気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

三つの国家観

久米郁男他『政治学』(9)

今回は、第5章 国家と権力 第1節 三つの国家観である。

近代国家の定義

本書は、近代ヨーロッパが生みだした近代主権国家に限定した場合の近代国家を次のように定義する。

第1に、国境というかたちで明確に区切られた固定的な領域を確保し、第2に、その領域内において一元的な法律の権威を確立し、その法律を制定し、強制するための排他的組織を備え、第3に、メンバーの間に言語・文化・民族に関して相当程度の共通性が存在することが、期待される組織のことである。

但し、詳細は第7章で説明されるようなので、ここではコメントしない。

本書は、ここで、国家と呼ばれる組織の特徴を客観的に解明するのではなく、国家が人間にとって持つ意味について、どのように考えられてきたかということ示す、としている。以下、国家についての3つの見方が説明される。(1) 自然的共同体としての国家、(2) 権力装置としての国家、(3) 契約による国家

 

自然的共同体としての国家

国家とは人間にとって自然で、また人間が人間らしく生活するために必要不可欠な共同体組織である。このような国家観は、とりわけ近代以前の社会においてしばしば見出される発想である。その極めて洗練した形態として、古代ギリシャのポリスにおける政治論をあげることができる。

本書によれば、アリストテレスは次のような主張をしているらしい。

[言語と理性を備えた]人間は、単に生まれながらに属する共同体に埋没することにあきたらず、共通の善、共通の正義という観念を共有する者同士と共同生活を送ろうとする。ポリスとはまさにそのような共同体に他ならず、そこにおいて人間は最高に人間らしい人間として完成されるのである。

「共同体」(コミュニティ)の概念は興味深いが、アリストテレスにまで遡って議論する必要があるとは思われない。正義論に関してアリストテレスを参照する必要があるのだろうか。本書の説明の範囲内では得るものはない。

 

権力国家観

人間を何らかの秩序の下で生活させようとするなら、そうするように強制しなければならない。そのために本質的に重要なのは、国家が独占する物理的強制力、即ち武力や暴力である。このような発想を権力国家観という。この立場において、権力(power)の本質は端的に実力(force)とみなされている。権力国家観は、人間が自律的に秩序を形成する能力を欠く、エゴイスティックな存在であるという人間観と裏表であることが多い。ゾーン・ポリティコン[政治的動物]的な人間観の後退が権力国家観を生みだしたと言っても過言ではない。

マキャベリの考えは論外とし、ヴェーバーの考えはどうであろうか。

むき出しの物理的強制力だけで安定した政治秩序が形成できると主張するまでに単純な議論だけが、権力国家論と呼ばれるわけではない。より洗練された権力国家観は、例えばヴェーバーの次のような議論にみてとれる。即ち、その有名な定義によれば、国家とは、「ある一定の領域の内部で、正統な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間の共同体」ということになる。ヴェーバーは、物理的暴力行使が被支配者の側からみて「正統」であるとみなされなければ、支配は安定しないと考えていた。しかしながら、国家の本質は、あくまでもそれが物理的暴力を独占的に保持しているというところにある。そうである以上、政治に携わる者は、国家の持つ暴力性をはっきりと自覚し、権力行使がもたらした最終的な結果に断固として責任を取る覚悟(責任倫理)を持たなければならないというのである。

ヴェーバーが「国家の本質は、あくまでもそれが物理的暴力を独占的に保持しているというところにある」というなら、それには全く賛同できない。物理的暴力とは、警察や軍隊のことである。これを独占的に保持して(誰が?)、国家(その実体は?)は何をしようというのだろうか。「政治に携わる者は、国家の持つ暴力性をはっきりと自覚し…」というが、この言い回しには違和感がある。「犯罪防止に刑罰(警察や軍隊)が必要である」、このことをもって、「物理的暴力行使」と呼ぶのは、適切ではない。

 

契約による国家

国家を、人間が何らかの目的を達成するために「契約」によって設立した人工的組織であるとみなす。…社会契約説は、国家の存在しない状態(自然状態)で人間はどのように行動するか、ということを推論するところから始まり、人間が必要に駆られて何らかの国家を設立するに至る過程を論証する。

契約とは「取り決め」であり「約束事」であって、契約書を交わすわけではない。

ホッブスによれば、人間は自己の生存に有利のことを欲求し、そうでないものを嫌悪するという単純な原理によって行動する感性的な存在である。

これがホッブスの人間観?

