気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

概念法学と感情法学

平野・亀本・服部『法哲学』(46) 

法解釈の話を、六法全書に書かれている法の解釈に限定すべきではない。会社をはじめとする様々な組織における各種のルールをどう考えるかという話でもある。

今回は、第5章 法的思考 第2節 制定法の適用と解釈 第2項 解釈の技法 の続きである。

「勿論解釈」について説明があるが、これは「類推適用が当然と考えられる場合には、勿論解釈と言われる」(ブリタニカ国際大百科事典)と理解しておけばよいだろう。

「論理的解釈」についても、「法体系全体における法規の位置および法規と関連諸法規との関係といった法規の体系的連関を考慮しながら行う法解釈の方法。体系的解釈といってもよい。ある法規について複数の文理解釈が成立した場合に,それを限定するのに用いられる解釈方法の一つ」(ブリタニカ国際大百科事典)と理解しておけば十分だろう。

次に、「概念法学的客観説」が説明されている。

概念法学的客観説とは、…解釈学によって構成された概念体系を参照すれば法規の客観的意味が定まるという考え方である。

本書ではこれまで「概念法学」の説明がなく、これが「概念法学的客観説」だと言われても何のことか分からない。また、これは「解釈の技法」なのだろうか。これを読む限りでは、「法学者が構成した概念により、数学の真理のように、法規の意味が定まっている」と言っているように聞こえる。神学か?

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https://www.goodreads.com/book/show/23252517-the-law-of-moses

  

概念法学とはどういうものか。自由法論とあわせて見ておこう。長尾龍一の説明が明快でわかりやすい。

概念法学イェーリングの造語。19世紀ドイツ法学が、法の目的や社会の必要を無視して「概念の計算」に専心したことを揶揄したもので、その後一般に論理を偏重する法学を批判する言葉として用いられる。これに対して成立したのが「目的法学」「利益法学」「自由法学」などとよばれる学派である。しかし、逆の方向に行きすぎると、裁判が情緒的、恣意的になって、法的安定性が害される危険がある。この行きすぎた傾向は「感情法学」として批判された。「法の生命は論理ではなく、経験である」とは、アメリカの法学者ホームズのことばであるが、概念法学と感情法学の中間論理と経験の結合のうちに、法学のあるべき方向があるといえよう。

自由法運動…裁判官には法発見のために制定法からの自由を与えるべきだという自由法論に基づく法学上の運動。…そのうちの穏和な主張は、制定法はさまざまな幅の解釈を許容しているから、そのうちの何を選ぶかは裁判官の「自由な法発見によらざるをえない」と説く。過激な主張は、裁判官は判定法を超えても自由に法(正義)をみいだすべきであるとしているが、その場合には、法治国原理を揺るがす主張として「感情法学」などと批判されることがある。また、自由な法発見のためには社会に目を向けなければならないとして、法解釈に法社会学的研究を導入する主張もある。(長尾龍一日本大百科全書

ふ~ん。おかしな言葉だと思っていたら、概念法学とは蔑称だったのか。「観念論的な法学」、「融通の利かない法学」といったところか。(ここで観念論とは「現実に基づかず、頭の中だけで作り出した考え」の意)。

しかし、概念法学を肯定的に捉えるならば、「法解釈が、情緒的になったり、恣意的になってはいけない」ということである。自由に=勝手に解釈すべきものではない。憲法第9条を想起しよう。「制定法からの自由」といっても、制定法を無視して良いわけがない。

「概念法学と感情法学の中間論理と経験の結合のうちに、法学のあるべき方向がある」というのはその通りだろう。しかし、その「中間論理」とはどういうものか。必ずしも明確ではない。

 

歴史的解釈

制定時の立法の意味を明らかにしようと思えば、法文を読むことに加えて、法案起草者の理由書や立法過程の議事録などを参照して、更に立法当時の社会的・政治的・経済的状況を調査し、その中で立法者が特に何を問題にし、過去の法律に何を付け加え、何を変更しようとしたのかを十分に解明する必要がある。そのような作業を歴史的解釈または沿革解釈という。この種の作業は、時間を要する歴史学的営為であるので、裁判官よりも、むしろ法学者の任務である。歴史的解釈は、立法者意思説と結びつけて考えられることが多いが、適用時客観説をとる場合でも、立法時の意味の確定が必要、あるいは少なくとも有益であることは明らかであろう。また現時点での適法性または正当性を考える際には、当該法律の制定の背景や立法時の目的を知るだけでなく、それと直接間接に関連する他の法律・判例のその後の発展状況も考慮する必要がある。後者の考慮も広い意味での歴史的解釈の方法に属するものと考えてよいが、特に「社会学的解釈」と呼ばれることもある。

