してしまうので正義についてはこの位にしておこう。

このような調停、手続的正義でうまくいく場合もあるだろうし、うまくいかない場合もあるだろう。未来の人々が関わらない問題でも、多数決の原理でOKというわけにはいかない。「うまくいかない」のは何故かと問わなければならない。

*1:環境負荷温室効果ガスの増大や生態系破壊など、地球環境に与える負の影響。(朝日新聞、キーワード)。