浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「格差」の指標 「ジニ係数」を考える

格差社会(1)

私は「格差社会論」を、本ブログの主要テーマの一つとしています。熊沢誠は『格差社会ニッポンで働くということ』という本で、以下のように述べています。

いまさかんに展開されている格差社会論とは、畢竟ある程度は不可避的に分立する、仕事やステイタスや収入において「恵まれた階層」と「恵まれない階層」の関係論にほかなりませんが、ここにはおよそ二つの問題領域があるように思います。一つは、機会の不平等です。これは恵まれた階層に人々が入る競争のスタートラインが、出身家庭、学歴、性、国籍、人種などによって制度的に、あるいは実質的に異なっているということ。この場合、恵まれない階層の出身者はたいて生涯的にも世代的にも同じ恵まれない階層にとどまることになります。二つは、結果の不平等です。恵まれた仕事と恵まれない仕事の間の雇用保障や収入や発言権の格差が大き過ぎること。私は特に発言権を重視します。恵まれない人々が、労働条件や生活水準を変える力をどれほど持つことが出来るかに関心を寄せています。この結果的格差が以前よりも拡大している、国際比較的にみても大きい――今の日本を格差社会とみる論者はそう指摘します。私もこの陣営に属します。(P28)

私は、問題領域を「機会の不平等」と「結果の不平等」に限定するのではなく、もっと広い範囲で考えたいと思う。

 

機会の不平等

機会の不平等は、「いわれなき差別」と正当にみなされ、世論も政界も、これを是正することについてはほぼ合意していると思います。機会は平等であるべきだということはみんなが主張します。もっとも、そこから、実質的平等のためにいわゆる間接差別にもメスを入れるとなると、賛否さまざまな意見が噴出します。問題とすべきは、機会の平等への合意がはらむモメンタム(惰力)です。機会の不平等の是正論は、非常にしばしば、メリトクラシーの原理で、すなわち能力や努力によって、仕事や収入が変わってくるということは正当だ、もしくはやむを得ないという、結果としての格差の肯定論になりがちです。実は、メリトクラシーによる格差の正当性というものを本当にそうか?と問うことが、私の研究史後期の主要なテーマの一つでした。(P29)

機会の不平等は、「いわれなき差別」(不当な差別)であるとして、誰もが(少なくとも建前としては)是正すべきであるという。機会の不平等の是正論は、機会が平等であればそれで良い、後は本人の能力・努力で業績をあげれば、それに報いる収入が得られるのは当然だ、という格差肯定論になりがちである。機会の平等を保証した上での、「業績主義」とか「能力主義」というのがそれである。おそらく後に出てくるだろうから、詳しくはそのときに考えたい(なお機会の不平等是正策は、実効性のあるものであるかどうか、おざなりのものでないかどうかを検討しなければならない)。

 

結果の不平等

次に、結果の不平等については、まず世論の中に、そもそも認知のためらい、つまり「この日本で格差が大きいと言うのは本当か?」という疑いがなおあります。統計の読み方にも関わるのですが、専門家も含めてよくある議論は、結果の格差の端的な指標であるジニ係数を年齢階層別にみると、拡大しているのは若者と高齢者だけであるというもの。だから問題ではないというの?と、私などは疑問に思いますが、生活の中核的な担い手の間で格差が拡大しているわけではないという議論です。しかし、もっと深刻なことは、政財界を中心に、今は結果の格差について容認論が少なくないことです。機会の不平等の是正、あるいは「再チャレンジ」の機会付与があれば、結果の不平等を問題視するのは望ましくない。このように結果の格差の是正を否定する見解が多くなってきました。「再チャレンジ論」は、明らかに結果の格差が生まれていることを前提にしているわけです。結果の格差の肯定論は、現代日本の政財界に支配的な考え方であり、その擁護する市場個人主義の正当な結果とされています。これは「いわれなき差別」ではなく「いわれある格差」、しかるべき格差というわけです。…議論は次のように展開されます――結果の格差をあれこれいうのは悪平等に通じる(さして根拠なく日本はこれまで「悪平等」の国だったと想定されています)。悪平等論は、市場経済の中で努力し能力を発揮して稼いだ人に重い課税をしたりして、がんばろうという意欲をそぎ、先進国病に通ずるモラルハザードを招く……。不遇の貧しい階層にとどまるのはいわば「自己責任」なのだ。能力が不十分な人、努力や意欲の足りない人に手厚すぎる生活水準を保障することは、結局はすべての国民の生活の向上をもたらす、市場経済のもとでの成長を妨げる……。(P29-30)

