気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

所有という問題-世界にある財が、交換の始まる時点において誰のものであるかが決定されていなければ、交換は起こりようがなく、その初期値の設定を定める規範は、市場の中にはない

立岩真也『私的所有論』(1) 

立岩に『私的所有論』なる著作があることはだいぶ前から知っていた。しかし、amazonの商品説明では、「「私のもの」とは何か? 代理母、女性の自己決定権、臓器移植など、所有と他者と生命をめぐり、社会・倫理を横断して考える。」とあり、つまらない生命倫理学の本なのかと思っていたのだが、立岩と稲葉の対談『所有と国家のゆくえ』(本ブログの読書ノートでとりあげた)を読み、なかなか面白いことをいう(ラディカルな発想をする)と感じられたので、本書をとりあげることにした。

 

立岩は、「序」で次のように述べる。

何がある人のもとにあるものとして、決定できるものとして、取得できるものとして、譲渡できるもの、交換できるものとしてあるのか、またないのか。そしてそれはなぜか。これに対して与えられるのが、私が作る、私が制御するものが私のものであり、その力能が私である、という答えなのだが、この答えはどんな答えなのか。つまり私はこの本で、「私的所有」という、いかにも古色蒼然としたものについて考えようとする。けれども私は、所有、私的所有は、依然として、あるいは一層、この社会について考える時に基本的な主題だと考えている。

立岩が「私的所有」という言葉で何を考えているのかはこれからこの本を読んでみなければ分からないが、これを「基本的な主題」であると言う時、「確かにそうだ」と思った。

 

さまざまな問題がある。人々はその問題について何といっているか。

…こうした主題に関して言われていることのほとんどにまったく不満だ。一つは、しかじかの問題がある。しかじかの難しい問題があると言って終わるもう一つは何か言っているようで、何も言っていない。例えば、部分に対するに全体、個に対するに全体を対置する「思想」がある。区別はない、みんな一緒だとする、生命は皆平等だと言う。しかし実際には私たちは区別している。問題はどこになぜ境界を設定するかにある。この時に、そうした言説はあまりに結構すぎて、何も言ってくれない。そしてもう一つ、所有や決定について極めてはっきりしたことを主張し、何も問題は無いのだとする言説がある。だが、その内容、その論理に不満である。ゆえにこの本が書かれている。…

疑問を疑問としない主張、常套的になされる批判、批判を中途半端に終わらせる批判を、少し丁寧に辿っていく。その中で、そこに言説として現れない何が前提されているのかを浮かび上がらせる。そのような作業の中から、別のものがあることを示す。…行おうとするのは、既に、確かにあるもの、しかし十分な言葉を与えられていないもの、それを覆う観念や実践の堆積があって言うことを厄介にしているものを顕にすることだ。

 「疑問を疑問としない主張」、「常套的になされる批判」、「批判を中途半端に終わらせる批判」、世に溢れる言説のほとんどは、これに該当するのではないか。隠れた(隠された)前提がある、という直観。言うことが厄介で、言うことが阻まれている、という直観。

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http://jobybarron.com/project/my-project/

 

第1章 私的所有という主題 では、本書の主題と本書の全体構成について述べられている。

本章は省略する(後で、必要と思えばとりあげる)が、章の概要で述べられている「自己決定」と「私的所有」の関係についてだけ引用しておこう。

近代的な意味での所有権は、単に所持する権利ではなく処分権であるから、その限りで、「所有」と、あることをどのように扱うかという「決定」とは同じものである。だから「所有権」と「決定権」とは同じである。そして、自己決定とは自己が決定することであり、私的所有とは私が所有することである。だから、この限りでは、自己決定(権)と私的所有(権)とは同じである。両者がいっしょに論じられたことはあまりないが、論じられなければならないと思う。

 

第2章 私的所有の無根拠と根拠 第1節 所有という問題 から、詳細にみていこう。

自己決定の手前にある問題

彼の行為はなぜ彼にだけ委ねられるのか。「他人に対する危害」を加えない範囲で自由だと言うが、ある行為、あるいはその結果が、他の者に与えられないこと自体は、危害を加えていないと言いうるのか。また私の身体が私のものであることは自明のことのように思うかもしれない。だがその身体が私のもとにあること、私がその身体のもとにあること、また意のままにそれを私が使えること、これらの事実と、その身体を他者に使用させず、私の意のままに動かして良い、処分して良いという規則・規範とは、全く次元の異なったところにある。

赤字にした部分がちょっと分かりにくい。Aの行為が他人に危害を加えていなければ「自由」だとして、もしその行為がAにしか可能でないとしたら、そしてまたその行為がAにしか利益をもたらさないものであったとしたら、他人にとって、Aの行為は「不公平」だとうつるのではなかろうか。それを「危害を加えていない」から、問題はないのだ、といって済ませられるのか。というような意味だろうか。

 