法解釈が別れる時、立法者の意思、当時の状況を参照することは有益だろう。但し、状況が変わっていると判断されるなら、立法者の意思に基づく法解釈がそのまま採用されるということはない。そうすると、「状況」の捉え方が問題となってくる。

とりあげられることは稀だが、歴史的解釈にはもう一つの理解もある。この解釈方法は、問題になっている解釈案とほぼ同様の法規範が過去に採用され実施されたことがある場合に限って利用できる。そうした過去の事例が成功例であれば、現在の解釈案の正当化の根拠となるし、失敗例であればその解釈案を却下する根拠となる。そのためには、比較されている両法規範の適用の状況が過去と現在とで、有意な点で異ならないということもあわせて立証される必要がある。この意味での歴史的解釈は、「比較的解釈」と呼ぶべき上位概念に帰属するものである。外国の法規範と自国の法規範を比較して、解釈の良し悪しを定める際にも、それと同様の論法が使用される。これは、比較法的解釈と呼ぶことができる。日本の法解釈学者は、学術論文の中でそのような論法を多用する。

法規範の適用の状況が、過去と現在とで、有意な点で異なるか異ならないかが論点になるだろう。

 

目的論的解釈

「目的論的解釈」と呼ばれるものは、現代では、ドイツの「利益法学」や我が国の「利益衡量論」をはじめとして、多くの法学者が最も推奨する解釈方法であるが、その内容は曖昧である。文理解釈や論理解釈に漠然と反対し、解釈における法規の目的の重視を説くだけのことも多い。目的論的解釈も、他の解釈方法と同様、「法文はその目的を考慮して読むべきである」とする文理解釈上のルールと解することもできる。そこでいう「目的」を、法律に明記してある目的に限定すれば制定時客観説に、「論理的に」導出されると言われる目的に限定すれば概念法学的客観説に、歴史的立法者の意図した目的と解すれば立法者意思説に、現時点での法規の客観的目的と解すれば適用時客観説に対応するものとなる。

目的論的解釈とは何なのか、この説明ではよく分からない。

目的論的解釈とは、法解釈の方法の一つで,ある法規について複数の文理解釈が成立しうる場合に,その法規の目的に最も適合した解釈を選択すること。論理解釈と対照的な性格をもち,合目的性の判断をするうえで,しばしば社会学的な知識が要求される。(ブリタニカ国際大百科事典)

こういう説明があって、「その法規の目的」が、「法律に明記してある目的」とか、「論理的に導出されると言われる目的」とか、いろいろあるというのであればわかる。いずれにせよ、「目的」を考えることは、極めて重要なことである。…ある法規について複数の解釈が成り立ち、議論しているとき、自説を主張しているだけでは平行線をたどるだけであり、このとき「目的」を考えることによって、解決をみることは多い。

他方、目的論的解釈を推論方法とみることもできる。その場合、目的論的解釈とは、法文の解釈にあたって、解釈者が採用する解釈がその法規の目的を実現するにふさわしいことを示す論法である。この場合、法規の目的を確定し、その目的と採用されるべき解釈との間の因果関係を証明する必要がある。

「目的と採用されるべき解釈との間の因果関係を証明する必要がある」というのは、「厳密な」因果関係を要求しているのだろうか。厳密な因果関係を要求される場合もあるかもしれないが、「目的」を明確にすれば、「その解釈は、もっともだね」となることが多いのではなかろうか。

法規の目的の確定に関しては、当該法規だけでなく、他の規定[法規]上位規範を参照することによって、あるいは法秩序全体から、当該法規の目的が引き出されると主張されることもある。いずれにせよ、何が目的であるかは、究極的には解釈者の判断による。

これは重要な指摘だろう。私は、法秩序全体というとき、国際法をも考慮に入れなければならないと思っている。

裁判や法律学においては、他の法律上の目的を侵害することの最も少ない解釈が選ばれるべきであるという制約(「比較原理」と呼ばれる)があるものの、目的実現と解釈との因果関係については、厳密な経験科学的吟味が省略されることが多い。

「厳密な経験科学的吟味が省略される」とは、何を言わんとしているのだろうか。

 

