浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

自由主義は、自分勝手やわがまま放題の別名ではないのか?

久米郁男他『政治学』(3

今回は、第3章 自由と自由主義 第2節 古典的自由主義の展開 である。

自由主義とは、生命や財産や思想・信条に関する個人の自由を、他者に同等の自由を認めるかぎりにおいて最大限に認めようという思想である。リベラルな国家において、各人は基本的には自己の「利益」の追求に専念することができる。但し、ここで言う「利益」とは、金儲けや出世といった経済的成功のみならず、信仰や生活に関する様々な精神的価値の獲得をも含むものである。いずれにしても、自由主義は当初より個人主義的な傾向を強くもつ思想であるといえる。

「リベラルな国家」が、歴史的事実として存在したことはあったのだろうか。これは「リベラル」の定義次第だろう。

だが、他者の自由を損なわない限り、という条件の下ではあっても、個人はあくまでも自己の利益のみを追及すればよいという自由主義者の前提に対しては、当然ながら異論も出される。みんなが自分の利益のことだけを考えたら、全体の利益はどうなってしまうのか。自由主義とは、要するに自分勝手やわがまま放題の別名ではないか。こういった批判に対して、自由主義はどう応答したのだろうか。

このような批判に対する自由主義の応答は、大別して二つに分けられる。第1の立場は、私的利益の追求と全体の利益の追求とが必ずしも矛盾しないと主張するもので、第2の立場は、個人が潜在的に備えている「自律」の能力を高く評価しようとするものである。

本書は、この2つの立場を以下のように説明している。

私的利益と公共の利益

自由主義を道徳的に批判する者が自明の前提としていることは、個人の利己的行動が必然的に社会や国家の利益を損なうということ、即ち二つの利益はゼロサムの関係にあるということである。自由主義の側からの反撃は、まずこの自明の前提に切り込むことから開始される。個人の利益追求のための行動は、本当に社会にとって有害なのか、それどころか、利己的行動はむしろ社会に秩序と繁栄をもたらすのではないか。例えば、贅沢三昧にふける金持ちのマダムの虚栄のおかげで、貧しいお針子も洋服を作って収入を得るのではないか。18世紀初頭に「私悪すなわち公益」という挑発的な命題を掲げたマンデヴィルは、こういった例を引きつつ、私的利益と公共の利益との両立可能性を示唆したのである。

自由主義を「道徳的に」批判するとはどういう意味だろうか。「道徳的でない批判」(どういうものか分からないが)に対しては、自由主義者は応答しないということだろうか。

批判者は、本当に「個人の利己的行動が必然的に社会や国家の利益を損なうということ、即ち二つの利益はゼロサムの関係にある」ということを自明の前提にしているのだろうか。誰がこんなことを言っているのか知らないが、どういう意味でこういうことを言うのか問いたださなければ、応答のしようがないと思うのだが、本書は「利己的行動はむしろ社会に秩序と繁栄をもたらすのではないか」、「私的利益と公共の利益との両立可能性を示唆した」という。これもまた、どういう意味で言っているのか詳しく話を聞かないと、何とも言えない。

私的利益の追求を認めれば認めるほど、全体の利益が増大するというパラドックスのしくみを本格的に解明しようとしたのが、アダム・スミスの『国富論』である。スミスによれば、商業社会において人々は、公共の利益について顧慮することなく、自己の利益を増大させることだけに専念すればよい。市場が健全に機能している限り、そこでは「神の見えざる手」が社会全体の利益を増進していく。政府のいたずらな介入は、不要であるのみならず、有害になったというのである。ここにおいて自由主義は資本主義という土壌にしっかりと根を下ろし、経済活動の自由は、自由主義者が何にもまして擁護すべき重要な項目の一つとなっていく

「私的利益の追求を認めれば認めるほど、全体の利益が増大するというパラドックス」というが、それは「私的利益」や「全体の利益」の意味(定義)如何によるだろう。「市場が健全に機能している限り、そこでは「神の見えざる手」が社会全体の利益を増進していく」というのも、「市場が健全に機能する」、「社会全体の利益」がどういう意味なのかが詳しく説明されない限り、何とも言えない。「政府のいたずらな介入」というのも同様である。

