気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

生物世界と物質世界とは、連続しているのか? 不連続なのか?

木下清一郎『心の起源』(17)

前回は、世界が開かれるための4条件(世界の始まりを考えるための4つの要請…特異点、基本要素、基本原理、自己展開)を、物質世界にあてはめてみたらどうなるかであった。次に、この4条件を生物世界にあてはめてみたらどうなるかの話があり、核酸という高分子が自己増殖の能力を持ったことが不連続点(特異点)とされているのだが、これがなかなか難しい(何故そのように考えるのかよく分からない)ので、ここは一旦保留し、次に進もう。

本節(世界が開かれるための条件)での仮定は次の通りであった。

(6) 世界を新たに開く条件として、特異点、基本要素、基本原理、自己展開の4つがあげられる。

 

今回は、第2節 生物世界はなぜ新しい世界なのか である。

世界を超える

物質世界と生物世界の始まりでは、4つの前提が満足されているように見えるが、これだけでは生物世界が新たに開かれた世界をなしていることを十分に説明していない。生物世界が物質世界を「超えた」世界であると考えるのは何故なのか、二つの世界を「不連続」と考えるのは何故なのかが、まだ明らかになっていないからである。いまここでこの問いに答えておくことは、先へいって心の世界の始まりを扱う時には、一つの雛形になり得るという意味でも重要であろうと思う。

まさに、ここが明らかにならなければ、「核酸の自己増殖能が不連続点(特異点)だ」と言われても、???である。

二つの世界のあいだの関係は二様にみえる。ある見方からすれば連続している。素粒子に始まり、原子、分子、高分子とつながり、それはさらに細胞へも連続的に繋がっているようにみる。それは単に複雑さの度合いの増加であって、物質あっての生命であり、生物世界といえどもその基礎が物質世界に置かれていることは明らかであろう。この意味で生命は物質であり、生物世界と物質世界とは連続しているという主張は、十分に成り立つ。

さっと読めば、「生命は物質であり、生物世界と物質世界とは連続している」は、その通りだと思うかもしれないが、それは「生命」とか「物質」とかという言葉に、漠然とした観念を持っているからであろう。「生命とは何か?」、「物質とは何か?」、「世界とは何か?」、「連続とは何か?」などと問い始めたら、とたんに「分からない」となる。

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しかし、一方で断絶したところもみえている。つまり、物質世界を支配する原理に依存しながら、そこに現れてきた核酸分子がみずから存続すべく自己増殖の能力を持ったことも、これまた紛れもない事実で、自己増殖能の出現という偶然の事実を起点として、ここから生命現象と言う必然的展開が始まっていると言うこともできる。自己増殖能の出現を過去との断絶を果たした不連続点とみることも、あながち牽強付会とは言い切れないのである。

「物質世界を支配する原理に依存しながら…」と言うが、「物質世界を支配する原理」とは何か? それが理解されていなければ、「紛れもない事実」かどうかは分からない。それは、人間が「物質世界を解釈する原理」ではないのか。

核酸分子の自己増殖能力」とは、「核酸分子が他からの助けを借りずに、自身の手で自身とまったく同一の分子を合成するという能力(第1章)」であるが、ここで「自身の手」(自己触媒)が重要な点であり、後に説明があるだろう。

生物世界と物質世界は連続しているのか、連続していないのか? 木下は、核酸が自己増殖の能力を持ったことをもって、連続していない、物質世界を超えたと主張するのだが、それは何故か? 

 

外延的と内包的

ここは本書の論点が成り立つかどうかの分岐点になるので、立場をはっきりさせておこう。物質が原子、分子、高分子とつながっていく系列は、物質としての複雑さの増加であって、これは物質の階層がいわば外へ向かって付加されていく過程であった。これに対して、核酸分子が自己増殖能を獲得したところは少し違っている。いままで外へ外へと向かって世界は拡がっていたのに、ここではまるで蚕がまゆをつくるように、内へこもり始める。それが「入れ子」の始まりである。これは複雑さの付加ではなく、内側へ向かう働きかけであり、複雑さの内面化である。これは一種の不連続である。このことを契機として、分子の個性の維持をめぐって競争が起こり、自然淘汰が働き始めて細胞、個体を生みだしていく系列は、いままでの過程から切り離されているとみるのである。

核酸分子が自己増殖能を獲得 → 「内へこもり始める(入れ子の始まり)」、「内側へ向かう働きかけ」、「複雑さの内面化」と、本当に言えるのだろうか。言えるような気もするが、そのように言わなければならないことなのだろうか。

 

次のように言い直しても良い。単純な素子から複雑な複合体への移行は、どうやら単に複雑さのひたすらな増加ではなく、複雑さの向かうベクトルがあるところで逆転しているようにみえる。物質世界でのいままでの過程が外向的・外延的な複雑さの付加であったとすれば、自己増殖能の出現というところだけはベクトルが逆転して、いわば内向的・内包的な変化になっている。その逆転した箇所が、生物世界の始まりになっているのではなかろうか。この点を過ぎて細胞、個体へとつながる系列は、再び元の通り付加的・外延的な複雑さの増加に戻っている

