気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

政治家・議員・公務員は、恣意的に権力を行使してはならない

平野・亀本・服部『法哲学』(39) 

今回より、第5章 法的思考に入る。第1節は、法的思考とは何か である。

私は、「法」を「私たちが共によりよく生きていくためのルール」だと考えている。したがって、本章の「法的思考」もそのようなルールに関係する話なのだと思えば、興味が持てる。

本節は、次の項からなる。

 (1) 考察対象の限定

 (2) 法による裁判

 (3) 判決三段論法

 (4) 事実認定

 (5) 制定法主義と判例法主

第1項において、法的思考は、裁判官・検察官・弁護士・法学者からなる法律家の思考であり、法律家は一般に、裁判に照準を合わせて思考する、としているが、その法的思考の内容が明確ではないので、このように考察対象を限定することが妥当であるのかどうかは何とも言えない。それゆえ第2項から見ていくことにする。

 

(2) 法による裁判

法における形式的イデオロギーの最たるものは、「裁判は予め存在する実定法に従って行わなければならない」という要請である。何を実定法とするかについては、制定法主義をとる諸国と判例法主義をとる諸国とで若干の違いがあるが、「法による裁判」という理念を奉じる点では一致している。

「法による裁判」という考え方は、必ずしも近代に特有なものではない。だが、近代以降の法システムが「法による裁判」を強調する狙いは、第1に、国家権力による恣意専断の防止、第2に、予測可能性・法的安定性の確保にある。この2つの目的は、実定法への準拠によって同時に実現されると通常考えられている。

「法による裁判」はまた、近代的な法治国家の下で特に強調されるものである。だが、「法治国家」と言う用語は、とくに国家権力による恣意専断の防止という目的の方を強調する言葉である。

 「形式的イデオロギー」云々については詮索しないでおく。「裁判は予め存在する実定法に従って行わなければならない」(法による裁判)という考え方がある、と理解しておこう。なぜこれが強調されるかと言えば、「国家権力による恣意専断の防止」と「予測可能性・法的安定性の確保」にあると言う。以下に説明がある。

 

法治国家

近代において、国家は市民による暴力や実力の行使を原則として禁止しており、物理的実力行使の正統性が認められるのは国家だけである。とりわけ、自衛や自然権の実行、あるいは矯正的正義の実現のための実力行使であっても、それが個々の市民に対しては禁止されているという点が重要である。権利もしくは正義の実現のために実力行使が必要な場合、それは、国家が当該市民になり代わって行うべきものとされているのである。

国家が正統な実力行使の権限を独占している以上、国家による恣意的な権力行使の恐れに対する防御策が必要となる。その一つが国家権力が予め存在する実定法に従って行使されることを要求する「法治国家」の理念である。裁判所も、国家による権力行使の一翼を担う以上、「法による裁判」が要請されることになる。

これに加え、司法が立法および行政から多少なりとも独立した地位を持っているところでは、裁判所は立法部による「法に従った」とされる権力行使が、本当に実定法(実定憲法を含む)に従っているかどうかを審査する権能をも持っている。 

 私は「国家」という言葉には十分注意しなければならないと思っている。特に、国家を主語にして(擬人化して)語る語り口である。上の文章でも、「国家による恣意的な権力行使」と述べている。国家という抽象概念が、権力行使するわけがない。誰か人間が権力を行使するのである。それは誰かをはっきりと認識しておかねばならない。

国家は政治制度の集合体、領土の単位、哲学的な理念、弾圧や圧政の手段など多様な文脈で論じられる対象である。…機能の観点から見れば、国家は社会に対して担う役割から捉えることができる。国家の中心的な機能とは社会秩序を継続的に維持することであり、社会的安定を担保することである。…組織的な観点に転じれば、国家とは広義において政府の組織であり、市民社会とは区別される公的制度である。つまり政府、議会、官僚、軍隊、警察、裁判所、社会保障体制などさまざまな制度から成立している組織として国家は概念化することができる。(Wikipedia)

Wikipediaの説明の最後の部分がわかりやすい。即ち、国家とは、「政府、議会、官僚、軍隊、警察、裁判所などさまざまな制度から成立している組織であり、その中心的な機能は社会秩序を継続的に維持すること、社会的安定を担保することである」とひとまず理解しておこう。(社会保障体制はあえて省いた。なお中心的な機能が何であるかは議論のあるところだが、深入りしないでおこう)。よって、「国家による恣意的な権力行使」とは、「政府、議会、官僚、軍隊、警察、裁判所などの組織に属する政治家・議員・公務員が、恣意的に権力を行使すること」という意味になるだろう。政治家・議員・公務員が「公務」を行わないで、特定個人・特定組織のために便宜を図り(あるいは自己利益のために)、権力を行使することが、恣意的に権力を行使することになるのだが、そのようなことが行われないために、実定法に従って「公務」が行なわなければならない。それが法治国家というものである。その際実定法に不備があれば、当然に法改正が為されなければならない。いずれにせよ、「国家による恣意的な権力行使」とは、「政治家・議員・公務員による恣意的な権力行使」と理解すべきであろう。

