浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

貧困とセーフティネット 生活保護とスティグマ

久米郁男他『政治学』(6)

今回は、第4章 福祉国家 第1節 福祉国家の政策レパートリー である。

病気、老後の不安、失業、子育て等にどう対処するのかという話である。「そんなもの、関係ない」などと思っていると痛い目に合う。

本書は、福祉国家が提供する社会保障政策を、機能面から、所得政策、医療保障、社会福祉サービスに3分類している。また給付方式に注目して、公的扶助、社会保険、社会扶助に分類している。

公的扶助

生活に困窮して今日の暮らしもままならない人を無償で救う仕組みである公的扶助方式は、人類の歴史と同じくらい古い。…しかし、近代以前においては、地域社会や、教会やお寺の慈善活動、あるいはギルドのような社会集団によって担われることが多かった。その伝統は今日のボランティアに通じる。この種の扶助を国家が肩代わりしていくことが福祉国家への第一歩であった。

こう問うてみよう。(1) もし私(と家族)が、生活に困窮して今日の暮らしもままならないとしたら、どうしたら良いのか? 誰かに助けを求めるか。自殺(一家心中)するか。どういう選択肢があるのか。(2) もし身近に、生活に困窮して今日の暮らしもままならない人がいたらどうするか? 支援するか、見てみぬふりをするか。(3) 地域社会が支え合い/助け合いの機能を失い、教会やお寺が冠婚葬祭の場でしかなくなったことを認めるなら、「生活に困窮して今日の暮らしもままならない人」にどう対処すべきなのか。

 

詳細検討は「今後」ということにして、ごく簡単にみておこう。公的扶助とは、

健康で文化的な最低限度の生活を維持しえない生活困窮者に対して,国家がその責任において行う扶助制度。その財源はもっぱら税金その他国および地方公共団体の一般収入によってまかなわれ,受給権者に拠出義務はない。ただ法定の最低生活水準に達していないことが給付の要件とされているため,それを確かめるために資産調査 (ミーンズ・テスト) が行われる。日本の公的扶助に関する立法としては生活保護があげられる。(ブリタニカ国際大百科事典)

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https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20160719-OYTET50002/

生活保護法については、いずれとりあげる。…憲法で、「健康で文化的な最低限の生活を営む権利」(生存権)が保障されているからといって、セ-フティーネットがうまく機能しているかどうか分からない。資産調査 (ミーンズ・テスト、means test)が問題含みである。

ミーンズ・テスト…資力調査。生活保護を申請した者に対して行われる調査をいいます。国による最低限度の生活水準を定め、それに資力が不足する分だけを補足するという生活保護の基本的考え方において、ミーンズ・テストは申請者の収入や資産、扶養義務者の状況などを詳しく調査するという位置づけにあります。しかし、これが申請者にスティグマ(貧困の烙印)を与えがちで、抑制的な効果を発揮してしまうことに問題点があるといわれています。また日本のミーンズ・テストの要件は西欧諸国に比べて厳しく、扶養義務者の範囲が広いことなどが、生活保護率の極端な低下に繋がっているとする指摘もあります。(http://www.kaigo110.co.jp/word/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88

スティグマとは「個人に非常な不名誉や屈辱を引き起こすもの」である。ギリシャ語で、奴隷や犯罪者の身体に刻印された徴(しるし)の意である。

 

本書は、エリザベス救貧法(1601)について、次のように述べている。

そこには、人道的考慮だけでなく、放置すれば社会的混乱の種となる貧民を国家が管理し、治安という公共財を提供しようという意図も含まれていた。

wikipediaは、次のように述べている。

この救貧法現代社会福祉制度の出発点と評価される一方、法の目的は救済ではなくあくまで治安維持にあった。したがって貧民の待遇は抑圧的でありつづけ、懲治院は強制収容所・刑務所と変わらない状態にあった。ときには健常者と病気を持つ者を分け隔てなく収容し、懲治院内で病気の感染もおこった。こうした待遇から脱走や労働拒否を試みる貧民はあとを絶たず、一定の社会的安定をもたらす効果はあったものの、根治には至らなかった。(wikipedia救貧法

現代の「生活保護法」も、治安維持の側面があると言えるかもしれない。だがこの言葉は要注意である。貧困が一因となって、自暴自棄になり暴力行為や殺人を犯すようになるのを避けるということが、この言葉(治安維持)の意味するところではないか。だとすれば、貧民に対する態度が問題なのであり、懲治院のあり方が問題なのだと言わなければならないだろう。

しかし、より根本的には、貧民が生じてくる社会経済システムこそが問題である。「放置すれば社会的混乱の種となる貧民」というとき、事後的救済のみならず、「何故、貧民が生じるのか? 生じないようにするにはどうしたら良いのか?」を考えるべきであって、貧民救済というセーフティネットが張られていればよいというものではない。

 

もう一点、宗教改革との関連をみておかねばならないだろう。

貧民はいつの時代にも存在した。 しかし、宗教改革以前には救貧法は整備されていなかった。 カトリックの教義では、貧しいことは神に祝福されることであった。 例えば、12世紀のアッシジの聖フランシスは、 「乞食は神聖であり、聖者は乞食として生きるべき」と説いた。 また、慈善によって貧民を救済することは、慈善を与える側の魂の救済でもあった。 このような教義を支えていたのが、救貧システムとしても機能していた修道院であった。 つまり、行政的に貧民問題に対処する必要はなかったのである。

これに対して、プロテスタンティズムは貧しいことを否定的に捉えることで、 カトリックの貧民観・慈善観を一変させた。 なぜならば、プロテスタンティズムによれば貧しいことは怠惰の帰結であり、 神の救済から見放されている証拠となったからである。 そして、慈善は怠惰を助長させるものとして非難されるものとなった

1601年に制定されたエリザベス救貧法は、宗教改革の産物でもある。というのは、宗教改革によって貧民の救済機関であった修道院は破壊され、またプロテスタンティズムによって貧民救済が魂の救済と無関係となったために、行政的な問題として貧民問題に対処する必要が出てきたからである。(http://park.saitama-u.ac.jp/~yanagisawa/history00/poverty.html

いまでもプロテスタントは、貧困は怠惰の帰結と考えているのだろうか。いまでもカトリックは、慈善によって貧民を事後的に救済すればそれで良いと考えているのだろうか。「貧困」と言う「経済・社会問題」を、倫理の問題としてのみ捉えていては、いつまでも解決しないだろう。

「慈善」ではなく、「助け合い」の倫理でもって、貧困が生ずることのないような経済・社会システム(ルール・制度)を構想することが重要なことではないか。(とはいえ、慈善を否定するものではない)

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2012年7月3日、香港の俳優ルイス・クーが、貧困児童に教育機会を与える慈善活動を続けており、人知れず3年の間に中国に49校の学校を建てていたことが分かった。

http://www.recordchina.co.jp/b62705-s0-c70-p0.html