浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

貧富の差 成長か分配か?

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(25)

前回で対談は終わりなのだが、補論がある。一つは稲葉の「経済成長の必要性について」であり、もう一つは立岩の「分配>成長? 稲葉「経済成長の必要性について」の後に」である。ここでは、稲葉の補論は省略し、立岩の補論のみ取り上げる。

 

1.「反対がない方を」は、採れない

(1) Aは20で、Bは10だったとしよう。計30。

(2) これを単純に2で割って、AもBも15ずつにした。

もう一つ、生産が増えて総量が60になった。

(3) Aは40に、Bは20になった。

まず言われることは、(1)→(2)、つまり単純な分配については、少なくされる方(この場合はA)に反対があるが、(1)→(3)の場合には反対がないという点である。人が少なくされることに反対するものであるとすれば、(1)→(2)の方がより難しい。これはその通りであり、いまの現実のいくらかを説明するものでもあるだろう。

問題は、だから易しい方を行うべきであるかということだ。私としては、反対があるから行うべきではないという立場は全く採れないことを、対談の中でも繰り返し述べた。 

 ここまでは、恐らく誰もが同意できるだろう。

この社会のようなかたちで所有権が付与された上で、市場で生ずる格差を正しい事態とは認めないということだ。そこに生ずる各自の手持ちに対する各自の権利を、基本的には、認めないとした。反対がない方を認めるのは(初期状態を問わないままでの)パレート最適主義をとるということでしかない。

初期状態をどう考えるか。またパレート最適という言葉で、不平等を是認しているのではないか。

ここで立場が分かれるとするならば、それは決定的な違いである。ただ実際にうまくいかないという実現可能性の水準における判断であるならわかる。波風立たないことには良いこともあるだろうとは私も思う。実際に市場ではまず市場的に分配されるから、人が言うように、稲葉も言うように、いったん受け取ったものを自分のものと思い、手放したくないと思ってしまうかもしれない。

問題は、その上で何を言い、何をするかである。私は、こうして文句を言いたい人も出てくる、だからこそ市場に起こることが正しいのではないと言う必要もあると考える。言っただけでは足りないかもしれない。そこで私の主張は、だからこそ――それだけが理由ではないが――その前の段階での対処――生産財と労働の分配――もあってよいというものである。そうすれば、市場における受け取りの格差はいくらか小さくなる。その方が所得分配に対する抵抗も少なくなる。

 「市場」の問題は、別途詳細に考えたい。

 

<エレファント・チャート>

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http://globe.asahi.com/feature/article/2016110200005.html?page=4

 

2.絶対値と相対値

(1)→(2)の場合にはAとBとの相対的な差は縮小され、(1)→(3)の場合はそうではない。他方、(1)→(3)の場合にはBも状態は改善され、その改善の度合いは――もちろん数字の入れ方によってはそうならない場合もあるが――(1)→(2)の場合より大きい。(3)の場合、Bは20だから、15だった(2)の場合よりも受け取りは大きい。(2)になるのと(3)になるのと、いずれがBにとってよいか。

後者のはずだと、だからこちらでいこうと、「パイを大きくするのがよい」主義者は言う。私自身も(3)の方がよいかなとも思う。ただ、これには決まった答えはないと考えるべきだろう。本書でも「羨望」に関して述べたのだが、人間は多くの場合に他の人たちと自らを比較し、その相対的な位置関係を気にするのだというのは現実でもあり、またそれを他人のことを気にし過ぎだとか言って否定することもできないはずである。

(1)→(3)のほうが良い。AもBもハッピーになる。Win-Win。これが、「パイを大きくするのがよい」主義者(成長論者)の昔も今も変わらぬ言い分である。そしてほとんどの人が、深く考えもせず、何となく「そうだね」と納得させられる。しかし私は、この考え方こそ最も問題視されなければならないポイントではないか考えている。

第1に、「所得・資産(お金)が増える→より多くの財・サービスを消費できる→ハッピーになる」という価値前提が問題である。ちょっと胸に手を当てて考えてみよう。「より多くの(高価な)財・サービスを消費できる→ハッピーになる」とは言えない「反例」が思い浮かぶだろう。…思い浮かばなければ、「幸福」とは何だろうかと考えても良い。「金持ち」になれば、幸福なのか?