つまり、二つの外向的・外延的変化の系列をつなぐ接点となっている自己増殖能の出現という現象だけが、内向的・内包的な変化の様相を呈していることになる。ここには一種の不連続性があらわれていて、あえて奇矯な言い方をすれば、そこは世界の裂け目になっていると言えるかもしれない。裂け目から新しい世界がつくられてくるとも言える。外延的とか内包的とかい言うことの意味は、まだ今後に十分検討してみなくてはならないであろうが、本書ではベクトルの反転した点を称して不連続点と呼び、二つの系列を「入れ子」構造の関係にあると主張しようとしているのである。

「自己増殖能」がもう一つよく分からないので、この文章に対しても、何ともコメントしようがない。

 

公理の世界

しかし、これは所詮水掛け論であって、突き詰めていけば新しい公理を基礎に置いた新しい体系を認めるかどうかの問題になってしまう。物質世界は一つの公理系として理解される面のあることは、先に指摘した通りである。いま、生物世界が新しい世界であると主張するのは、それが新しい公理系であると主張していることである。言い換えれば、物質世界という公理系の中に生物世界という新しい公理系をつくれるかということであり、自己増殖則を独立した公理と考えることができるなら、生物世界は物質世界を超えた新しい世界になれるということである。こうして新しい世界を認めるかどうかを問い詰めていくと、遂には一つの公理系を認めるかどうかという一点に帰着してしまう。これはまた世界とは何かという問いとも同じことであって、いまの立場から言えば、世界とは公理系であるというのがその答えになる。

公理とは何か。木下は次のように説明している。

数学の世界では、公理系の考え方にこれまで幾たびかの変遷があった。ユークリッドの『原論』の時代には、公理とは自明の真理とみなされた。しかし、非ユークリッド幾何学も成り立つことがわかり、その立脚点が揺らいでくると、公理とはそこから導き出される命題群が矛盾を含まない限り、容認されうる基本命題であるとする見解が、ヒルベルト(『幾何学基礎論』)によって提出された。しかし、それからほどなくゲーデル(『不完全性定理』)によって無矛盾性はその体系自身の内部では証明できないことが証明されてしまい、この立場も崩れ去ってしまった。現在では、公理とは一つの理論の出発点となる仮説に過ぎないとされ、公理の絶対性は失われている。しかし、その方がかえって理論の自由が保障されるという指摘もある。

木下が「公理」という言葉を、「自明の真理」とか「無矛盾命題」とかの意味ではなく、「理論仮説」として使っているのならば、そういうものとして受けとめておけばよいだろう。

「生物世界が新しい世界である」というのは、「理論仮説」であるということであれば、その仮説が妥当なものであるかどうかが議論になるのだろう。

さて、ここまで考えてきて、再び物質世界と生物世界との関係に目を戻すと、「生物世界は新しい世界か」という問いに答えるには、次の二つの問題に対して答えを出さねばならないようである。第一に「自己増殖にどういう意義を認めるか」、第二に「生物世界は新しい公理系になれるか」という問題である。

木下がこの二つの問いにどういう答えを出すかこそが聞きたいところである。

 

生物学の基礎知識の無い者が、こういう著作にコメントすることは難儀なことなので、いろいろネット検索したりするのだが、なかでちょっと目についたものを取り上げておこう。

 

生命の起源 RNAワールド以前の世界

私をはじめとする他の研究者は,レプリケーター(自己複製子)から生命が生まれたというモデルそのものに,基本的に欠陥があると考えている。もっと可能性の高い考え方がほかにあるように思うのだ。「リプリケーター起源説」に対し「代謝起源説」と呼ぶ。RNA起源説は「自己複製するRNAがそもそもどうやって生じたのか」というきわめて難しい問題に直面している。物理法則を破らずにRNAが自然発生的に生じてくる可能性はゼロではない。だが,それが起こらない可能性のほうがはるかに高い。細胞の構造に関する研究でノーベル賞を受賞したド・デューヴ(Christian de Duve)は「奇跡と呼ぶ以外にないほど,きわめて起こりそうにもないこと,つまり科学的探究の枠組みに収まらない現象を拒絶する態度」を求めた。してみると,DNAやRNAやタンパク質などの精密な巨大分子は,生命の起源に直接かかわった物質と考えるべきではない。非生物界はそういう分子の代わりに,機能を持つさまざまな小さい分子の混合物を提供してくれたのだろう。こうした混合物から,納得のいく理論を考えてみよう。……(R. シャピロ、ニューヨーク大学

http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0709/200709_016.html

 

物質と生命の違いは何か – 水中を自在に泳ぐ微小な油滴を発見

最近では特に、新しい生命システムをデザインして組み立てる研究が盛んになってきています。このような潮流は、生命の本質を理解するためにはそれを構成している要素の詳細を解明するだけでは十分といえず、それら要素の結び付きで全体がどのように成り立っているのかを眺める構成的視点が必要であるという考えに基づいています。

生命体を構成するものは基本的に有機分子であり、それらがどのようにして40億年前の原始地球において生成されたのかを検証する実験はこれまでに多数なされています。しかし、アミノ酸や脂質、RNA/DNAなどの物質と生命の間にはいまだミッシングリンクが存在しており、物質がどの段階で「生命らしく」なり、そして生命へと進化していったのかは、自然科学が発達した現代においても謎のままです。(伴野太祐、慶應義塾大学

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https://academist-cf.com/journal/?p=2257