再チャレンジ、いわれある格差(正当な格差)、悪平等論、自己責任、モラルハザードなどは、よく聞く話である。これらの主張は正しいのだろうか。正しくないのだろうか。

 

クォータ制

私は現存する結果の不平等を肯定する見解に強い嫌悪を感じます。この嫌悪が立論の出発点です。誤解を恐れずに言えば、私見では、機会の不平等以上に、結果の格差こそが最大の政策領域でなければならないと思います。私はもちろん、機会の平等論者ですが、機会の不平等の是正を政策化するのは、かなり難しいのです。とくに競争の成功者の比率などを特定の人々に有利に設定するクォータ制(割当制)は、なかなか多数の合意を得られません。例えば女性のために重要ポストの一定比率を用意する措置を制度化することは、様々なグループからの優遇要求のとめどない連鎖を招いて、あらゆる組織の運営をとても硬直的にしかねないからです。異論もあると思いますが、クォータ制は、極めて慎重に、時期を限って適用されねばなりません。(P30-31)

クォータ制とは、「雇用や議員選出などの際に、人員構成に性別、人種などによる偏りが生じないように、一定の比率を定めて行う制度。割り当て制」(大辞林)のこと。これについても、後で出てくるのではないかと思うので、ここではふれないことにする。

 

ジニ係数

ともあれ、結果の格差をそのまま肯定する議論は、私にはとても無神経なものに思われます。まず、この論者たちが現存する格差の程度はどれほどなのかを承知して発言しているのかが疑わしい。そこでまず、いわゆる所得格差を中心に、格差の現状をみることにしましょう。その端的な指標は、いうまでもなくジニ係数の趨勢です。ジニ係数は、完全な平等を表す0から、完全な不平等を表す1までの間に位置する数値であり、数値が1に近いほど不平等なことを示します。(P31)

ここで熊沢は、ジニ係数の推移のグラフをあげているのだが、データは2002年までである(本書の発行は2007年なので、その時点での最新データだったろう)。そこで、2018年2月現在判明している2014年までのデータを追加してグラフにしよう。

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データは、厚労省の「所得再分配調査報告書」(3年毎の調査)である。

熊沢は言う。

この表の示すところは、1980年代以降、言い換えれば新自由主義的な政策思想が定着して以来、日本のジニ係数、とくに当初所得のそれは、まっすぐ高まる趨勢にある、すなわち結果の不平等が進行しているということです。(P31)

当初所得とは、税金・社会保険料拠出前、社会保障(年金・医療・介護)受給前の所得(給与所得、事業所得、財産所得等)であり、再分配所得とは、税金・社会保険料拠出後、社会保障受給後の所得である。

グラフを見ると、当初所得ジニ係数は上昇一途であり、所得格差がますます拡大しており、それを再分配(税金・社会保険料、年金・医療・介護など)により、平準化しているように見える。

所得格差が拡大しているという点に関しては、

当初所得ジニ係数上昇の背景には、近年の人口の高齢化による高齢者世帯の増加や、単独世帯の増加など世帯の小規模化といった社会構造の変化があることに留意する必要がある。(平成26年所得再分配調査報告書 P7)

高齢者世帯の増加や、単独世帯の増加の影響で、ジニ係数が上昇しているのであって、格差拡大を意味するものではない」と言われたら、何と言うのか。ジニ係数がどういうふうに作られているのかを知らなければ、ジニ係数を根拠に格差拡大を主張することはできないだろう。

 

いま10世帯の年間所得(当初所得)が、次表の通りであったとしよう。(3通りの分布を考える)

(図表1)世帯別所得分布(金額単位:1万円)

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問題は、この10世帯の年間所得に、どれほどの「格差」があると考えるか? である。(以下を読む前に、各自考えてみて下さい)