第2に、立岩が述べているように他者との関係である。(1)も(3)も、A対Bは、2対1で変わらない。格差が固定されている。この格差をどう考えるかである。他人との比較とか、羨望・妬みとかの次元ではなく、「平等」をどう考えるかに関わる次元の話と捉えなければならない。例えば、年齢・勤続年数・学歴・職種・性・雇用形態・産業・企業規模・地域などの違いによる賃金格差をどう考えるか。大企業と中小企業の賃金格差は厳然としてある。これをどう考えるか。高級住宅に住む人と劣悪環境の賃貸住宅に住む人との差をどう考えるか

そしてもちろん、基本的には、いずれかを選択しなければならないという問題ではない。むしろ、どちらも改善されたらよい。皆が気づいていたと思うが、計60になったなら、(4)AもBも30ずつにすれば――とあっさりはいかず、後でいくらかの差異をつけることは認めるのだが――よい。

立岩の言う通り、所得や資産に限っても、成長と再分配は二者択一の話ではない。成長すれば再分配は不要とか、再分配すれば成長は不要とかは「極論」であろう。

 

3.生産・成長について

計30が計60になったらと、いま述べた。では、こうして増えること、増やすことをどう考えたらよいのか。つまり経済成長についてどう考えるか。ここで、成長自体をよいと考えるかどうかという問題と、政策として行うことがよいかまた有効かという問題とを分ける必要があるはずだ。このことも併せながら考えてみよう。

念のために確認しておこう。経済成長とは、国民総生産(GNP)の増加のことをいい、国民総生産とは、「一国において一定期間(通常一年間)に生産された財貨・サービスを市場価格によって評価した総計。ただし、企業間で売買される原材料は除く。一国の経済の大きさを測る尺度となる。(大辞林)」である。

生産は消費のための必要条件である。分配のための必要条件である。これは全く当然のことである。生産され消費される財が多くあること自体は悪くない。これは財の定義によるが、それが生きるにあたって良いものであるとすれば、定義より、それがあるのは良いことであり、それが多くあることも良いことだろう

軍備増強で経済成長を図ることは良いことか。「生きるにあたって良いもの」なのだろうか。

それに対して言われるのは、第一に、その財があり使用されること自体は良いことであっても、環境への負荷など、別のところに良くないことが起こることがあるということだ。「外部不経済」などという。だからマイナスの部分もきちんと計算に入れたうえで――そもそもそれをどんなふうに計算するのかという問題はある――考えるべきだと言われる。よく言われることだが、依然として大切なことではある。ただこのことは皆が知っているだろうからこれだけにする。なお稲葉の言うように、経済成長と環境問題の軽減が結びつくことがあり得ることは認めてよい。以上は、環境問題について技術の向上によって対処した方が効果的である部分があることと矛盾しない。

経済成長を論ずる場合、「外部不経済」を無視した議論をすべきではない。

第二に、(これはふつう「外部不経済」の中には入れられないことだが)財があるためには、また増やすためには、働かなければならないということである。人には働きたい気持ちもあるにせよ、そこにはまた苦労もある。ただ働くこと自体は辛くとも、得られるものの方が上回ればよいということになる。一人で働いて自分で得るという場合でなくても、得られるものが苦労を上回れば良いとは言えよう。ただ、増やすことを政策として行う場合には、このバランスを無視して為されることがある。たいていの場合、ものが増えていくに伴い、快の増加の度合いは減っていく。しかし働く量は同じ割合で増えていくこともある。もう要らないんではないかと思っている場合、人々に思われている時、働くことの辛さは増えていく場合がある。しかしそんなことをあまり気にせず、増やすことが目指される場合がある。

収穫逓減の法則(生産のために投人した資金・労働力(時間)等の投入量と、その成果として得られる収穫・産出量との間の関係で、初期段階では投入を増やせば収穫・産出は増加するが、やがて収穫の増加分はしだいに減っていき、ついに頭打ちになる。)のことを言っているのだろうか。ここの議論はよく分からない。

