浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

リベラリズム ロールズ ハイエク ノージック

久米郁男他『政治学』(5)

今回は、第3章 自由と自由主義 第3節 福祉国家自由主義とその批判 である。

資本主義経済の発展は何をもたらしたか。

産業革命によってもたらされた本格的な資本主義経済の発展は、子どもや女性にまで及ぶ劣悪な労働条件の強制、貧富の差の拡大、都市への限度を超えた人口集中といった深刻な社会問題を発生させていた。

このような現実を目にすれば、「自由とは、強者の自由にすぎないのではないか」(社会主義思想)と思うのは自然の成り行きだろう。

彼らは、社会問題の解決のために、既存の経済構造を大幅に変革し、形式的な政治的平等を超えた経済的平等を達成する必要があると説く。

この点は、第5章で詳説されるようなので、そのときに考えよう。

 

リベラリズム

社会主義からの厳しい批判を受け、やがて自由主義を奉じる者の間にも、深刻な社会問題を放置することに対する反省の機運が高まるようになる。それは、一方では議会制民主主義の枠内で漸進的に社会問題を解決していこうという社会民主主義の流れに合流していく。しかし他方ではあくまでも自由主義に固有の論理で貧困や失業の問題を解決しようという思潮を生みだす。グリーン、ホブハウス、ホブソンといった第一次世界大戦前のイギリスで活躍した理論家の展開した「新自由主義」(new liberalism)がそれである。

上記のような社会問題を放置できないという共通認識があれば、「社会民主主義」とか「自由主義」とか、そういうラベル抜きに、「どうしたら良いか」の議論が可能なはずである。

新自由主義にとっての真の自由とは、まさに積極的自由と呼びうるものであった。グリーンは、自由主義の完成のためには、個人の自己実現と人格的成長を妨げる障害を国家が積極的に除去すべきだと主張する。具体的には、初等教育、保健、住居、土地、労働条件といった国民の生活の基本に関わることについては、国家の介入が是とされる。前世紀[19世紀]の自由放任をよしとする古典的自由主義が批判され、共同善のためには、国家によって個人の所有権や契約の自由に一定の制限を課すことがむしろ有効な場合がある、というのである。

言葉が紛らしい。今日、「新自由主義」を上のような意味で使うのは少ないのではなかろうか。

Wikipediaは次のように言っている。

新自由主義とは、政治や経済の分野で「新しい自由主義」を意味する思想や概念。日本では以下の複数の用語の日本語訳として使われている。

ニューリベラリズム(New Liberalism)。初期の個人主義的で自由放任主義的な古典的自由主義に対して、より社会的公正を重視し、自由な個人や市場の実現のためには政府による介入も必要と考え、社会保障などを提唱する。詳細は社会自由主義および社会的市場経済を参照。

ネオリベラリズム (Neoliberalism)。1930年以降、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきと提唱する。1970年以降の日本では主にこの意味で使用される場合が多い。(wikipedia新自由主義

 新自由主義という言葉は、1970年以降の日本では「ネオリベラリズム」の意味で使用される場合が多いということで、私もそういうふうに理解していたのだが、本書では①のニューリベラリズムの意味で、新自由主義と呼んでいる。政府の介入を是とし、社会保障を提唱するのであれば、wikipediaがいうように「社会自由主義」と呼んだ方が良いと思う。

 

19世紀的な自由主義の見直しの方向を更に決定づけたのは、資本主義市場と国家の公共政策との関係を大胆に見直そうとしたケインズの経済理論であった。…ケインズの考えは、ニューディール政策の理論的支柱となり、…そこでは安定した雇用の確保のみならず、富の再分配、教育・社会保障制度の充実といった福祉国家的な目的を達成するため、国家は相当程度の税収を確保し必要であれば市場に一定の規制を課さなければならないという立場がとられた。今日アメリカで、リベラルないしリベラリズムと言われる場合、それは自由主義一般というよりも、このような限定された立場をさすことが多い。

以上より、リベラリズム社会自由主義社会保障を重視する自由主義ネオリベラリズム新自由主義社会保障を重視しない市場第一主義者と理解しておこう。ここで、社会保障とは、「教育、保健、住居、土地、労働条件といった国民の生活の基本に関わることについて」保障しようというものである。