利益衡量論

法的な判断にあたって、対立する「利益」の比較衡量を重視する、わが国で有力な法解釈方法論である。…1960年代中頃から民法学者の加藤一郎と星野英一によって提唱され始めた民法解釈の方法論であり、現在もそれを支持する民法学者は多い。加藤は、具体的な紛争への法適用を念頭において、法規を度外視した利益衡量による結論が法規などによる理論構成に先立つというリアリズム法学的主張を展開した。これに対して星野は、具体的事件への適用以前の法学者による法解釈を念頭において、まず条文の文理解釈・論理的解釈・立法者意思の探求などによる暫定的結論の導出、次いで、その結論の具体的妥当性の利益衡量による検討を経て、結論の修正・変更という法解釈の手順を示した。星野はまた、利益衡量・価値判断にあたって依拠すべき自然法論的客観的価値秩序の存在を信じる一方で、利害対立状況の細かい分類を重視する。利益衡量論は、この類型化という手法を広めるのに与って大きな力があった。

利益衡量論の最大の問題点は利益概念の不明確さにある。「利益」とは、目的論的解釈における「目的」に相当するものと考えてよいが、その中には、人間の尊厳、取引の安全といった、極めて抽象的なものから、個人や団体の経済的・精神的な利益といった極めて具体的なものまでが含まれている。それらの多様で異質な利益をいかにして比較衡量するのかという問題に加えて、そのために必要な能力や資源を裁判所や法律学はどれほど備えているのか、という問題もある

1980年代後半に入り、民法学者平井宣雄は、いわゆる「第二次法解釈論争」の口火を切り、とくに法学教育上の有害性という観点から利益衡量論を批判し、「議論」に関する独自の理解にたって、「反論可能性」をよい法律論が備えるべき必要条件として提示した。

利益衡量論というのは面白そうなので、いずれ詳しくみてみたい。

加藤は「法規を度外視した利益衡量による結論が法規などによる理論構成に先立つというリアリズム法学的主張を展開した」のだとすると、とんでもないことを言う学者だと思うかもしれない。では「法規を度外視した」という修飾語を除いて読んでみたらどうか。現実には「利益衡量による結論」がどのようにして出てくるのかを考えてみたら、決して無茶苦茶なことを言っているのではないと気づくだろう(私は、法解釈論争がどういうものか全く知らないで言っているのだが…)。

 

ここではリアリズム法学についてWikipediaの説明が面白いので引用しておこう。

リアリズム法学を奉じる全ての学者に共通の見解は多くない。とはいえ、おおむね以下のような思想が共有されている。

  1. 裁判官は法令や判例の文言に忠実に従って判決を下すのではない。判決が下るまでのプロセスは機械的なものではなく、裁判官の有する個人的な嗜好や偏見が大幅に入り込んでいる。そのため、客観的には同じような事件であっても、裁判官のその日の気分により、正反対の判決が出ることがある。主唱者の一人であるフランクは、「訴訟の行方は裁判官が朝に何を食べたかで決まる」という、この理論を簡潔かつ的確に表す名言を遺している。
  2. 法学者は研究に社会学の視点を取り入れ、法の文面だけではなく、法の現実の運用を調査すべきである。従来から尊重されてきた法解釈学は、現実の法がどのように運用されているかを知るには無益である。法学は学際的でなければならない。
  3. 裁判官はまず直感によって判決の行方を決め、法文は自説の正当化のために後付けの根拠として援用する。法文を演繹して結論を出すのではない
  4. 法とは特定の目的を達成するための手段に過ぎない。法は国民が盲目的に服従するものではなく、様々な局面に応じて柔軟に変化する
  5. 裁判官は立法者が望んだ通りに法を解釈するのではない。裁判官自身が望む通りに法を解釈する。

リアリズム法学は、条文化・判例化された法と現実の法を峻別し、後者のみを本質的な研究の対象とする。また、いかなる法が素晴らしいかという理想ではなく、いかなる法が真に実存しているかという現実の面に着目する。そのため、学派にリアリズム(現実主義)の名が与えられている。リアリズム法学を奉じる学者の幾人かは、しばしば裁判官の中立性や公正性への不信を示す。他方で、主唱者のホームズをはじめ、「現実を法に合わせるのでなく、法を現実に合わせるべき」として、裁判官による柔軟な解釈を奨励もしくは歓迎する立場もある。(Wikipedia)

裁判官は神ではない。裁判官の公正性とはフィクションに過ぎない(フランク)のかもしれない。