増やすことが良いことばかりではない理由は、他で良くないことを引き起こすことがあるから、そして人が働かねばならないから、まずは以上二つである。とした場合に、政策として行うことは正当か。それに反対する人はおり、その反対はもっともである。そしてそれが税を使って行われることであれば、その人たちはそのための負担を強制されるということである。だから成長策は否定される場合がある。ただここでは、成長策全般を否定するというより、個々に為される政策が吟味されるべきだろう。一律に増やすのも愚かであるが、一律に削減するのも愚かである。何を取り、何を捨てるかである。経済の状態全般がさまざまな波及効果をもたらすこと自体は否定しない。そうだとしても、この問いは有効なはずである。

「成長一般」が望ましいわけではない。「何を取り、何を捨てるか」、極めてあたりまえのことである。しかし具体的な政策論議になると難しい。例えば、産総研のAI特化のスパコン開発に国費を投ずることをどう考えるか。

ただ、市場の作動は不安定でそのままにしておくと景気の大きな変動は避けがたく、このことは良くないと考えるなら、景気の調整策は認めざるを得ないだろう。そして、述べたように、また稲葉が応えてくれたように、成長策と経済の調整策との区別はつきにくい。このことも認めるとしよう。ただ、成長につながる政策全般を禁止すべきだなどと言っているのではないから、両者のきちんとした仕分けがいつも必要なわけではない。だから、このことはそれほど大きな問題ではないはずだ。

 

4.効果について

基本的には以上だ。さらに仮に成長策をよしとして、果たして効果的であるのかという問題がある。すでに市場では、幾多の企業が多くをつくり多くを売ろうとしている。それなのにさらに政府ごときが何をしようというのか、何ができるというのか、というのである。もちろん経済政策として行われることは様々であるから、一括りにはできないだろう。ただ少なくとも、この社会において、租税を投入しての直接の生産の増大、消費の喚起の有効性があまりあるとは思えない

公共事業とは、

一般に公共の福祉のために,国または地方公共団体等公的機関が行う事業。これは,利潤追求の目的をもって経営することが好ましくないような事業について行われる。または,不景気に際して失業者を救済し国民経済を安定させたり,国際的な配慮から内需を拡大させるために公共事業を利用し,財政政策の観点からその総量や実施時期を調整することがしばしばみられる。具体的には,道路,鉄道,港湾,電力施設,住宅,上下水道,学校などの建設事業をさしていう。(ブリタニカ国際大百科事典)

アンダーラインを引いた部分に関して、これをどう評価するかは、簡単には言えない。(というか私には未だそのような素養がない)

これまで行われてきたことを「ケインズ主義」と言うべきなのかどうか、私にはよくわからない。ただ経済政策、成長政策のもとで、例えば「完全雇用」が実現されていたという認識自体、疑って良いと考えている。随分長いこと、そして今でも、家族単位の経済、性分業という体制のもとで、労働力の過剰を回収していた、回収しているとも考えることができるのではないか。『現代思想』に連載している「家族・性・市場」でもこのことについて書いた。そしてそのやり方が良いか。良くはない、別のやり方、別の労働の分け方が良いはずだというのが私の意見である。

「家族単位の経済、性分業という体制のもとで、労働力の過剰を回収していた(している)」というのは、統計数字で確認すべきことだが、直観的にはそうだと思う。

さらに方法についての疑義がある。それは多く「公共事業」として行われてきた。けれども、少なくとも公共財の供給が一定の水準に達した場合、それらをさらに増やすことにどの程度の正当性・有効性があるのか疑わしい。 

 公共事業の具体的内容が、「道路,鉄道,港湾,電力施設,住宅,上下水道,学校などの建設事業」だとすると、増やすとか減らすとかの話は、個別的に検討されねばならないだろう。「公共財の供給が一定の水準に達した」かどうかの判断は難しい。

そしてどうせお金を使うなら、基本的に、個々人に分ければよいではないかというのが私の提案である。するとその人たち自身が、それぞれお金を出し合って、何か一緒に使うものを作ろうということになるかもしれない。「事業」を行う場合と、個人に配ってしまう場合と、景気に与える効果に違いがあるのかもしれない。そして前者の方が効果的であるということに――私が思うに、そんなことはそうないはずだと思えるのだが――なるのかもしれない。「乗数効果」云々という説がどの程度当たっているのか私は知らない。知らないから知りたいと思う。たださほどの違いはないのであれば、個々人に配る方がよいはずである。また私は公共事業に地域間格差の是正という側面があったことについて、また現在もあることについて、否定しない。ただこの点についても、個人への分配の方が良いと言えるはずである。 

