浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

記憶から、時間・空間、論理、感情が導き出される

木下清一郎『心の起源』(21)

今回は、第4章 心のはたらく「場」 第2節 時空・論理・感情 で、「記憶と照合の相互作用によって情報の自己回帰が始まり、そこから時空・論理・感情の特性が生みだされる」という話である。

 

記憶と自己回帰

記憶と照合の二つは、常に相伴って働く。二つのうちのどちらか一方だけでは意味をなさない。…記憶として格納されていた情報は、照合のために呼び出されるが、照合によって得られた結果は、新しい記憶としてあらためて格納され直し、次に照合が行われるときには、過去の記憶ともども呼び出されて照合の場に置かれることになるので、再び複雑な照合が行われ、更に新しい記憶を生ずるという循環が始まる。こうして記憶は次第に成長しつつ、堆積し、重層化し、複雑化していく。これが自己回帰の生み出す結果である。

照合とは、何らかの知覚データを、脳に保存されたデータ(記憶)と照らし合わせるという意味。保存データは改変されるかもしれないし、強化されるかもしれない。なお、不要なデータは「ごみ箱」に捨てられ、場合によっては元に戻されることもあろう。

記憶(1)→新しいデータの投入→記憶(2)→新しいデータの投入→記憶(3)………。中身が変わるにせよ、「記憶」に焦点を当てれば、「自己回帰」と言えるかもしれない。

記憶と照合との循環によって、いくつかの思いがけない特性が導き出されてくる。それは以下に述べるように、時空であり、論理であり、感情である。これらは心を支える枠組みを作りあげる特性となる。これらの特性はいずれも記憶から導き出されるものでありながら、より具体的になっているので、心の枠組みがどういう性格を持ったものになるかを検討しやすくなるはずである。

時空や論理や感情が、記憶から導き出されるとは、面白いアイデアだ。そんなことは考えたこともなかった。特に「時空」が導き出されるとは、どういうことだろうか。

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時空の誕生

もしここに、全く記憶を持たない生物があったとすれば、その生物が向き合うものは現在という瞬間のみとなろう。瞬間は絶えず消え去っていき、そこに流れる時間は無い。恐らく「現在」すら持っていないと言うべきだろう。しかし、記憶が成立すると状況は一変する。瞬間のみに生きていた生物は、記憶によってはじめて過去を持ったからである。過去が堆積していくとは、そこに時間が降り積もることにほかならない。こうして記憶は「時間」を刻み始める。記憶の成立があってはじめて時間は流れ始めた。これが生物にとっての時間の誕生である。

木下は「生物にとっての時間の誕生」と言うが、これはどういう意味だろうか。「人間にとっての時間の誕生」であれば、何となくわかる気がするが(言語化できないとしても)、「(人間ではない)生物にとっての時間の誕生」と言われても想像できない*1。可能なことは、生物の行動を観察して、当該生物は、人間と類似の「記憶」を持ち、「その生物にとっての時間」が流れているように見える、ということではなかろうか。

<記憶-過去を持つ-過去が堆積する-時間が降り積もる-時間が流れ始める-時間の誕生>

ふーむ。話としては面白いが、これは科学的説明だろうか。記憶という言葉に含まれているものを、紡ぎ出しているだけではなかろうか(トートロジー?)。

 

また時間の誕生とともに空間が拡がり始める。生物が時間を持たなければ、わが身の置かれている状況は、現在という瞬間に感覚が及ぶ範囲に局限され、それを超え出ることはできない。おそらく「位置」すらなかったというべきだろう。しかし、時間が与えられたとき、過去に感覚が及んでいた範囲にまで拡がりを持つことができた。それは此処(ここ)という点に過ぎなかった位置が、彼処(かしこ)という拡がりをもった「空間」に変貌したことを意味する。生物にとってはこれが空間の誕生にほかならない。

かくして、時間は記憶によって与えられ、空間は時間によって与えられる。記憶の成立によって、時間が流れ始めると同時に、空間が現れてきたことは注目されてよい。時間と空間とが切っても切れない関りをもって認識されるのは、それらがともに記憶に起源をもって生まれるからであろう。こうして時間と空間とが二つながら揃った。記憶が導き出したこの根源的な特性を「時空の特性」と呼びたい。これが心の枠組みの基本となる特性である。

 生命という土壌で、時間から空間が生まれるということだろう。「生命にとっての時間→生命にとっての空間」であって、「時間→空間」ではない。例えば、(人間で言えば)幼き日[時間]に、家族で行った海水浴場[空間]といったところか。

