柏木博『デザインの教科書』(3)
柏木は、デザインを考える4つの視点を挙げていた。(1) 心地良さという要因、(2) 環境そして道具や装置を手なづける、(3) 趣味と美意識、(4) 地域・社会 である。
視点4 地域・社会
人々は、生活する地域に特有のデザインを生みだしてきた。民俗的な衣装から住まいのデザインに至るまで、その特徴を見ることが出来る。韓国や中国の民族衣装と日本の着物とは、相互に何らかの影響関係の歴史があるとしても、やはりその違いは歴然としている。文字の書体にも、大きな宗教的建築物にも、それぞれの違いを見ることが出来る。それは、集団の文化がデザインに反映されてきたためだと言えるだろう。
こうした地域性を排除し、インターナショナルなスタイルをデザインしようとしたところに20世紀のデザインの特性がある。…デザインの社会性ということでは、地域や民族性のほかに、デザインはつねに職業や階級を鮮明に差別化するために使われてきた歴史がある。衣装から家具そして住まいのデザインにいたるまで、支配階級と被支配階級の差別化がなされてきた。
この説明で、①デザインはつねに職業や階級を鮮明に差別化するために使われてきた、②20世紀のデザインは、インターナショナルなスタイルをデザインしようとした、という部分が、教えられるところである。
社会との関わり
かつて近代以前の社会においては、デザインは複雑な社会的制度(階級や職業など)と結びついていた。どのような衣服を身につけ、どのような食器や家具などの日用品を使い、どんな住居に生活するのか。これは自由に選択することはできなかった。衣服やもののデザインは、社会的なシステムを可視化したものであった。つまり、職業や階級の制度の記号としてデザインを使ってきたのだ。人々は、日々、自らの衣服やもののデザインによって、自分の職業や階層を確認しているのであり、したがって、それを捨て去ることは、時として制度(システム)への暗黙の異議申し立てとなる可能性を持っていたのである。
デザインと言わずとも、衣服や食器や家具などが、職業や階級の制度の記号であること、そして日々それを確認していること、それは過去の話ではなく、21世紀の現代においても連綿として継続している。衣服や食器や家具などは、時間とカネの関数でもある。
儀礼に関する規則とともに、デザインに関する禁制は、権力による制度とシステムを可視化する機能を持つがゆえに極めて重要なことであった。デザインの持つ重要性のひとつは、目に見えないシステムや関係を目に見えるものにする、つまり可視化するところにあるとも言える。
衣服や食器や家具などを見る。だがそこに、「目に見えないシステムや関係」を見ることが出来るか。衣服や食器や家具などに対して、「それは私(たち)にふさわしい/ふさわしくない」と感じるならば、制度やシステムについて言語化できなくても、「制度やシステムを可視化している」と言っても良いかもしれない。
ヨーロッパにおいては、18世紀のフランス革命、そして19世紀に及ぶいわゆる産業革命を通して、以来、デザインはそれまでの制度から解放されていくことになる。それは社会全体が新しい機構と組織を形作っていくことと関連していた。…デザインは古い社会的な制度から市場経済のシステムに委ねられた。…例えば、経済的に許されるのであれば、それまで暗黙のうちの複雑な社会的制度としてあった職業や階級に関わる消費は一気に飛び越えられるということになる。
デザインがそれまでの制度から解放されるという側面があったとしても、今度は市場原理に服するようになったと思うのだが、どうだろうか。おそらく、この後説明があるだろう。
続いて、第2章 20世紀はどのようなデザインを生んだか である。柏木は、近代デザインの特徴を4つあげている。(1)見積もりのエンジニアリングから量産システムへ、(2)デザインによる生活様式の提案、(3)デザインの普遍性・インターナショナリズム、(4)消費への欲望を喚起するデザインである。
(1)見積もりのエンジニアリングから量産システムへ
デザインが、衣服や食器や家具などから、鉄道、自動車、住宅などにも関係するものだとすれば、市場経済下にあって、「20世紀のデザインでは、時間や経費を含む経済的見積もりが必ず前提にされた」のは当然であろう。
フォードのT型モデル(1908年発売、1927年まで約1500万台生産された)は有名である。
フォードの出現によって、社会全体もまた巨大な生産システムとして組織されたと言えるだろう。労働作業を単位に区切り、平均時間に割り付けるフォードの方法は社会の時間を決定していった。…更に言えば、社会生活の商品化と、新たな消費システム(消費社会)をつくり出したのである。…この大量生産と大量消費のシステムこそ、20世紀の世界を覆っていったシステムであった。…フォードによるシステムは、単なる生産に関わるシステムである以上に、20世紀を支配したシステム=イデオロギーであったと言っていい。