 「個々人に配る」というのが具体的にどういうことなのかが分からないので、立岩のこの意見には何とも言えない。ただ、公共事業か個人への分配かの二者択一ではないはずである。

 

5.分ける前に増やさねばという主張について

さらに、成長策と分配策との関連の問題がある。増やすことと分けることとが両立せず、どちらを優先するのかという問題は生じうる。ここでも二つの場面がある。一つ、消費・分配を倹約して、将来の分配のためにも、生産・成長の方にまわした方が良いという主張がありうる。もう一つ、利益・報酬に傾斜をつけることによって、生産・成長を促す必要があるという主張がある。

まず前者について、いま分けてしまうより、ここは我慢して働こう。そして分けることも大切なことなら、後で分けよう、こんな案がある、例えば、(1)を(2)にせずに、しばし何らかの手段をとった後に(3)の状態を実現させ、そうなったら(4)にするといった経路も考えられなくはない。

その方が良いという場合があることを否定しない。常に分けてしまえばよいという立場が正しいと言うつもりはない。いまは少し我慢しておいたほうが良いといった場合がありうるとは思うでは、常にそれは認められるか。そんなこともないだろう。ある場合、例えばこの国の今のこの状況では、節約してまで後回しにする必要はない、今あるものを分けてしまってもよいと考えても良い。私はそう思う。そしてここからは、この社会で、またこの社会のどこの部分で、より多くが必要かと言う「3.生産・成長について」にみた論点と同じになる。総量として見ても仕方がない。より多くが必要な財もあると私は考える。もちろんここでも意見は分かれる。ただ私としては、おおまかに人が暮らすのにだいたい何がどれだけ入り用かと考える。すると、増やすべきものもある。ただそれほどでもないもの、少なくとも政策的に増やす必要はないもの、今我慢してでも、ある部分を抑制してでも増やす必要があるとは考えられないものがある。全体を増やすことを目的にする必要はない。また現在も不足であるとは思われないものを増やす必要はないということになる。

 一つ目の「分配より成長を」という主張に対しては、総論(全体)としてみるのではなく、個別に「増やすべきものを増やす」という見方をとる、成長と分配は二者択一ではない、という考え方が正しいと思われる。

二つ目の、「利益・報酬に傾斜をつける」という話は、次項(6.インセンティブとしての格差という論に対して)で説明がある。なお、「傾斜をつける」というのは、「差をつける」という意味である。

 

6.インセンティブとしての格差という論に対して

もう一つ、少し性格が異なるのは、「インセンティブ」の問題である。より多く貢献したらより多くの褒美を与えることによって、生産を促す。だから、そう気前よく分配することはできない。生産・成長のためには格差が必要だというのだ。これも生産を促す行いの一部なのだが、個々人の労働の動機に照準し直接の受け取りに関わるところが違う。この認識も全く認めないわけではない。この本にしても、印税が来なかったら私は企画に乗ったかどうか疑わしい。…格差の付与は――労苦には応じるべきであるというまた別の理由はそれとして考える必要があるが、それを別にすれば――必要である、仕方なく必要であるということであって、それ以上のことではないということだ。手段として必要とされてしまうということであり、このこと自体を正当とするのとは違う。このことを私は述べてきた。そして格差が正当である、当然であるとされるなら、貢献の大きな者はより多く受け取ってよい、当然だということになり、格差付けによる生産増大の効果はむしろ小さくなることにもなる。だから、あまり大きく格差がなくても生産を維持できるためにも、より大きな貢献をした者がより多くを受け取れることは当然のことではないのだということを確認しておいた方が良い。

この話はちょっと難しい。インセンティブとは何か。

インセンティブ( incentive)は、人々の意思決定や行動を変化させるような要因のことをいう.