経験されようとされまいと、時間も空間も存在しているとするのが、絶対時空の考え方であるのに対して、ここでは経験されるものは相対的時空であり、絶対時空はそこから抽出されたものと考えているからである。…感覚を超越した絶対時間や絶対空間の存在やその本質については昔から議論が絶えない。おそらく、物理学的にもまた哲学的にも決着をみていないというのが、ほんとうのところなのであろう。しかし、記憶なしには時間と空間の二つはともに認識されえないとすれば、そのことは私たちが認識している時空の性質にいろいろなかたちで影を落としているに違いない。

時間や空間が、(人間の)経験[観測]と関係なく、絶対的に存在するか否かの議論は、おそらく時間や空間の定義次第で変わるだろう。だからどのような意味でその言葉を使っているかを明確にしなければ議論がかみあわない。また、「絶対」とか「存在する」についても、その意味が問題となるだろう。こういう話は、「科学」とは無縁の「神学」となりかねない。神学は、宗教やオカルト、スピリチュアリティに近い。(東大、京大、東工大、阪大、神戸大、早大、慶大などの学生を巻き込んだオウム真理教が思い出される)。安易に「絶対時空」や「超越者」を主張することは、危険人物とみなされる可能性がある。したがって、人間の経験[観測]と関連付けてのみ「時間」や「空間」を語るという常識人の態度は、不可知なものを根拠なく語らないという意味で、節度あるものと考えられる。

 

論理の誕生

時空を場として情報の照合が行われ、そこである判断が下されて、その判断が生物に対してある特定の結果をもたらしたとしよう。その時の判断と結果とは対をなして再び記憶に入り、次の照合が行われる際には、その情報が対を為したまま再び想起され、次の判断の材料として用いられる。つまり、ここに判断の基準が生まれる。ここでもまた記憶と照合の二つが揃って、はじめて新旧二つの情報の対比が可能になったし、そこで判断を下すこともできるようになった。しかも、一つの判断ごとに一つの基準が生まれている。その基準とは、かつて行った判断が、ある特定の結果とつながるという関係、つまり因果の必然の形をとる。

こうして、照合が行われるたびに、新しい基準が生まれて記憶の中に積み重ねられていく。こいう堆積が統合されると論理の形をとって定着するに至る。こういう一連の過程は記憶に由来する特性の一つであると考えて、「論理の特性」と呼びたい。これはやがて心の枠組みを支える軸の一つになる。

ここで大切なことは、「照合」とか「判断」という言葉に、「意識」を含めないことだろう。いまは「心」の起源を探っているのだから、論点先取りしてはいけない。だとすると、「照合」とか「判断」という言葉は、言い換えたほうが誤解を招かないように思う。では、何と言うべきか。

風が吹けば、木が揺れる。なぜか? 「木は、現在の風向・風圧などの情報を、過去の風向・風圧などの情報と照合し、枝や葉などをどのように調整すればよいかを判断し、適切に対処している」という言い方は妥当か。あながち誤りだとは思わないが、そのように擬人化する必要があるだろうか。淡々と、「この風向・風圧では、この木の枝や葉は、このように動く」と言うだけではダメだろうか。なぜこのように動くのかという問いは、なぜ「エネルギー」があるのか、なぜ「宇宙空間」があるのか、といった問いと同様の、不可知の問いのように思われる。

木下がここで「論理」と称するものは、「当該生物にとっての経験的な因果関係」を指すものと思われる。しかし、論理的思考があって行動が生まれるというよりは、生物の行動には、(人間から見て)「論理的な行動」に見えるものがある、というのが正確ではなかろうか。

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感情の誕生

記憶が成立し、判断が行われ、生物の行動は判断によって左右されるようになる。これはごく自然の移り行きのように見えるが、少なくとも判断が出現したばかりの時期においては、判断の出現は生物の行動に大混乱をもたらす原因となったに違いない。それは次の理由からである。

「判断」は、先述の通り、「意識的な判断」ではないことに留意しよう。

それまでの生物の行動は反射行動の連続であったから、外界からの情報が与えられない限り、行動は始まらなかったし、その行動は紋切型でしかなかったにせよ、一定の反応を返すことは出来ていた。つまり、生物の行動は、それなりに保証されていたと言えよう。ところが、記憶の成立に伴って判断が介在するようになると、ここで事態は一変する。本能行動をも含めて反射に基づく生物の行動は、個体の生存や種族の存続を保障するものとして、長い進化の歴史を経て確立されたものであり、これらの行動は個体がたとえ危険にさらされようとも、実現させなければ個体も種族も存続できなくなるという性質のものであった。ところがそこに判断が割り込んできて、反射や本能の実行に伴う危険を顧慮させたために、これらの行動が中断されるに至ったとしたらどうであろう。これは生物にとっては由々しき事態であり、致命的ですらある。 