ホッブスによれば、自然状態における人間は、知力においても体力においてもほぼ平等な状況にあり、全ての人間は、他者との奪い合いに勝たなければ、自らの生命の安全を確立することすらできない。そこから「万人の万人に対する戦争」と表現される悲惨な状況が出来する。

歴史的事実の説明? 思考実験というならこの前提はおかしくはないか。

自然状態において、人間が自己の生命の保存のために自由に自分の力を用いることは、各人の自然的な権利(自然権)である。自然状態における人間の行為は、人間が平等に持つ自然権の正当な行使とみなされるのである。だが、ホッブスによれば、自由で平等な自然権の行使は、人間に孤独で貧しく陰惨で短い人生を送ることを強いるのみである。

自然的な権利?…これ以上、ホッブスにつきあうのはやめよう。

ロックの議論における人間は、…可能な限り他の人間の自己保存を図りつつ自己を保存するという相互的な自己保存を追求する。それゆえ、ロックの自然状態は基本的に平和状態ということになる。にもかかわらず、人間が自然状態を離脱し、政治社会を形成するとすれば、それはその方が確実に生命や自由や私的所有の安全が獲得されると考えられるからに他ならない。というのも、自然状態においては自然法の解釈が人によって異なるため、どうしても局部的な争いが発生してしまう。むしろ、法律の制定と執行を政府に一元化し、自然権を法律上の権利として確定する方が、かえって各人の安全がよりよく保障されるというのである。 

 ロックについては、2017/12/27の記事、古典的自由主義(生命と私的所有の保障、信仰・思想・表現の自由、権力の多元性の確立)に出てきたが、そこでは、私的所有に疑問を呈しておいた。なおアンダーラインを引いた部分についてはその通りだろうと思う。

ロックの社会契約は、各人の持つ権利を政府に信託するというかたちでの契約である。それは自然権そのものを放棄するのではなく、それをより確実に保障してくれるかぎりにおいてその運用を託する、という契約である。当然ながら、その主張には、もしも政府が契約に違反するような政策をとるなら、信託した側は契約を破棄することができるというメッセージが込められている。即ち、それが政府を解体する権利(抵抗権・革命権)であり、それは政治社会を設立した後も市民の手元に残される。

信託という言葉を理解しておこう。

①信用して任せること。「国民の信託による政治」、②他人に財産権の移転などを行い、その者に一定の目的に従って財産の管理・処分をさせること。「遺産の管理運用を銀行に信託する」(デジタル大辞泉

自然権(生命、身体及び財産に対する権利)を、政府に信託する。各人は自然権保有しているが、その管理を政府に任せるということのようだ。

ロックにおける市民と政府との関係は、本書で用いる本人-代理人関係の一つの原型となっている。市民は、自らの権利の実現を政府に託し、権利に反することを政府が行わないようその行動を監視するのである。

バラバラな個人が政府と(主として財産の)「信託契約」を結ぶというイメージである。ここには、共に生きる人々が様々な問題について話し合って問題解決を図っていく(これが「政治」だと思うが)というイメージがない。

社会契約説を、国家が歴史的にどのように形成されてきたかを説明する理論として読むならば、あるいはかつて人類が契約を結んで国家を設立したのだと額面通り理解するならば、それは説得力に欠ける説明であろう。だが、社会契約説は事実であるというよりは、むしろ一つの理念である。即ち、市民と政府との関係は両者の間にあたかも契約が交わされたかのようなものでなければならない、というのである。そこでは個人が基本であり、政府はあくまでもその道具という位置づけになるこの徹底した個人主義的な発想が、契約による国家(または「合意による政府」)という国家観の基礎をなすことをあらためて確認しておこう。

 

サラエヴォの銃声

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https://www.youtube.com/watch?v=99qSSYrEi_4