個々人の日々の生活を支えている巨大な生産・消費システムと、個人主義・自由主義の思想の共存に思いを致さねばならない。
住まいの領域でも、またフォードのシステムが使われた。例えば、ウィリアム・レヴィットは、1947年、建売住宅の生産にフォードの量産システムを導入し、アメリカの郊外住宅を次々に生み出していった。
レヴィット・タウン(郊外住宅)の話題は、興味がないこともないがパスする。(量産システムが一概に悪いわけではない)
(2)デザインによる生活様式の提案
近代デザインの出発は、誰もが他からの強制を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由にデザインを使うことができるのだ、という前提を一つの条件にしていた。…どのようなデザインのものを手にするのも、経済的に許されるのであれば自由だということになる。つまり、デザインは社会的制度から市場経済のシステムに委ねられたということも出来る。また他方では、モダンデザイン、そしてとりわけ20世紀のデザインは、かつての制度によって規制されていた生活様式とデザインに代わりうる総合的なデザインの原理を示す必要があった。つまり、新しい生活様式とデザインを提案することをテーマにしなければならなかったのである。
この提案の例として、バックミンスター・フラーの「ダイマクションDymaxion」などが挙げられているが、パスする。
(3)デザインの普遍性・インターナショナリズム
冒頭の、視点4 地域・社会で述べられていた「こうした地域性を排除し、インターナショナルなスタイルをデザインしようとしたところに20世紀のデザインの特性がある」に対応する話である。
「普遍性(ユニヴァーサリズム)」や「インターナショナル」なものを実現しようとしたこともまた20世紀のデザインに特徴的なことだ。例えば、ニューヨークのマンハッタンのグリッド計画は、古代都市のグリッド計画と似てはいるが、それは全く異なったものである。マンハッタンのグリッド計画は都市に特権的な区域をつくることなく、どこの場所も同じ価値にするという均質空間を構成しようとする考え方を反映している。
ここでいうマンハッタンのグリッド計画とは、ニューヨーク市が実施した「1811年委員会計画*1」のことではないのだろうか。また方格設計は昔から各地にあったようだが…。(wikipedia、1811年委員会計画、方格設計 参照)
また、ナチスの力から逃れるためにドイツからアメリカに移った、バウハウス*2最後の校長・建築家のミース・ファン・ローエ[1886-1969]は、箱状のユニット化された均質空間を基本にしてそれを横に連続させ、縦に積み重ねていく「ユニヴァーサル・スペース」(普遍空間)という概念を提案している。横にも縦にも箱状のスペースが連続していくというものだ。ミースのユニヴァーサル・スペースという考え方は、多くのバウハウスのデザイナーに共有された考え方だった。例えば、バウハウスの初代校長ヴァルター・グロピウス[1883-1969]の積み木型の住宅の提案、あるいはマルセル・ブロイヤー[1902-1981]のユニット・システムの家具の提案にも共通したものを見ることができる。ユニヴァーサル・スペースという概念は20世紀の建築、デザインに支配的なものとなっていった。バウハウスに代表される20世紀のモダンデザインは、地域性や民族性や宗教などのヴァナキュラーな条件に原理を求めるのではなく、機能や構造などの人工的な概念によって普遍的(ユニヴァーサル)なデザインを実現しようとした。(P58)
<ダイニングチェア>(デザイン:マルセル・ブロイヤー)
定価:¥189,000 https://flymee.jp/product/11065/
グロースジードルング・ジーメンスシュタット(ヴァルター・グロピウス他)
現代の目からみれば、何の変哲もない集合住宅だが…
ベルリンのモダニズム集合住宅群は、ユネスコの世界遺産リスト登録物件の一つで、ドイツの世界遺産としては、「ヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群」や「ツォルフェアアイン炭鉱業遺産群」の第12採掘坑などに続く、モダニズム建築の世界遺産である。対象になっているのは、ベルリンにある6つの集合住宅(ジードルング)である。…集合住宅は公的な要請に基づいて建てられたものであり、社会権を世界で初めて制定したヴァイマル憲法に見られるような、当時の低所得者層に関する生活環境改善が背景にあった。実際の設計や建築に当たったのは、バウハウスの初代校長ヴァルター・グロピウスのほか、 ブルーノ・タウト、マルティン・ヴァグナー、ハンス・シャロウンといった当時の代表的な建築家たちであり、新しい建材やデザインによって衛生的で快適な住宅作りが進められた。(wikipedia、ベルリンのモダニズム集合住宅群)