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続いて、ロールズ(John Bordley Rawls、1921-2002)の『正義論』(1971)が紹介される。ここでは本書に紹介されている考えについてコメントする。

正義の諸原理の中で、とりわけ人々の関心を集めたのが格差原理である。…(格差原理とは)もしも社会的に不遇な者にとって利益にならないような社会的・経済的不平等があるならば、それは政策的に正さなければならない、ということである。 

 社会的・経済的不平等がある、即ち「格差」があるならば、それは政策的に正さなければならない。言い換えれば、「苦しんでいる人がいれば、なんとかしてあげたい」という気持ちは自然な感情であり、そうであるならば、そのように振舞うべきであろうし、それはみんなで合意できるのではないかということなのである。他人が苦しもうが、死のうが、そんなことは私には関係ない、(と言わなくとも、)そのように行動する人は、何と言うべきか、(共に生きている)「人間」と呼ぶにふさわしいのだろうか。

 

横道にそれそうなので、元に戻るがロールズは次のように主張しているという。

才能に恵まれた者は、いわば偶然そのような才能を他の者よりも多く分配されたにすぎないのだから、自らの能力を己の私的利益追求のためだけに用いるべきではなく、不利な立場にある者の悲惨な状況の改善のために積極的にもちいるべきである。ロールズによれば、個人の才能は、社会全体の共通資産である。社会という一種の共同事業に参加するすべての市民は、この共通資産から適正な再分配を受ける資格を持つのであり、格差原理はそのための明確な指針である。

この主張は、何を言っているのか分からない。「才能」とは何か。「物事をうまくなしとげるすぐれた能力。技術・学問・芸能などについての素質や能力」(大辞林)とするならば、これがなぜ「社会全体の共通資産」なのか。なぜ全ての市民は、この共通資産から適正な再分配を受ける資格を持つなどと言えるのか。ロールズはもっと詳しい説明をしているのかもしれないが、これだけでは説得力はない。

自分が競争において、勝者になれるのか、敗者になってしまうのかについて、何の予測も出来ないと[仮定せよ]。ロールズによれば、このような不確定な状況で、分配のルールを決めようとするならば、人間は、勝利者になれば多くの分配が得られるが、敗者になれば大きく失うような分配のルールより、買っても負けてもさほど大きな差のつかない分配のルールを選択するというのである。…不確実な状況においては、つねに最悪の事態を想定し、リスク回避を優先する。ロールズはこういった行動パターンをマキシミン・ルールと呼ぶ。もしもロールズが主張するように、それが一般的な人間心理であるとするなら、そのような人間が最終的に格差原理に賛成するのは当然であろう。

単純に理解すればこういうことなのだろう。自分が勝てるか負けるか分からない競争においては、リスク回避を優先する。だが現実には、いくら「思考実験」だといっても、こういう競争を想定することは難しい。子どもの頃から競争にさらされ、競争には勝ち負けが厳として存在するということを、身に染みて知っている。そして勝者は名誉とカネを与えられる。原初状態や無知のヴェールなど、学者の空しい議論のようにも思えてくる。

 

リバタリアニズムによるリベラリズム批判

リバタリアニズムの代表的論者として、ハイエクノージックがとりあげられる。ここでもロールズ同様、本書の記述の範囲でのみコメントする。

(1)ハイエク(Friedrich August von Hayek、1899 – 1992、経済学者、哲学者)

ハイエクは、著書『隷従への道』(1944)において、社会主義ケインズ主義を生みだすに至ったそもそもの思想的基盤を問題にするに至る。それが「計画主義的思考」、すなわち社会を何らかの計画に基づいて合理的にコントロールしようという思考である。ハイエクによれば、デカルト以来の近代合理主義が生み落とした計画主義的思考は、本来歴史過程において自生的に形成されてきた秩序(「自生的秩序」)をいたずらに破壊し、上から一元的な価値を押し付けることで、人間の多様性や自由を抑圧してしまう。 