 木下がここで言わんとするのは、判断が介在することにより、情報A(1)→行動B→結果C(好ましい)、情報A(2)→行動B→結果D(好ましくない)なる記憶を保持しているとき、新たな情報がA(1)に近いにもかかわらず、A(2)と判断して行動Bをとらないという事態をいうものであろう。

こうなると記憶の成立による判断の出現などというものは、生物にとって進歩であるどころか、かえって困難を引き起こす厄介者になる。そこで生物進化の歩みは、これらの行動を中断させない道をたどった。すなわち、判断が成立するとともに、一方で反射行動に対しては、それが判断などに干渉されぬよう、反射に関わる神経回路を判断の回路からは隔絶させて独立のものとした。また他方では、本能行動の実現に対して快感という褒賞を与え、危険をあえて無視してでも実行へと誘うだけの魅力を持たせた。ここに快・不快の感覚の起源があると思われる。

この話も面白いが、「本能行動に、快感と言う褒賞を与えた」というのは、人間以外にも言えることなのだろうか。

いま赤字にしたところ、「~とした。」、「~を持たせた。」とあるが、この主語は何か。それは「生物進化の歩み」だろう。とすれば、これは修辞表現であり、そこにごまかしがないかどうか要注意だ。

人が「反射」と呼ぶもの、「判断」と呼ぶもの、その駆動回路が異なる。これだけのことを、「進化」の文脈で語ろうとするから、かかる表現になるのではなかろうか。なお、反射の次元では、「快・不快の感覚」は関係ない。

Wikipediaによると、本能行動とは、「動物の合目的的行動のうち、学習や思考によらず、外部の刺激に対して引き起こされる行動(反射)が複雑に組み合わさったもののこと」であり、具体例として、「ビーバーの巣作り、カッコウの托卵、ミツバチのダンス、サケの遡上、クモの巣作り」が挙げられている。別に、Wikipediaの定義を正とするわけではないが、確かにこれらの例は「本能行動」といって良いように思われる。では、ビーバーやカッコウやミツバチやサケやクモは、「快感」を感じているのだろうか。それは分からない。ましてや、トカゲやクラゲやバクテリアや松の木の本能行動は、「快感」を伴うものだろうか。せいぜいが人間の食欲や性欲などにあてはまる話ではないか。…それとも、いま挙げたような生物は、「記憶」を持つことは無いので、論旨と関係なく、ここでは「記憶を持つ生物」の話をしているのだということだろうか。

 

少し前に戻って、判断の成立の時点に立ってみると、選択の基準とするにはまだあまり頼りにならない程度にまでしか発達していなかった論理的尺度のほかに、ここでたまたま同時にあらわれてきた情緒的尺度である快・不快の感覚を、もう一つの基準として取り入れる素地は十分にあったと言って良い。いったん、快・不快の情報を判断の基準として記憶の中に取り入れると、記憶と照合との循環を介して好悪は堆積され統合されて、それはやがて感情として定着するであろう。これもまた記憶の生み出した特性であると考えて、「感情の特性」と呼びたい。感情の特性は心の枠組みを支えるもう一つの軸になる。なお、時空や論理の特性と並べて感情の特性を考えるなら、感情にも絶対感情と相対感情とがありそうな気がする。多くの相対感情が現れたのち、そこから不動の絶対感情と呼ぶべきものが抽出される可能性があるかもしれない。この点は将来の問題としたいが、感情は論理に比べるとまだ未完成であって、確立の度合いが進んでいないようにも思える。

「本能行動→快・不快の感覚→感情」という流れであり、確かにそう言えるかもしれないとは思うが、「感情」と言う複雑怪奇なものの起源としてそれで十分かという疑念は残る。

記憶から生み出される特性として、時空・論理・感情の三つがあることがわかった。これが心の働く「場」を作っている枠組みになる。これらの特性が現れるためには、その背後に自己回帰という循環の過程があることはすでに述べた。しかしそれだけではなく、さらにその根底にはある統合能力が潜んでいる。次にそのことに考えを進めよう。

ここで立てた仮定は、次のようである。

(9) 記憶と照合の相互作用によって情報の自己回帰が始まり、そこから時空・論理・感情の特性が生みだされる。これらは心の働く「場」を規定する枠組みとなる。

*1:犬好きや猫好きなら、犬や猫の立場に立って考えることが出来るかもしれない。しかし、哺乳類以外だったらどうだろう。