裁判所は国家の一組織であるから、「裁判は予め存在する実定法に従って行わなければならない」となる。

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 予測可能性・法的安定性

他人の行動もしくは国家の権力行使の予測可能性は、私人や公機関が実定法に従って行動することによって高められる。そのためには、法が公布などの手段を通じて予め周知されているだけでなく、法に従う行動を促進し、法に違反する行動を抑止する仕組みが必要である。違反に対する刑罰や損害賠償などの制裁という方式は、その代表例である。もちろん、法規範の遵守と活用は、その内容がそれなりに理に適ったものであり、他の多くの人々もそれに従うという事実がある以上自分も従うという、互恵的な正義感にも支えられているということを忘れてはならない。サンクションを伴う法規範がありさえすれば、予測可能性が確保されると考えるのは誤りである。

法的安定性という言葉には、法が安定しているという意味と、法によって予測ないし期待の安全性が確保されるという意味がある。ここでは後者の意味をとり、法による予測可能性と同義と理解したい。確かに法が頻繁な変更がないという意味で安定していると、そうでない場合に比べて、人々の行動予測は容易になるであろう。しかし、ここで定義した予測可能性の保障にとって重要なのは、法の変更の頻度や程度ではなく、変更された際の周知と遵守促進の方法である。

これだけでは、ちょっと分かりにくい。

法秩序が明確で安定して適用され、どのような行為にどのような法的効果が結び付くか予見可能な状態を法的安定性legal certaintyという。それには、法律が朝令暮改でないこと法の解釈適用が一義的で、裁判官や役所の窓口によってさまざまな解釈が行われることのないこと、などが条件としてあげられる。しかし、法的安定性だけが強調されると、個別的事情や具体的妥当性が無視される事態を招きやすい。ここに法的安定性と具体的妥当性の矛盾という法運用の問題があり、法領域によってそのいずれに重点を置くかが異なる。たとえば、取引の安全を重視する商取引法などは法的安定性を重視するが、親族法などでは具体的妥当性のほうが重視される。(長尾龍一日本大百科全書

法的安定性のこの説明は明快である。自動車の運転をするなら道路交通法とか、会社員であれば旅費交通費の規程とかを思い浮べれば、法的安定性の意味が理解できる。亀本は「重要なのは、法の変更の頻度や程度ではなく、変更された際の周知と遵守促進の方法である」と言うが、果たしてどうだろうか。

この法的安定性に関して、次のような話がある。

【事実関係】礒崎陽輔首相補佐官は2015年7月27日、大分市で行われた講演で、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を可能にする安全保障関連法案について、法的安定性を損なうとの批判があることに対して反論して、「考えないといけないのは、我が国を守るために必要な措置かどうかで、法的安定性は関係ない」と述べた。

【重要ポイント】礒崎陽輔首相補佐官には確固たる思想や信念がない。この人は、自治官僚としては戦後民主主義的論理で、安倍首相の下では歴史修正主義に基づいて、時の権力を支えるテクノクラートの機能を果たしている。第一義的に責任を負うべきなのは、無思想なテクノクラートではなく、このような人物を首相補佐官に任命した安倍晋三首相だ。(佐藤優http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44859

憲法を変えるのではなく、憲法解釈の変更をどう考えるかである。朝令暮改に変えるのではなく、信念をもって解釈変更しようとする安倍・礒崎(東大法学部卒)に、単純な「法的安定性」の論理で太刀打ちできるか。この点、引用しないが、鈴木篤の記事が参考になる。

 

裁判と予測可能性

裁判も、それが「法による裁判」[裁判は予め存在する実定法に従って行わなければならない]である限りで、予め公示された法に従って行われなければならない。しかし、予め存在する法による予測可能性が完全に確保されていれば、刑事事件は別として、民事の訴訟は事実に関する争いがなく、争点が法律問題に限られている場合、ほとんど提起されなくなるであろう。それゆえ、訴訟は両当事者の法に準拠した予測が結果的に異なっていたという意味で、法による予測可能性の保障が不十分であったからこそ提起される、と考えることが出来る。その一方で、判決がいったん出されたならば、将来の同種の事件も、同様の法規範に基づいて判決が下されねばならない。この形式的正義あるいは普遍化可能性の要求に裁判が応える限りで、将来に向けての予測可能性は確保されるだろう。これらの点に注目すれば、裁判は、事前の予測可能性が少ないところで、事後の予測可能性の増大という機能を果たす、と言うことが出来よう。

先ほどの長尾の言葉を思い起こそう。「法的安定性だけが強調されると、個別的事情や具体的妥当性が無視される事態を招きやすい」。このことに思いを致せば、個別的事情の如何によっては、「事後の予測可能性の増大」とも言い切れないことに留意すべきだろう。