浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

あなたは自分の親が寝たきりで、一人でものを食べられなくなったら、放置して死なせますか?

経産省 次官・若手プロジェクト 「不安な個人、立ちすくむ国家」(5)

1歳11カ月の男児を乗用車内に放置し、熱中症で死なせたとして父親(パチンコをしていたという)が逮捕された、というニュースがあった。では、自分の親が寝たきりになり、一人で食事をとることも、薬を飲むこともできなくなったら、放置して死なせますか?

 

次の事例2つを読んでみて下さい。いずれも、http://www.peg.or.jp/danwa/kako/tekiou/te-6.html より。

なお、胃瘻(いろう)とは、「腹壁を切開して胃内に管を通し、食物や水分や医薬品を流入させ投与するための処置である。最近では人工的水分栄養補給法と呼称される」(Wikipedia)

また、誤嚥性肺炎とは、

通常、口から入った食べ物は、咽頭から食道を通って胃まで届きます。しかし、飲みこむ力が弱くなった高齢者では、食べ物が誤って気管に入ってしまう「誤嚥」が起こりやすくなります。本来は食道に送られるべき食べ物が気管に入り、その細菌が肺に入り込んで炎症を起こしてしまうのが誤嚥性肺炎です。この誤嚥性肺炎は食べ物だけではなく、寝ている間に飲みこむ唾液によっても起こります。2015年度の厚生労働省の人口動態統計によると、「肺炎」は日本人の死亡原因の第3位でした。また、肺炎で亡くなった方の96.9%が65歳以上でした。さらに高齢者の肺炎の約70%は誤嚥が原因だと言われるほど、起こりやすい症状です

https://ansinkaigo.jp/knowledge/3241

事例1

胃瘻の家族を1年介護した家族です。我が家の家族も認知症あり、誤嚥で経口摂取ができなくなり肺炎を起こし、かなり衰弱していましたが、胃瘻で延命? このまま死を待つのか? 選択を迫られての決断でした。まずは胃瘻造設可能か判断をいただくために入院することにして、選択の先延ばし状態で入院いたしました。リスクは何にでも伴うことですが、可能と判断されて後に待ち受ける介護も軽く考えて胃瘻を造っていただきましたが、今となれば後悔も少なからず残っています。一時は状態も良くなり選択に間違いはなかったと思っていましたが、月1回は必ず高熱を出し肺炎に苦しめられました。在宅介護時は吸引や口腔ケアをまめにしていたのでトラブルはなかったのですが、都合でショートスティに出掛けると必ず肺炎を起こして帰ってきていました。在宅で365日介護できたら違った結果もあったかもしれません。最後は数回の肺炎で体力が落ち、1年間の胃瘻生活でした。我が家の場合は胃瘻での栄養摂取で1年の命をつなぎましたが、本人にしてみれば辛い1年だったのでは・・・、家族の自己満足の為の1年だったような気持ちも残ります。忘れられないのは、最後の肺炎もいつものように治ると信じていましたが、意識もなく辛そうな呼吸、閉じた瞼から流れていた涙、本当に1年間ごめんなさいとしか言えませんでした。地域差もあるかもしれませんが、我が家の場合、胃瘻を薦める医療機関があっても、在宅時の胃瘻管理ケアの詳しい介護サービスを提供してくれる機関、往診医がいなかったことが悔やまれます。

事例2

我が家の家族も認知症あり、誤嚥で経口摂取ができなくなり、胃ロウを造設、その後在宅介護を現在まで6ヶ月、そして7ヶ月目に入ったところです。誤燕性肺炎と尿路感染症に最も気を使っています。お陰さまでこの間入院はありませんでしたが、いつかはやってくる入院に、毎日ビクビクおびえています。それでも無事に過ごせた一日、一日に感謝し、もう一日、また一日と続けています。

 仕事を休職しました日々、痰の吸引、栄養剤の固形化、摘便[肛門から指を入れ、便を摘出すること]、口腔ケア、検温、10分間の端座、オムツ交換、胃ロウ洗浄、陰部洗浄、手浴....が日課です。深夜ベッドの脇にぼっ立って、暖房のスイッチを上げようか、下げようか迷っている自分がいました。自分自身がもうダメだ、と悲鳴を上げましたが、それもやり過ごし親の介護ができることの幸せを大切にしたいと思うようになりました。寒い冬ですが、ガラス越しの日差しは温かく、背中をさすり、ヨダレを拭きながら過ごす端座の一時は、何もコミュニケーションはありませんが、心安らぐ大切な一時です。静かな呼吸音、体が温かい、手が動いた、小便をした、そんな当たり前のことがうれしくなりました。これは、自己満足なのかもしれませんね。親父は早く逝かせてと思っているのかもしれません。介護が俺でよかったのかもわかりません。

 この2つの事例には、子どもの親に対する切実な思いがあらわれている。そしてまた「自己満足かもしれない」とも感じている。これが普通の(良好な)家族の絆であるような気もする。母親(父親)が認知症ぎみになり、食事も満足にとれなくなってきた。それで「寿命なんだ。死んでくれ」となるだろうか。

 

経産省 次官・若手プロジェクト 「不安な個人、立ちすくむ国家」は、P20で次のように述べている。

人生最後の一ヶ月に、莫大な費用をかけてありとあらゆる延命治療が行われる現在。どんな人生の最期を迎えたいですか? 「終末期の自分」を、選択できていますか?

