平野・亀本・服部『法哲学』(48)
今回は、第5章 法的思考 第2節 制定法の適用と解釈 第3項 解釈技法の使い方 の続きである。
法的正当化に対する制約
法的な正当化には、それを他の種類の正当化から区別する制約がある。第1に、法的正当化において援用される論拠の少なくとも1つは法的なものでなければならない。第2に、法的正当化において援用される(相対的に)法的な論拠は、(相対的に)法的でない論拠に優先する。第1の制約については、既に本節のはじめに言及した。以下第2の制約について説明する。
本節のはじめには「法的推論は、それが法的な推論である以上、他の種類の推論にはない1つの要請がある。それは、法的結論に至るための論拠の少なくとも1つが法規範またはその解釈命題でなければならないという要請である」とあるが、これは「法的三段論法における大前提とは,法律の条文およびその解釈によって定立された定義や規範である」と考えているからであろう。平野の法的正当化の説明(規範的判断の正当化の根拠としての「法原理」参照)を聞けば、法的ルールの適用の順序からしてそうなるというだけのようにも思える。
議論責任
第2の制約が意味するのは、法的な性格が強い論拠を提出する者に有利な推定が与えられるということである。従って、法的な性格がより弱い論拠を提出する者のほうが、それを正当化する責任を負うということである。この責任を「議論責任」と呼ぶことにする。証拠法で言う「証明責任」と類似の概念であるが、論拠を提出する責任という意味で、その言葉を採用した。
反対解釈をしようとする者は、正当化の根拠を提出しなければ、説得力がないだろう。
例えば、判例で確立されている論拠を用いて解釈命題を根拠づける者と、学説の一部で有力であるに過ぎない論拠を用いて解釈命題を根拠づける者とが、同一の条文を巡って対立した場合、もし両説の内容的な説得力が同じであるとしたら、前者の解釈がまさる、ということである。逆に言うと、後者は、内容的により説得力の有る正当化を提出しなければならないということである。
これはよくわからない。ある条文の解釈Aと解釈Bの「説得力が同じ」であるとき、なぜ一方の解釈がまさるのだろうか。判例と学説の多数説が対立するときはどうなのだろうか。学説の少数説の論理が、判例の論理よりもすぐれているという場合はないのだろうか。価値判断が関係してきたら、どうなるのか。
議論責任は、内容的正当化の説得力とは独立に、各種の論拠を、その法的な性格に応じてウェイトづけるための仕組みであり、これによって秩序だった正当化ないし議論が可能になる。法制度自体も例えば憲法と法律の優先関係、上級審判決と下級審判決の事実的効力の違いなどからも分かるように、そのような仕組みを制度化しているのである。
「法的な性格がより弱い論拠を提出する者のほうが、それを正当化する責任を負う(議論責任)」ということで、すべてうまくいくのだろうか。責任云々よりも、正当化の議論によって、妥当な一致点を見出すということを重視すべきではないか。
解釈の検算
以上で取り上げた種々の解釈技法とその用法を習得したからといって、正しい解釈に至ることが保証されるわけではない。具体的事件に臨んで、どの解釈技法を使うべきか、あるいはある1つの解釈技法を使うにしても、目的の決定とか類似性の判断をどのようにして行うか、といった問題が残るからである。そうした問題の決定には、判断を正当化する実質的根拠を考えることが必要である。第4章で検討した正義論は、まさにこの局面に応用できるのである。
明らかな誤りは別として、そもそも「正しい」解釈などあるのだろうか。あるのは一つの解釈を妥当なものと評価(判断)するか否かだけではないのか。
ここで解釈技法の使い方に関連する重要なテクニックを1つだけ挙げておこう。それは解釈技法の使用によって到達された結果のいわば「検算」のやり方に関わるものである。
- まず、自分が採用する解釈技法、例えば目的論的解釈の結果出てきた解釈をきちんと文言化して、ルールに構成してみる。
- それを当該事件だけでなく、適用可能と思われる他の事例にも適用してみる。それでおかしなことが生じないか、確かめてみる。生じたなら、①に戻って、他の目的なり、他の解釈技法を採用するなりして、検討し直す。
- 上のテストをパスしたら、自分が採用した条文解釈を、その条文が含まれる法律全体に組み込んでみて、②と同様に、事例に適用してみながら、おかしなことが生じないか、確かめてみる。生じたなら、②に戻って検討し直す。
- ③をパスしたら、問題の条文を含む法律だけでなく、他の法律の関連条文を含めて、おかしなことが生じないか、確かめてみる。生じたなら、③に戻る。
