浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「独裁」と「結論を出せない民主主義」をどう調停すればよいのか?

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(22)

今回は、第5章 みんなで考え合う技術 第4節 クリティカルシンキングの倫理性 である。

地球温暖化に関して、次のような三段論法がある。

 [式5-4]

 (大前提)温暖化への取り組みが遅れるのは望ましくないことである。

 (小前提)温暖化について懐疑論者が反論すると温暖化への取り組みの遅れにつながる。

 (結 論)温暖化について懐疑論者が反論するのは望ましくないことである。

温暖化論に限らず、このような論法はよくある(ときどきある)ように思える。白黒はっきりしないが、いま何らの対策を取らなければ手遅れになる可能性が大であると考えられる場合である。では、この論法に問題はないのか。

この議論は変わった特徴を持っている。もし懐疑論者の反論の内容が正しいのなら、温暖化への取り組みが遅れること自体も別に憂慮すべきことではないため、大前提そのものが成り立たなくなる。しかし、大前提についての両者の食い違いを解消しようと論争するなら、結果として懐疑論者が反論することを認めることになる。ということは温暖化論者はすでに結論について譲歩してしまったことになるわけで、この議論の妥当性をチェックする意味もなくなってしまう。

懐疑論者(ここでは否定論者と考える)は、当然、大前提を認めない。温暖化論者が懐疑論者を説得しようとすると、小前提のもとでは、自らの主張を否定することになる。つまり説得(論争)はありえない。

こういう場合はどう調停したらいいのだろうか。緊急事態だから反論を認めないと宣言したほうがつねに勝つことにしてしまうと、「明日東海大地震が起きるので、みな避難してください」と新興宗教の教祖が予言したら反論できないことになってしまう。逆にいつでも反論を認めることにすると、本当に崖崩れが起きそうで避難しなくてはいけないときに、「目の錯覚ではないか」とか「そもそも崖崩れという言葉はどういう意味か」などと論争しているうちに逃げ遅れることにもなる。というわけで、こういう場合には単純な解決はいずれも難がある。

新興宗教の教祖あるいは独裁者の立場にたち、問答無用とばかりに異論を封じるか、はたまた少数者の意見を尊重して議論を重ねて(民主主義)、悲劇的な事態を招くか。

私は以前「水俣病」の記事を書いたが、水俣病の原因究明と迅速な対策措置との争いに、この三段論法の例をみる。より一般的に言えば、各種事故の原因究明と対策措置が、この問題の例となるだろう。(温暖化は、起こるかもしれない事故の例だが)

 

文脈の分業

もう少しまっとうな解決策としては、いくつかの独立な文脈を並行して存立させるという考え方がある。最悪の事態を予想して安全策をとる、という文脈では、最悪の事態が起きるというある程度の見込みが得られたら反論を封じて安全策につきすすんだ方が良さそうである。それと同時に、そうした対策とは文脈を切り離して、できるだけいろいろな可能性を考慮に入れながら事態を分析するという文脈を設け、そこでは自由な反論を認める。検討の結果、最悪の事態が起きるという見込みがないことが分れば、その結論は第一の文脈にフィードバックされる。

なるほど。こんな調停(解決策)は思いつかなかった。独立な文脈を並行して存立させる。これは特記しておかねばなるまい。ただこのアイデアを、本書を読んでいない人に説明するときは、「独立な文脈を並行して存立させる」とか、「文脈の分業」といっても分からないだろうから、分かりやすい言葉で説明しなければならない。

私は、これを「原因究明と対策の二段構え」というのが分かりやすいのではないかと思う。ここでのポイントは、対策のためには原因究明が不可欠だが、原因が100%完全に解明されなくても、ある程度の対策はとれるし、対策を講じなければならないことがあるということである。原因究明が100%為されないことを理由に、無作為の根拠とすべきではない。原因究明は、対策とは別に続けることができるし、続けるべきであろう。

次のように言ってもよいかもしれない。いつ死ぬか病気になるか分からないけれども(正確に予測することはできない)、万一のために保険を掛けることが望ましいということである。期間限定の保険が分かりやすい。保険期間に事故がおきなくても、保険料は無駄になったのではないのである。

大事なのは二つの文脈での議論が途中過程において直接交わらないように気を付けることである。つまり、文脈どうしの間での分業が成立することで問題の解決が図れるということになる。こういうやり方を文脈の分業と呼ぶことにしよう。現実の温暖化論争では、日本ではこれまで第二の文脈がほとんど存在してこなかったために第一の文脈に干渉するかたちで懐疑論者が声をあげ始めている、といったところであろうか。

原因究明が十分になされる前の段階で、対策をとることはできないという論理は、(水俣病の原因究明の際の企業・行政・一部学者の対応にみるように)、原因究明と対策を不可分のものと考えることである。そのように考えるのではなく、「原因究明と対策の二段構え」をとることが重要であろう。