P24では、

フランスでは、医療現場と国民が医療の限界を受け入れ、終末期の選択肢が拡大。…高齢者に対しては、胃ろうなどの延命治療を行わなくなっている。…医療現場と意識の高い国民に変化。

としている。

私は、(現在のところ)終末期における延命治療はすべきではないと考えているが、それはプロジェクト資料のように、莫大な費用をかけるべきではないとか、選択肢を拡大させるためとか、の理由ではなく、「生きる意味」(QOL)に関する理由からである*1

プロジェクト資料には、事例で取り上げたような、「親に対する切実な思い」が感じられない。またシルバー民主主義を背景に、日本の高齢者はすべて延命治療を望んでいると思わせるような書きっぷりである。

 

さて、資料の批判ばかりしていても仕方がないので、ここで「胃ろう」に関する一つの論文を紹介しておこう。それは、葛原茂樹の「自然死か人工的延命か-胃ろう問題から見た高齢者の終末期対応の日欧比較とわが国での自己決定権確立にむけて-」(www.suzuka-u.ac.jp/information/bulletin/pdf/2012/12-02-kuzuhara.pdf)という論文である。これは、なかなか考えさせられる内容があり、詳細にみていきたいところだが、<引用-コメント>の記述スタイルでは、長くなりすぎるので、ごく一部だけピックアップするにとどめる。

 日本では,生存期間延長と長寿が医学の使命という伝統的な考えと,生存権擁護の精神から,延命処置の是非を議論することは長い間タブー視されてきた。しかし,患者の権利とインフォームドコンセントの普及啓発の中で,本人の同意を得ない延命処置の是非が議論の俎上に上がり,2000 年には世界保健機構(WHO)が健康寿命という概念を提唱して,長寿の質が問われるようになった。このような変化を背景に,2012 年1 月,日本老年医学会は高齢者の終末期医療について,高齢者の尊厳を護るものであることが,第三者の判断も含めて是認される場合には,終末期医療における延命治療の差し控え,あるいは撤退も選択肢の一つになるという新しい立場表明を公表した

 胃ろう造設を決めるのは誰であろうか? 言い出すのは医師であり,決定するのはほとんどが家族であって,本人が決定したのは訪問看護ステーションの13.5%以外は数%以下であった。訪問看護ステーションで本人の割合が施設区分中で最高であるのは,利用者が比較的状態のよい在宅療養者であるので,決定能力を有する者の割合が他のグループよりも高かったためと推定される。

 経口摂取できる見込みがないままに,とりあえずの延命処置として胃ろう造設を行い,その後は単なる延命のために持続している実態。…胃ろう造設によって改善したのは,栄養状態,嚥下性肺炎防止,確実な与薬など,介護する側の都合に関するものであり,患者本人にとっての改善である嚥下能力の改善やQOL 改善はほとんどない結果であった

 このような延命のためだけに胃ろうを造設された高齢者が,慢性病院や特養,老健の入院患者の多数を占める現状の医療倫理学について,急性期病院から特養までの諸施設で胃ろう患者の対応をしている30 名の医師への探索的構造的インタビューに基づいた詳細な研究報告が,会田薫子によってなされた。これは,従来の数値化された実態調査とは異なり,胃ろう問題を生命倫理という視点から焦点を当てた初めての研究である。

 インタビューを通じて得られた胃ろうの意味は,一言にまとめれば「本人の利益にならない延命処置であっても,家族の心の問題に対処するために行う。」ということであり,「点滴ボトルや胃ろうの栄養チューブが下がった風景が,家族や医療スタッフ,介護スタッフなど,患者の周りの人たちの心をケアする。」という現実であった。家族にとっては,「親に生きていてほしい」「親に何かしてやりたい」という能動的な肯定と共に,「何もしないことに堪えられない」「親を餓死させるのではという不安」「見殺し感」「延命処置手控え決断による死の責任」「遠くの親戚や,近所の目と非難」を回避したいという受動的な理由が,胃ろう造設によって回避されて心理的安寧を得ることができる。親の年金収入が死亡により途切れると困るという本音で延命を続けることも少なくない事も語られている(これは,親の介護のために子供が仕事を止めざるを得ず,胃ろうを付けた寝たきりの親の年金が子供の唯一の収入源という,日本の貧しい福祉事情の反映であろう)。