 物事をデタラメにではなく、計画的に為そうとする「計画主義的思考」が、私たちがよく話し合った上での計画(いつ何をするかのプラン)であるならば、それが「上から一元的な価値を押し付ける」ことにはならないことは言うまでもない。それが「人間の多様性や自由を抑圧してしまう」というのは、独裁と混同している。

ここで言う自生的秩序とは、様々な人間の予期せぬ自由な行動が複雑にからみあった結果としていつのまにか成立し、それ自体が一定の自律性や規則性をもって機能するにいたった、そのような秩序である。自生的秩序は、個々の人間や集団が何らかの意図を実現するために意識的・計画的に作り出した秩序よりはるかに精妙で、文明の真の進歩を支えてきた。

この「自生的秩序」がどういうものか全く意味不明である。アメリカという国は「自生的秩序」なのだろうか。ソ連(ロシア)という国は「自生的秩序」なのだろうか。「様々な人間の予期せぬ自由な行動が複雑にからみあう」とは、どういう事態をさしているのか全くわからない。それがどうして「一定の自律性や規則性をもって機能するに至る」のか全くわからない。「自生的秩序は~文明の進歩を支えてきた」というが、革命と戦争の世紀をどう評価しているのか。

具体的には、言語や慣習法や伝統および市場が、典型的な自生的秩序である。市場もまた自生的秩序であると主張することで、ハイエクは、市場の失敗を人間の意図的なコントロールによって克服しようという一切の試みが、無益でありかつ本質的に危険であることを示そうとしたのである。

ハイエクは「市場の失敗」を認識していたのだろうか。「市場の失敗を人間の意図的なコントロールによって克服しようという一切の試みが、無益である」というのなら、「市場の失敗」を放置せよというに等しい。

政府による市場介入を厳しく批判したハイエクの議論は、福祉国家建設に人々の関心が集中していた戦後のしばらくの間、あまりにも「反動的」であるとして傍流に押しやられていた。だが1970年代以降、福祉国家の行き詰まりを打開しようとする論者に再発見され、リバタリアニズムの成立に決定的な影響を与える。

「反動的」であるというだけでなく、全くナンセンスな議論であるように思われる。リバタリアニズムハイエクの系譜にあるとするなら、これまた反動的でナンセンスな理論であると予想させる。

(2)ノージック(Robert Nozick、1938 – 2002、哲学者)

その一方で、ロールズに直接刺激されつつ、福祉国家自由主義を批判する議論も登場する。ノージックによる『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)がその代表であろう。ノージックは…20世紀になって展開された福祉国家自由主義を、自由主義の本質からの逸脱であると断じる。(P68)

ノージックによると、人がある財に対して権利を持つのは、その財が正当な手続きによって獲得されたか、もしくは正当な手続きによって移転されたものである場合のみである。そのような正当な所有物に対し、人々はそれを思うがままに処分する絶対的権利としての「権原」を持つ

 所有権に関して言えば、①正当な手続きによる獲得、または②正当な手続きによる移転であれば、正当な所有物であると言って良いと思われる。不当な手続きによる取得及びその移転、不当な占有による取得及びその移転の場合の権利関係はどうあるべきか。相続財産が、親の詐欺等による取得物であったなら、相続人は所有権を主張できるのか。とりわけ、「土地」が問題である。先祖代々の土地が、その先祖が他人を殺害して得たあるいは詐取した土地であったならば、「正当な所有物」といえるのか。

正当な所有物であれば、「処分権」を有するのか。それは「所有」の定義(取り決め)次第であろう。利用(使用)権は認めるが、処分権を認めないライセンスのようなかたちもある。土地をコミュニティからライセンスされているものとみなすことも可能だろう。

例えばアーティストは、自分が制作したCDの売上高に対して、応分の「権原」を持つ。これがノージックの考える所有権の実体であり、それは政府といえども侵害できない絶対的な権利である。

言葉遣いが気になる。権原とは、

ある法律的あるいは事実的な行為をすることが法律上正当とされるための根拠となる原因。たとえば,ある土地の上に樹木を植栽する場合,植栽者が土地の所有権者であること,または土地の利用権者 (地上権や契約に基づく賃借権などをもつ者) であることは正当な権原である。権原に基づかないで他人の土地に植栽した樹木については,植栽者は自己の権利を主張しえないし (民法 242) ,また場合によっては土地の不法占拠者とされることがある。(ブリタニカ国際大百科事典)