インセンティブとリスク…ある個人が保険に加入したとする。そのことは、その個人がもつ事故を避けようとするインセンティブを減少させる。このことをモラルハザードという。たとえば発生する損失を保険会社が全て負担すると仮定した場合、リスクゼロの顧客は損失を回避しようとするインセンティブを完全に喪失することが考えられる。このインセンティブとリスクの原理は、所得分配の平等がリスクの減少を伴うため、インセンティブと平等の問題とも関連している。

インセンティブと平等所得分配の平等は、一般にはインセンティブを減少させ、経済全体のアウトプット(産出量)を減少させる。これをインセンティブと平等のトレードオフという。たとえば基数的効用を仮定し限界効用が逓減するとした場合には所得再分配策は肯定されるが、現実の政策としては所得の完全平等は一般に支持されない。これはインセンティブの減少による経済全体のアウトプットの減少を避けるためである。(Wikipedia)

 赤字にした部分、「所得分配の平等は、一般にはインセンティブを減少させ、経済全体のアウトプット(産出量)を減少させる」というのは本当だろうか。所得格差が小さくなると、働く意欲がなくなり、産出量は減少するのだろうか。所得分配に差をつければ、働く意欲が向上し、産出量は増加するのだろうか。そんなふうには思えないのだが、現実の統計数字で証明されていることなのだろうか。

Wikipediaで、上記インセンティブの説明を読んでも、立岩の説明はよく分からない。「より大きな貢献をした者がより多くを受け取れることは当然のことではない」と言うが、なぜそう言えるのかよく分からない。

 

7.にもかかわらずなぜか、の確認

以上のことを私は考えている。にもかかわらず、なぜ生産・成長に、その総量、あるいは総量というよりは特定の産業部門の拡大に、政治的関与も含め、社会が向かうのか。その話はまた長くなるから、ここでは簡単にする。

一つには、最初になされた話、つまり同じパイを分けるのは困難であるから、その代わりにパイを大きくしよう、成長で話をつけようという流れがあったのだとも言える。分けたくない人たちが分けることを拒み、その代わりに全体を増やそうということになったのだとも捉えられなくはない。あるいは拠出を拒まれてしまう中で、やむを得ぬ、しかしその効果のほどはとりわけ現在において疑わしい、選択肢とされたのだとも言える。このような流れの話をどう考えるのかについてここまで述べてきた。

「分けたくない人たちが分けることを拒み、その代わりに全体を増やそうということになったのだ」と言う根拠はあるのだろうか。逆にまた、「それは違う」という根拠はあるのだろうか。

もう一つに、競争がかかわり、国際競争が関わっている。競争に負けないために、競争的・成長的な部門に対する投資を、政府自身が関与して行わざるを得ず、そのためにそれ以外のただ人が生き暮らすための部分に金が回らなくなる。それは分配を渋る言い訳にすぎないこともあるが、一定の現実性をも有する。この認識は、だからこそ、早い者がすべてを取れるというゲーム自体の改変が求められているのだという、遠大な、しかし具体的にとりあえずできることもたくさんあると私は思う、話につながる。

「早い者勝ち」は、「自分さえ良ければ他人はどうなっても良い」という考えである。国際競争の話は、別の機会に。

 

Wikipediaに、「古臭い経済学」の記事がのっていたので、紹介しておこう。

古臭い経済学では、「全てを(金銭的な)損得でしか判断しないような 架空の人間」「徹頭徹尾 金銭損得だけで判断する人間」を想定して、極端に単純化された理論を組み立てた状態であった(本当は実験などでしっかり確かめたりしたわけでもないのに、ある学者がそういう説を唱えると、他の学者までもが、自分で確かめもせず信じて)説がまことしやかに流布してゆくという状態が放置されていたが、20世紀末~21世紀初頭くらいから、(古典的)経済学のそうした考え方(本当の人間行動について統計調査も行わずに、頭だけで仮定・仮説を組み立てる方法、経済学の領域で流布してしまっている ある種のフィクション)に疑義がはさまれるようになってきた。(たとえば株式市場で株式売買をする人々の行動の実証科学的分析などでも、従来の古典的(古臭い)経済理論は間違っている面が多いことが指摘されている)。インセンティブと人の行動の関係も、そんな単純なものではないことが、近年の科学的な調査では判ってきている。たとえば最近では、米国の公開講座TEDでダニエル・ピンクが 「やる気に関する驚きの科学」 と銘打って、報酬と人間の行動の間の本当の関係について解説した(古典的な経済学の説(仮説、教義)は不適切であることを、実証的データも使いつつ示した)(wikipedia、不平等)

ダニエル・ピンクの 「やる気に関する驚きの科学」

www.ted.com

 

今回で、「『所有と国家のゆくえ』を終わる。