 延命処置の手控えや中止を決断することによって,死の責任を問われることを恐れる家族から,「お任せします」とか「できるだけの治療をしてやって下さい」と,判断と責任を医師に押し付けることが常態化している。医師は,医療処置不実施による死の責任や,マスコミや司法による触法の追及を危惧して,回復の見込みがなく医学的には無意味と分かっていても,胃ろう造設に踏み切らざるを得ないという,日本の高齢者の終末期医療の実態が,赤裸々に語られている。

 胃ろう造設の対象となる「患者自身の意向」はどこにも出てこない…会田は,英米の方法-患者の利益を患者本人だけのものとして限定的に捉え,患者本人への利益だけに注目して医療行為の是非を検討する-が日本でも同様に適切であるかどうかは疑問としながらも,「患者にとって不利益となる恐れがある医療行為を,家族が希望するから実施する」ことが許容されるとは考え難いとする立場から,延命処置の実施に当たっては,「家族の意向は尊重されなければならないが,本人の利益に十分配慮したものでなければならない」,と結論している。

  人生の最期に近づいて一番難しいのは,食べられなくなった時にどうするかという判断である。「自然な死」とも関連して重要な課題である。このような終末期と最期の在り様を選択したデンマーク人の死生観について,「リヴィングウイルと社会的支援」の章でゲントフテ病院の医師の言葉が紹介されている。(松岡洋子の「デンマーク高齢者福祉と地域居住-最期まで住み切る住宅力・ケア力・地域力」)

 “ 延命? 日本人は『イエス』というでしょうが,デンマーク人は『ノー!』と言います。もう最後だと分かっている場合,栄養の点滴は本人や家族が希望すればしますが,そんな人間的でないことは一般的ではありませんね。・・・・「日本では寿命だと分かっていても先ず点滴ありきの風潮があるが,改善できないか」という質問に対して,日本の医師の反応は,「家族が許しませんよ。・・・1 分1 秒でも長く生きてほしいというのは家族の自然な心情であるし,また『もう点滴は止めようよ』と提案した娘や息子は,兄弟姉妹,親戚一同から『人非人』扱いをされるというのが現状である」と言います。”

  つまり,ヨーロッパでは高齢者本人が延命処置を拒否する結果,食べられなくなったら自然死が訪れるので,胃ろうを付けた寝たきり老人にはならないわけである。

(2010年9月、ジュネーブ特別養護老人ホームで)施設見学の後,約2 時間にわたって,バッハヘーゲル医師に日頃の疑問をぶつけて,意見交換をした。

Q:「経口摂取できなくなったらどうするか?」 A:「元気な時から,終末期をどのように迎えるかの準備をする。…」

Q:「それでも摂食できなくなったら?」 A: 「ほぼ100%の高齢者が,自然死を選ぶ。食べなくなった高齢者には,飢餓感や苦痛はない。数日で眠るように息を引き取る高齢者と認知症の終末期医療では,延命処置は実施しないのが,本人,家族,医療従事者のコンセンサスである。」

Q:「胃ろう造設を行うことはあるのか?」 A: 「胃ろうの持続使用は若くて社会活動をしている患者が対象で,喉頭・食道疾患などで経口摂取できないが,胃ろうによって社会活動を維持できる人に用いる。高齢者は,一時的な場合を除いて適用外である。」

 Q: 「胃ろうによる延命処置が常態化している日本の高齢者終末期医療をどう思うか?」 A:「本人が同意していないのに,医師の判断や家族の同意だけで胃ろうを造るということは,スイスでは法的に認められないまた,本人が希望しない無益な処置に税金を浪費するのは,公益に反していていると考える。」

 質問を通じて明らかになったのは,スイスでも北欧や欧米と同じで,徐々に衰弱していく高齢者では自然死が当然のこととして受け入れられており,延命処置の適用対象ではなく,終末期に食べようとしなくなった高齢者は,苦痛緩和医療だけが施され,数日で眠るように息を引き取るということであった。従って,日本のように強制的に延命処置を施されて,寝たきりで生かされているだけという高齢者は発生しない。

 高齢者にとって死は避けて通れないものであることを前提にして,自らの最期の迎え方の意向を意思表示しておくことで,それが,最期を看取る家族と医師に最も確実な判断の拠り所を与えることを認識することである。本人の意向が分からないので延命処置を選ばざるを得ないことを念頭において,自己判断能力がある間に事前指示書やリヴィングウイルを書面として作成することも一法であろう。

 一言しておくと、QOL、自己決定権、公益、法制化が、気になる点である(論点となろう)。

 

大統領に安楽死を直訴した14歳の少女(チリ) 

f:id:shoyo3:20171005130505j:plain

http://livedoor.4.blogimg.jp/karapaia_zaeega/imgs/3/5/352526e1.jpg

QOLが問題だとすれば、高齢者終末期医療(延命処置)と同質の問題だろう。

 

あなたは2つの事例と葛原論文を読み、どのように考えられますか? プロジェクト資料と同様な提言をされますか? 

*1:この点に関しては、いずれ「尊厳死」をテーマとして扱う際に、述べたいと思う。