これらは全て1913年から1934年にかけて建設された住宅団地で、第一次世界大戦からヒトラーのドイツ国家元首就任の時期に起こった住宅不足に対する対策として、都市計画家であり建築家のブルーノ・タウトや、バウハウスの初代校長ヴァルター・グロピウスなどが携わりました。そのコンセプトはキッチン、バス、バルコニーが付き、庭はありませんが十分に外気や光が取り入れられ、機能的かつ実用的な間取りでしかも割安な住宅というものです。そんな機能美を追求したジードルング建築は、その後の社会主義的住宅建築や都市景観に多大な影響を与え、今日では、シンプルなデザイン建築として高く評価されています。(OTOA、http://www.otoa.com/support/city_ns_detail.php?area=I&country=DE&city=BER&ns=1&code=14094)
集合住宅の設計や建築に、当時の代表的な建築家が携わったというのは興味深い。過剰な装飾を排し、差異を強調せず、シンプルな「機能美」を追求するというのは、ひとつのコンセプトであろう。
コミュニティ http://sumai.nikkei.co.jp/edit/rba/house/detail/MMSUa6000024122014/
シーグラム・ビルディング(ミース・ファン・ローエ他)
シーグラム・ビルディングは、ニューヨークのミッドタウン、52丁目と53丁目の間のパーク街375号にある超高層建築物である。1958年に、シーグラムのアメリカ本社ビルとして、ミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンの設計によって建設された。(wikipedia、シーグラム・ビルディング)
面白い話がある。
建築家の選定を委任されたランバート(当時のシーグラム社長ブロンフマンの娘。イエール大学で建築学を学んだ)は、「二ヶ月半に及ぶ探索の間に、現代を洞察して技術を詩にまで高めた人物こそミース・ファン・デル・ローエであることがますます明瞭になった。」と結論づけた。フランク・ロイド・ライトは素晴らしいが思潮錯誤であり、ル・コルビュジエはアメリカに大きな影響を与えることができなかったと評定を下した結果だった。当時ニューヨーク州で建築家として登録していなかったミースは、このビルのためにフィリップ・ジョンソンに協力を要請した。…オフィスの内部空間は仕切りのないフロアが続いており、用途に合わせ自由に仕切れるよう意図されていた。外観はガラス窓とブロンズの枠が繰り返されるデザインだった。このビルや、インターナショナルスタイルという様式はアメリカの建築に大きな影響を与えた。この様式の特色のひとつは、建物の構造を外に出して表現することだった。…(以下、略)(同上)
ミース・ファン・ローエが提唱する「ユニヴァーサル・スペース」とは何か。
均質空間…床および天井と、最小限の柱と壁で構成される、どのような用途にも対応できる空間。…必要に応じて、間仕切りや家具を配置することで、いかなる用途にも対応できるようにつくられた空間は、「ユニヴァーサル・スペース」と呼ばれ、《ファンズワース邸》(1951)、《イリノイ工科大学クラウンホール》(1956)、《シーグラムビル》(1958)などで実現された。ミースは、空間の使い方は利用者に任されるべきで、建築により規定するべきではないとの考えから、ユニヴァーサル・スペースの正当性を主張した。実際、オフィスビルにおいては、ミースが「事務所の組織に従って分節された明るくて広い空間によって、最大の効果を得る」と言うように、その平均性・均質性から、世界中に伝播し、現在のオフィスビルのモデルとなった。(有山宙、Artwords)
ファンズワース邸 (ミース・ファン・ローエ)
https://ishirabe.com/farnsworth-house/ に、詳しい説明と写真あり。
*1:1811年委員会計画…「グリッドプラン」と呼ばれる方格設計の最も著名な実行例。ニューヨーク市マンハッタンのハウストン通り以北における街路網の原案で、今日のマンハッタンに配置されている無数に連続した短冊形の街区(方格設計)を定義した都市計画である。…策定した委員会によれば「美観並びに規則性と利便性」の結合を理念としている。(wikipedia、1811年委員会計画)
*2:バウハウス…1919年ドイツ国・ヴァイマルに設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校。また、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともある。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでのわずか14年間であるが、その活動は現代美術に大きな影響を与えた。(Wikipedia)