もちろん、それは「格差」をどう定義するかに依存する。ここでは、定量的な「所得」に限定し、質的な事柄を考慮しないことにする。

基準となるのは、「完全な平等」であり、そこからの乖離を定義することによって、格差とすることが考えられる。「完全な平等」とは、各世帯とも同一の所得となることである。分布Cで言えば、合計は3925万円なので、世帯1から世帯10まですべて392.5万円の所得であれば、「完全な平等」である。そこで各世帯について、この平均値(平等な所得)からの差異を考える。これを合計すれば(但しマイナスは相殺されるので絶対値とする)、分布Cの「格差」となる。計算すると、3414万円となる。同様に分布A,Bは、3734万円、3533万円となる。

だからといって、分布A,B,Cの順に、格差が縮小しているとは言えない(合計値が異なる)。そこで、まず合計を1(100%)とする構成比を求めることによって、比較可能とする。次表のようになる。

(図表2)世帯別所得構成比

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例えば、世帯9,10の合計構成比は、A:50.4%、B:52.9%、C:56.4%となっている。何となく格差が拡大しているように感じるが、全体としてはどうか。グラフを描けば、直観的に明確になるのだが、もう一つ準備が必要である。いま分布をA,B,Cとも10世帯としたが、一般に調査対象は同一数になることはない。そこでこちら[世帯数]も、最大値1、最小値0になるようにする。上の例では、1世帯毎のデータなので、いずれも構成比は0.1である(合計:1)。

これでグラフデータは出揃った。横軸は「累計世帯数」、縦軸は「累計所得構成比」とする。グラフは次のようになる。

(図表3)ローレンツ曲線

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これをローレンツ曲線という。所得分布A,B,Cをよく見てみよう。(大事なことを言い忘れたが、世帯は所得の低い順に並べてある)。「累計」の意味を確認しておきたい。例えば、分布Cでは、世帯6までの累計:0.6は全世帯の60%の意味、この時の累計所得:0.165は、所得合計の16.5%の意味である。即ち、世帯所得の低い順から60%の世帯で、全所得の16.5%しか占めていないということである(完全に平等であるべきだとすると、60%をしめていなければならない)。

ここで、均等分布線(=「完全平等」な所得線)からの乖離(=格差)に着目すると、明らかに、A→B→Cの順に乖離(格差)が拡大している。では、全体としてはどうか。直観的に明らかなように、均等分布線とローレンツ曲線で囲まれる部分(これをカップ*1と呼ぶ。私の命名)の面積が大きいほど、格差が大きい。

(図表4)カップの面積

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カップの面積(格差)は、△OAPからOAP(色塗りしていない部分:L)を引いたものである。Lの面積は、台形の面積の合計で計算できる。図表3 ローレンツ曲線の一部を切り出し(図表5参照)、

(図表5)面積の計算

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0.6-0.7間の台形の面積を計算すると、0.6の所得累計値:0.165、0.7の所得累計値:0.28、高さ:0.1(=0.7-0.6)なので、面積は、(0.165+0.28)*0.1/2=0.02225となる。Lの面積は、このような台形の面積を、合計すれば良い。分布Cのローレンツ曲線では、0.21464となる。

次にカップの面積であるが、△OAPの面積は0.5(=1*1/2)なので、0.5-0.02225=0.28536となる。

このカップの面積が△OAPの面積のどれだけの割合を占めているかというと、0.28536/0.5=0.57073である。(ちなみに完全平等では、0/0.5=0であり、完全不平等では、0.5/0.5=1である)。この数値がジニ係数と呼ばれる。

即ち、ジニ係数とは、△OAPに占めるカップの割合である(図表4参照)。カップが大きければ大きいほど、不平等が大きいということである。

分布Aのジニ係数は、0.49847、分布Bのジニ係数は、0.53172である。分布Cのジニ係数は、いま見たように、0.57073である。このジニ係数の数字を聞いただけでは、不平等の度合いがピンとこないだろうが、図表3のようなローレンンツ曲線を思い浮べれば良い。ジニ係数0.5であれば、ローレンツ曲線は図表3の青線のようになる。

なお図表1の世帯別所得分布A,B,Cは、厚労省の「所得再分配調査報告書」の「所得再分配による十分位階級別所得構成比の変化」と「平均当初所得額」から算定したものである。分布A:H14年(2002年)、分布B:H20年(2008年)、分布C:H26年(2014年)である。ジニ係数はほぼ等しくなっている。

 

長くなったので今回はこのあたりでやめておこう。

*1:余談だが、AカップよりBカップ、BカップよりCカップが望ましいわけではない。単純に「サイズ」だけで、「望ましさ」が決まるわけではない。