本書は、自由主義批判に対する自由主義の側からの応答の第1の立場は、「私的利益の追求と全体の利益の追求とが必ずしも矛盾しないと主張するもの」であると言っていた。しかし、本項(私的利益と公共の利益)の説明を読むと、アダム・スミスやマンデヴィルがそう言っていたというだけのように思える。「なぜ、私的利益の追求と全体の利益の追求とが必ずしも矛盾しない」のかを論拠をもって説明していないように思える。経済学のテキストを読めということなのか。

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 マンデヴィルの話が出てきたので、ちょっと見ておこう。

彼の政治的風刺詩《蜂の寓話》は,巣の中の個々の蜂は醜い私欲と私益の追求にあくせくしているが,巣全体は豊かに富み,力強い社会生活が営まれている姿を巧みにうたっている。この詩の副題にある〈私的悪徳が公共的便益につながる〉という主張は,後にA.スミスの自由主義的経済学や分業論に大きな影響を与えることになる。(世界大百科事典、「蜂の寓話」) 

「巣の中の個々の蜂は醜い私欲と私益の追求にあくせくしている」とも思えないし、「巣全体は豊かに富み,力強い社会生活が営まれている」とも思えない。皮相な見方である。自由主義者はこういう見方をするのだろうか。

 

自律

このように、古典的自由主義は、18世紀以降、経済的自由主義の「見えざる手」の論理との結びつきを強め、政策としても自由競争や自由放任を是とする立場を正面から打ち出すようになる。もっぱら治安の維持と防衛だけを行い、なるべく市民の自由に任せようという方針をとる国家は、(皮肉を込めて)「夜警国家」と呼ばれるようにもなる。しかしながら、私的利益の追求が社会にとっても有用であるからそれを認めるべきだ、という論法に飽き足らなさを覚える者もいた。前にも見たように、自由主義はエゴイズムの別名に過ぎないとして、道徳的に批判されてきたのであるが、こういった批判に正々堂々と応答しようという議論も成立する。即ち、自由は、人間を道徳的に向上させ、人間が人間らしく生きるための根本条件だと言うのである。

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「正々堂々」という表現には、「自由主義擁護」のニュアンスがある。

「私利私欲による経済行動」が、利己主義ではなく、「人間を道徳的に向上させ、人間が人間らしく生きるための」自由な行動になるのだろうか。耳ざわりのよい言葉をならべて、論拠なく自由主義と結びつければ、それで自由主義が擁護されるというものではなかろう。

ところで、伝統的な身分社会の崩壊を目の当たりにした19世紀になると、自由主義者のみならず、様々な立場の論者が、「自律」や「自己陶冶」(self-cultivation)といった概念を盛んに論じるようになる。肉体的・経済的・精神的なあり方を己の理性によって決定し、その潜在的な能力を自分自身で発展させ、社会に主体的に関わる個人が近代人のあるべき姿とされたのである。人間を理性的で自律的な行為者と規定したカントに、こういった人間観の一つの典型を見出すことができるが、政治思想の分野でこういった人間像をある程度まで取り入れつつ、それをベンサム以来の功利主義理論と融合させることで独自の自由論を展開したのが、19世紀イギリスのジョン・スチュアート・ミルである。

このような主張が、学者の著作のなかに見られる、というのであれば、「ああ、そうなんですか」というしかない。それは、現在、「肉体的・経済的・精神的なあり方を己の理性によって決定し、その潜在的な能力を自分自身で発展させ、社会に主体的に関わる個人が近代人のあるべき姿である」と主張するのとは異なる。現在このように主張する者がいるとすれば、もう少し詳しい話を聞かないと何とも言えない。

カント(という権威?)を持ち出してきたところで、説得力が増すとも思えない。

ミルが著書『自由論』(1859)で深く憂慮するのは、圧倒的に多くの人間が、伝統・習慣・自己の帰属する集団(例えば、「階級」)から自由であることの本質的な価値を理解することが出来ない、ということである。彼らは、既存の権威や「世論」の言うなりになることに易々と甘んじている。しかしミルによれば、個人の利益の最大の判断者は自分自身である。各人は勇気をもって、自分の頭で考え、自発的に行動することを学ばなければならない。人間がその「個性」(individuality)を発揮し、自分の一生をかけてそれを完成させること、それこそが真に人間らしい理想の生き方なのである。 