「解釈の検算」とされているが、あるルールを制定・改定するとき(立法)の基本技術でもあるようだ。本書は「立法技術」にふれていないようだが、法哲学のテーマではないのだろうか。
整合性と理性性
このテクニックは、論理的解釈として漠然と理解されているものを、平明な形で具体化したものとみることもできる、しかし、そこで働いているのは論理ではなく、「おかしなこと」という感覚である。まさにその感覚の習得が法学教育の中心目的であり、法的思考の核心である。「おかしなこと」をことばで説明するのは難しい。ドゥオーキンのそれをはじめ、現在の有力な法解釈方法論において、「整合性」(coherence)と呼ばれているものは、法秩序全体に「おかしなこと」がない状態を指している。「整合的である」とは、規範相互が少なくともいくつかの適用事例において対立する議論にいたる、というようなことがないということも含むが、それ以上のことを意味する。つまり、論理的・科学的「合理性」(rationality)と区別される、何らかの「合理性」(reasonableness)があるということである。区別するため、以下では、後者を「理性性」と読み替えることにする。
私はよく「おかしい」という言葉を使うが、これは硬い言葉で言えば、「整合性」ということになる。本書は、これに「理性性」という意味を含めている。なるほど。言われてみれば、私はこの意味でも使っていた。
法解釈の文脈では、理性性は「正義に適っている」ことを意味すると同時に、整合的で「筋が通っている」ことを意味する。「正義に適っていることの中味は、法解釈学では、法的な実質的イデオロギーによって供給される。その際、倫理など外部からの支援を法原理を介して受けることについては、既に説明した通りである。*1
この言い換えも覚えておきたい。理性性=正義に適っている。整合性=筋が通っている。しかし、理性性などと言っても通じないだろうから、正義に適っているといった方がよい。但し、正義という言葉をふりかざさずに、もっと具体的に言ったほうがよいだろう。
他方、法解釈の「筋を通す」ために最も有効な方法は、解釈の対象となっている法文の中に目的(複数でありうる)を設定して読んでみることである。そして、その結果おかしなことが生じないか確かめてみることである。そのような思考作業を続けても、唯一の正しい解釈には到達しないであろうが、いくつかの不合理な解釈を排除することは出来るであろう。多くの法解釈学者が目的論的解釈を強調するのも、上のような思考作業を念頭においてのことであろう。
「目的論的解釈」は、最も重要な解釈技法だろう。「目的」において合意できれば、解釈の違いは、通常話し合いで解決できると期待してよいと思われる。
People walk past street art in Stokes Croft, Bristol. Photograph: Rufus Cox/Getty Images
立法者の理性性の想定
もちろん、実際の立法者は、問題となっている法文を作成する際に、その目的のことや、法体系全体との整合性のことにまったく、あるいは十分に配慮していないかもしれない。にもかかわらず、解釈者は、立法者は理性的で筋の通ったことを言うはずであると仮定しているのである。様々な時期に様々な人が関与して成立した法秩序全体の整合性を問題にする場合は、もはや現実の立法者ということは意味を持たず、「立法者」はフィクションにならざるを得ない。
「解釈者は、立法者は理性的で筋の通ったことを言うはずであると仮定している」というが、果たしてそうだろうか。「おかしな」法律と思うのであれば、立法者は理性的ではなく、筋の通ったことを言っていないと思うだろう。
要するに、解釈者は、立法者の理性性を反事実的に想定して解釈を行う。そのような想定は、立法者意思説や制定時客観説からすれば不当に思われるかもしれない。あるいは、「法治国家」や「法による裁判」の理念を引き合いに出して、異論を提出する者もいるかもしれない。だが、全く不合理で筋の通らない解釈ないし法体系をよしとする国民はいないのではなかろうか。むしろ、立法が不合理であったとしても、それを理性的で整合的なものにするということが、法律家とその思考に期待されている正統な役割だといってよいであろう。
これはあまりに楽観的な見通しではなかろうか。世の中が良くなっているとは思えない。
*1: 「法システムは開かれたシステムでもあるから、外部の環境からの要請を法の内部に取り込むことができる。その媒介をするのが、(広義の)原理という種類の規範であり、これは法の内部構造に組み込まれながらも、外部からの規範的要請をくみとる、いわば器の機能を果たしうるものである。」