という意味であるとしたら、上の文章は理解できるだろうか。「応分の権原」とは何だろうか。少し前の文章で、「そのような正当な所有物に対し、人々はそれを思うがままに処分する絶対的権利としての権原を持つ」というのがあった。それは所有権を処分を含めて規定している(取り決めている)からであって、そのように取り決めなければ、所有権があるからといって、自由に処分することはできないはずである。

CDがアーティストだけで制作できないことは言うまでもない。「応分の」権原とは何だろうか。アーティストは、契約により一定の対価を得るが、これが「所有権」と何の関係があるのだろうか。ルールに基づき、アーティストの取り分が決められているのだとしたら、ここで何故「政府が侵害する」などということを想定しなければならないのか。

そこで問題となるのは、福祉国家が課税という形で、勤労収入の一部を他の人間に強制的に移転することの是非である。ノージックはそのような移転には何の正当性もないと断じる。課税を通した所得の再分配とは、その人の労働の成果の一部を巧妙にかすめ取るという点で、強制労働と何ら変わることのない個人の尊厳の著しい侵害である。

「課税」を、「勤労収入の一部を他の人間に強制的に移転すること」とか、「移転には何の正当性もない」とか、「労働の成果の一部を巧妙にかすめ取る」とか、「強制労働と何ら変わることがない」とか、「個人の尊厳の著しい侵害である」とか、いったい「民主主義国家における税金」がどういうものであるのか理解しているのだろうか。

先ほどのアーティストの立場から見れば、自分が同意もしていないのに、いつの間にか、苦労して制作したCDの売上代金の一部が見も知らぬ他人の財布に入ってしまうということに等しい。

アーティストは契約に基づく収入を得る。アーティストは、収入から経費を差し引き所得を計算し、所得税を支払う。国等は、所得税やその他の税金から、いろいろな財政支出をする。法律に基づく、このようなカネの流れに対して、「自分が同意もしていないのに」とか、「売上代金の一部が見も知らぬ他人の財布に入ってしまう」とか言っても、中学生でもごまかされないだろう。

また、仮にロールズ的な格差原理に基づいて政策的に所得の再分配がなされたとしても、分配された所得を各人が自由に移転することができなければ、そのような再分配政策は意味をなさなくなるであろう。お気に入りのアーティストのCDを購入するファンは、その代金の一部が本人の手に渡ることも望むのであって、それが他の人間に勝手に移転されることには納得がいかないはずである。政府による課税とはまさにそのような勝手な移転の強制にほかならず、その意味で、アーティストの「権原」のみならず、ファンの「権原」をも侵害しているのである。

分配された所得を「移転する」とはどういう意味なのか分からない。また「お気に入りのアーティストのCDを購入するファンは、その代金の一部が本人の手に渡ることも望む」などとわけの分からないことを言って、「政府による課税とはまさにそのような勝手な移転の強制にほかならない」と言っても、何ら説得力がない。しかも、ファンの権原を侵害しているとは、全く意味不明である。

国家は、生命や契約や所有権に対する個人の権利を防衛するというごく限定的な役割のみを果たせばよく(「最小国家」)、福祉国家が提供してきた一連の公共サービスは、もしそれに類するものが必要であるなら、各人が任意に加入する民間の組織で十分代替可能であるというのである。

「教育、保健、住居、土地、労働条件といった国民の生活の基本に関わること」に、私たちは何らのルールも定める必要はないというのだろうか。「限定的な役割のみを果たせばよい」というが、既存のルール(法)で不要のものがあるということなのか。なぜ限定的な役割が望ましいというのだろうか。本当に公共サービスが民間組織で代替可能なのだろうか。民間組織とは、「営利企業」である。社会保障(医療、年金、雇用、災害補償、介護、児童手当、公的扶助、社会福祉、公衆衛生など)を、「営利企業」が行うことが望ましいと、本気で考えているのだろうか。