財Xを使用する、行う、消費する。結果として産出された財の配分や利用のことだけを言っているのではない。この財の中には各自の身体や行為、その他全てのものが含まれる問題はそれを誰が行うことができるかである。世界の財を割り振るとして、それをどのように行うのか。

「財」とは、

人間の欲望を充足させるものを一括して財(貨)・サービスという。そのうち、機械や家具などの有形物がであり、教育や医療などの無形物がサービス(用役)である。財・サービスは個人・法人などの経済主体に対して経済客体とよばれる」。(日本大百科全書

通常、このように理解されようが、立岩はもう少し広い意味で考えているようだ(特に「身体」)。ただし、「その他全てのもの」で、何をイメージしているのか分からない。

 

Xが誰のものであるか決まっていないと、AとBの間に争いが起きるかもしれず、その争いは収拾がつかないかもしれない。…そこで財・行為の所有・処分に対する権限の割り当ての規則を設定する。その規則はかなり普遍的に、どの社会にもあると考えてよいだろう。…ここで問題にするのは、その近代的な規範、そしてそれを導き出す論理である。近代社会には近代社会特有の割り当ての規範がある。この配分の原理はどのようなものか、それがどのように根拠づけられているのかが問題である。

誰が、財Xを所有し、処分することができるのか。財Xはどのように配分されるべきなのか。これを定める社会のルールがある。そのルールは正当なものであるのか。

 

私的所有という規則

この社会において財の流通・配分を決定する主要な原理は、私的所有の原理である。近代の所有を巡る規範の特徴として以下のようなものがあげられる。

1 個人単位に、財に対する権利が配分されること

2 配分されたものについて独占的に自由な処分が認められること

3 その権利は、ある者が実際にあるものを所持している、利用しているといった具体性から離れていること

 第1点目の反例

現在では法人所有等が大きな割合を占めていること、また公共財の存在が指摘される。そうした所有形態の重要性を認めるが、しかしこのことは私的所有の地位を否定するものではない。

第2点、第3点の反例

私たちの社会にあっては、所有権とは、通常、所有しているものについてその処分の仕方(自らが保持するか、他者に贈与するか、交換のために使用するか)を決定できるということであり、所有権は即処分権を意味するが、その者のもとに置かれることと自らのもとから切り離す(処分する)ことを分けることは可能である。そして実際にも、その者のもとにあることは認められるが、それを移動させること、処分することは認められないとされることがある。さらにその中でも、移動すること、改変すること、失うこと全般が禁止される場合もあれば、他者に売却することだけが禁止される場合もあり、選択的に譲渡することが一切禁止される場合、特定の選択的な譲渡が禁止される場合もある。これらが何を由来するのか、これは本書で考えようとする主題の一つでもある。

所有権=処分権とは限らないこと、処分の態様によっては、「自由な処分」が認められない場合があるということ。それは何故なのか。

 

ただ、ここではひとまず以上[上記]三点を認めるとしよう。保有・処分について自己の決定権に属するもの、同時に、自分がその帰結を引き受ける義務があるものが決定される。この原理を冒さない相互行為は同意に基づいた行為である。両者が合意すれば、その間の相互行為は許容され、どちらか一方でも合意しなければ、その行為は行われない。そして双方に同意のある行為は私事として当事者以外の関与するところではないとされる。

この相互行為(贈与を含む)は、私たちがイメージする市場取引ではない。

専ら、自らの負担をできる限り少なくして、与えること自体から得る充足以外の財をできる限り多く求めようとする欲求が彼にあるのであれば、私たちが思い描くような市場が形成されることになる。

では、市場における交換をどのように考えればよいのか。

世界にある財が、交換の始まる時点において誰のものであるかが決定されていなければ、交換は起こりようがなく、その初期値の設定を定める規範は、市場の中にはない。あらかじめ財を配分しておく必要、財の配分についての規則を設定しておく必要がある。

そもそもあるものがなぜ自己のものであると言えるのか。この所有の初期値の割り当てがどのようなものなのか、そしてそれはどのようにして正当化されるのか。この問いに答えなければならない。そして所有が処分権を含むものだとすると(近代的な意味での所有権はそのように理解されている)、初期条件の設定とは市場の作動の全てに関わるものである。同じことが自己決定についても言える。自己決定と言っても、何が自分の決定の対象なのかが問題だと先に述べた。近代的な所有権の概念では、所有権とは処分権、処分に関わる決定権のことである。このように考えれば、何が自己決定の対象かという問いは、何が自己所有の対象かという問いである。

財の「交換」は、各人が財を所有しているから可能である。では、各人は交換前に「財」をどれだけ所有しているのか。立岩は、これを「所有の初期値の割り当て」と呼んでいるのだが、これこそ問題視されなければならない。それは「経済学」の範疇にはないかもしれない。しかし、私たちが生きているこの社会を、よりよいものにするためには欠かせない問いであろう。