 「伝統・習慣・自己の帰属する集団から自由であることに本質的な価値がある」とミルが言ったのかどうか知らないが、「私たちは、社会を形成して共に生きている」ということをまじめに考えるならば、「伝統・習慣・自己の帰属する集団から自由であることに本質的な価値がある」などという「単純な言明」で済ますわけにはいかないことは明白である。ちょっとでも、実際の具体的な法規制を考えてみれば分かることだろう。

既存の権威や「世論」の言うなりになるな、というのであれば分かる。既存の権威や「世論」が、ある物事を論拠をもって主張しているのであれば、その論拠を吟味すれば良いのであって、自由になる(反対する?)ということに「本質的な価値がある」とはとうてい思えない。

「個人の利益の最大の判断者は自分自身である」、そうだろうか。理性的に判断できる人間ならば、そうとも言えるかもしれないが、そんな人間ばかりではあるまい。「個人の利益」などという多義的な概念について、何をどのように判断するというのだろうか。

自分の頭で考えよ」とは、よく聞くフレーズである。私は、自分の頭で考えられないから「引用」ばかりしている。…自分が見聞きすることができる世界がどれだけ微小で狭い範囲のものであるか、を思い知らされることが多々ある。自分が見聞きすることができない世界を、「自分の頭で考える」ことができるものなのだろうか。「自分が見聞きすることができる世界」ですら、「語る言葉」が分からない。言語化できない知覚世界についてはどうなのだろうか。自分勝手な言葉を並べ立てること(独断)が「自分の頭で考える」ことの実態ではないか。以前に聞いた誰か偉い人と世間でいわれている人の言葉を、無意識に(あるいは密輸入して)繰り返すことが「自分の頭で考える」ことの実態ではないか。…「自分の頭で考え、自発的に行動」したら、逮捕され処罰されることだってある。「自分の頭で考え」独断と偏見をまき散らされても迷惑なだけである。(「自分の頭で考えるな」とは言ってないので、誤解なきよう。自分の頭で考えると、独断と偏見に陥るリスクがあるということである)。

このような前提からミルは、人間の行為を自分自身にのみ関わる行為他者に関わる行為の二つに分け、前者には完全な自由を与え、後者にのみ一定の制限を加えるべきだと主張する。こういった議論の真意は過度の飲酒のように、たとえ自分自身を傷つけるような行為であっても、それが自分自身にのみ関わる私的な行為である限り、完全な自由を認めるべきだということである。というのも、そういった私的な領域における完全な自由なくしては、自らの人生の目的を追求することはできないからである。判断力の未熟な幼児ならいざしらず、一人前の大人なら男であれ女であれ、自分が選び取ったものではない人生に真の幸福を感じとることはできないというのである。

ここまで徹底して個人の自己決定権を尊重すべきだという議論が提示されたのは、まさに「自律」こそが人間の尊厳の基盤をなす、と考えられたからである。こういった自己決定権としての自由を保障するものとして、ミルは言論・出版の完全な自由や男女普通選挙制度の実現を訴えることになる。

「自分自身にのみ関わる行為」とはどんな行為なのだろうか。自分自身? 行為? これは「疑い」が過ぎるだろうか。…仮に「自分自身にのみ関わる行為」があったとして、なぜ「完全な自由」を与えることが望ましいのだろうか。その場合「自由」とはいかなる意味の「自由」なのか。私は、「自由」という言葉は、「他者に関わる行為」に関連して使用するのがよいのではないかと思うが、どうだろうか。

「判断力の未熟な幼児」、「一人前の大人」というが、何をもって、判断力が未熟だとか、一人前というのか。

「自分が選び取った人生」、「自分が選び取ったものではない人生」、自分が選び取るとは、どういうことか。

最後のほうに、「自己決定権」とか「自律」という言葉が出てくるが、何のことやら…。

本書は、自由主義批判に対する自由主義の側からの応答の第2の立場は、「個人が潜在的に備えている「自律」の能力を高く評価しようとするもの」であると言っていた。この詳細説明がいまみてきたところのものである。この応答は説得力あるものとは思えない。