ノージックの議論は、国家とは、個人の不可侵の権利を保護するという究極目標のための手段であるという、自由主義的な国家観を極限にまで突き進めたものである。彼が理想とするのは、多様な価値観をもつ完全に独立した個々人が、自らが選んだライフスタイルを自由に追求することのできる社会である。そこでは、全ての人間が自分の人生を生きることができ、誰かのために犠牲になったり、他人の幸福実現のための手段とされてしまうということがない。 

 私たちは、社会をなして共に生きているのであり、「完全に独立した個々人」というのはありえない。「自らが選んだライフスタイルを自由に追求する」ことはありえないし、そんなことは望ましくもない。自分の人生が、他者のために犠牲になったり、手段にされるべきでないのは当然であるが、だからといって、自分さえ良ければそれで良いというものではない。「独立した個人が自由に選択する」とか、「国家の機能を限定的なものにする」とかいうのは、既存の社会体制の中で、力ある者が、自分(とその仲間)さえよければそれでよい、ということを尤もらしく言い換えたものに過ぎないように思われる。

この点で、ノージックロールズの格差原理を批判する。ノージックによれば、格差原理を実質的に支えているのは、社会を構成する個々のメンバーの才能を社会全体の共通資産とみなすロールズの基本的発想である。このような発想は、個人間の相違や独立性をいたずらに無視し、才能ある者や人並み外れて努力する者を他人の福祉のための手段の位置に貶めてしまう。それは、単にフリーライダーの存在を許すという点で問題なのではない。各人が自分の個性を思う存分伸ばすことを妨げるという点でより深刻なのである。

ロールズは本当に「社会を構成する個々のメンバーの才能は、社会全体の共通資産である」とみなしているのだろうか。そう言っているとしても、それはどのような意味においてか。「個人間の相違や独立性をいたずらに無視」しているのだろうか。逆にノージックは「個人間の相違や独立性をいたずらに強調」しているのではないか。

社会的・経済的不平等がある、即ち「格差」があるならば、それは政策的に正さなければならない。言い換えれば、「苦しんでいる人がいれば、なんとかしてあげたい」ということが、「才能ある者や人並み外れて努力する者を他人の福祉のための手段の位置に貶めてしまう」ということになるのだろうか。「才能ある者や人並み外れて努力する者」は、他者がどれほど苦しんでいようと知ったことではない、と主張しているように聞こえる。

ノージックロールズの対立をどのように見るべきか。実のところ、ロールズノージックも、各人が自由に自分の人生の目的を追求できる社会を理想としているという点では、さほど大きな違いはない。両者の相違は、もっぱら個人の自由と権利とがより良く保障されるために必要な条件は何かということについての認識の相違に根差す。即ち、ロールズがすべての人間が実際に自由を享受できるためには、ある程度の経済的・社会的平等が必要であると考えるのに対し、ノージックは不平等の是正の仕方によっては、肝心の個人の自由に対する著しい侵害が起きかねないことに警告を発するのである。その意味では、この二つのタイプの自由主義を、それぞれ、平等主義的な自由主義リバタリアン的な自由主義と呼ぶことも出来る。

ロールズノージックに大きな違いがないのかどうか知らないが、本書でみた限りでのノージックの議論は、とりあげるに値しない粗雑な議論と思われる。

アメリカの実際の政治過程において、ロールズの議論が1970年代の民主党の政策を側面から支援する機能を果たしたように、ハイエクノージックの議論は、80年代の共和党政権の新保守主義的改革に示唆を与えた。80年代以降今日に至るまで、社会的・経済的平等に重点を置く福祉国家型の自由主義と、個人の選択の自由を強調する自由主義との間の対立は、多くの先進諸国における主要な政治的争点の一つとなった。日本においても、自民党・中曽根政権のころから、責任ある強い個人を高く評価し、規制緩和による自由競争の導入を訴える勢力が台頭し、この対立軸が次第に現実味を帯びたものになった。

ハイエクノージックの議論が上述のようなものであれば、とりあげるに値しないが、1980年代以降の世界の大きな潮流の一つになっているらしいので、コメントした。(ハイエクノージック本人は、もう少しまともな議論をしているのではないかと思うが、彼らの著作を読んでいないので、何とも言えない。しかしこの紹介を読む限り、彼らの著作を読む気にはなれない)