 

文脈の分業とは、「疑う文脈と疑わない文脈の分業」のことであるが、

疑う文脈と疑わない文脈を分業した後でも、疑わない方の文脈の中で、分業の目的に反しない範囲でのほどよい懐疑主義を利用することはできる。こういう微妙な問題については、疑う技術と疑わない技術を並行してフルに活用する必要があるということである。

私は、「原因究明と対策の二段構え」と言ったが、「文脈の分業」はもう少し応用範囲の広い考え方かもしれない。この言葉は覚えておいた方が良さそうだ。

伊勢田は、さらにここで「疑う技術と疑わない技術」と言っている。「文脈」ではなく、「技術」である。

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間違いを認めるのを恐れないこと

以上、政策問題などについて多人数でCTをする際に、特に問題になる特徴を見てきた。最後にもう一つだけ、個人のCTにおいても多人数のCTにおいても重要な心構えについて簡単にふれておこう。それは「間違いを認めて改める」という態度であり、これができなければ、ここまで書いてきたCTの手法をいくら学んだところですべては無駄である。

自分に都合の良い文脈を選び、自分に都合の良い基準で議論を評価し、自分に都合の良い証拠だけを見るなら、ここまで紹介してきた技術を使っても、確かに今の自分の立場を変えずに済むかもしれない。しかしそれが目的ならCTをする必要はない。「過てば則ち改まるに憚ることなかれ」という『論語』の言葉は、CTを志すすべての人間の座右の銘(の一つ)になってよい。これは、ポパー反証主義の基本理念でもある。 

 論争に勝つことだけを目的とする人がいる。自分に都合の良い文脈・基準・証拠でのみ議論する人がいる。それは往々にして、自分の立場を維持するためである。あるいは自尊心(自分は偉い!)を傷つけられることを嫌うためである。そのような人を説得するテクニックはあるが、なかなか難しい。

人間は批判されることに弱い。自分の意見を批判されると頭に血がのぼり、自分自身が攻撃されたように感じ、相手が何を言っているのかもよくわからなくなる。私も哲学者という仕事柄、面と向かって他人の意見を批判する機会は多いが、非常に有能な哲学者でも何を批判されているのか理解できず、話がかみあわないということがよく起こる。逆の立場で、私自身も他人の批判に対する自分の解答をあとで読み返して反省することは多い。これは、部分的には通約不可能な食い違いが生じているせいだと思われるけれども、部分的には批判されたことで単に思考が硬直してしまっているからだと考えられる。

この性向は学歴とは関係ない。知識とも関係ない。いや、逆に高学歴で知識の豊富な人ほど、「自分が攻撃されたように感じ」、「思考が硬直する」傾向があるようだ。

こういう場合、どうしたらいいだろうか。いくつかルールを挙げよう。まず、自分の意見に感情移入しすぎないことである。自分で思いついて愛着のある説でも、場合によっては切り捨てる覚悟がないと、結果的には自分に跳ね返ってくることになる。相手に譲歩するのはプライドが許さない、という人は、自分が今持っている意見を無理やり弁護し通すことにプライドを持つのではなく、自分の過ちを素直に認められるということにプライドを持つことを考慮してみてほしい。それが結局は実り多い論争への道でもあり、実り多い論争からは自分自身も得るものが多いはずである。 

 「自分の過ちは素直に認めること」、「過てば則ち改まるに憚ることなかれ」は、「教育」で学び、「書物」で学び、「経験」で学ぶしかないものかもしれない。

次に、自分の意見に対する批判は必ずしも自分自身に対する攻撃ではないということをわきまえることは大事である。もし論争相手がそこを混同しているようであれば、まず文脈の分業について一致をとり、人格攻撃と切り離したかたちで冷静に論争できる場を整えるのもよいだろう。また、批判されて頭に血が上っていると感じたら、自分が落ち着くまで返事をするのを待つのも実際的なアドバイスとして有効である。

意見に対する批判と人格攻撃は全く別にも関わらず、混同する人が意外と多い。大声を出して怒鳴るとか、罵詈雑言を浴びせるとか、議論を拒否するとかはそういう人である。

私自身もこの本の中でいろいろあやふやなこと、間違ったことを(それと知らずに)書いてきたことだろう。そうした点について批判があり、確かにおかしいと認めた場合は、私も過ちを認めるのにやぶさかではない。読者も、本書で学んだCTの考え方をあてはめつつ、今度は懐疑的な目で本書を再読してみられてはいかがだろうか。

謙虚であることは、大事な徳目であると思う。

 

今回で、『哲学思考トレーニング』を終わる。「まとめ」はしない。