気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

私的所有の無根拠と根拠

立岩真也『私的所有論』(9)

本章(第2章)で、立岩が言わんとしていたことは何か。

  • 何がある人のもとにあるものとして、決定できるものとして、取得できるものとして、譲渡できるもの、交換できるものとしてあるのか、またないのか。そしてそれはなぜか。これに対して与えられるのが、私が作る、私が制御するものが私のものであり、その力能が私である、という答えなのだが、この答えはどんな答えなのか。つまり私はこの本で、「私的所有」という、いかにも古色蒼然としたものについて考えようとする。けれども私は、所有、私的所有は、依然として、あるいは一層、この社会について考える時に基本的な主題だと考えている。(序ⅱ)
  • 所有や決定について極めてはっきりしたことを主張し、何も問題は無いのだとする言説がある。だが、その内容、その論理に不満である。ゆえにこの本が書かれている。(序ⅱ)
  • 近代的な意味での所有権は、単に所持する権利ではなく処分権であるから、その限りで、「所有」と、あることをどのように扱うかという「決定」とは同じものである。だから「所有権」と「決定権」とは同じである。そして、自己決定とは自己が決定することであり、私的所有とは私が所有することである。だから、この限りでは、自己決定(権)と私的所有(権)とは同じである。(P2)
  • 私たちの社会にあっては、所有権とは、通常、所有しているものについてその処分の仕方(自らが保持するか、他者に贈与するか、交換のために使用するか)を決定できるということであり、所有権は即処分権を意味するが、その者のもとに置かれることと、自らのもとから切り離す(処分する)ことを分けることは可能である。そして実際にも、その者のもとにあることは認められるが、それを移動させること、処分することは認められないとされることがある。さらにその中でも、移動すること、改変すること、失うこと全般が禁止される場合もあれば、他者に売却することだけが禁止される場合もあり、選択的に譲渡することが一切禁止される場合、特定の選択的な譲渡が禁止される場合もある。これらが何を由来するのか、これは本書で考えようとする主題の一つでもある。(P29)
  • 世界にある財が、交換の始まる時点において誰のものであるかが決定されていなければ、交換は起こりようがなく、その初期値の設定を定める規範は、市場の中にはない。あらかじめ財を配分しておく必要、財の配分についての規則を設定しておく必要がある。(P30)
  • そもそもあるものがなぜ自己のものであると言えるのか。この所有の初期値の割り当てがどのようなものなのか、そしてそれはどのようにして正当化されるのか。この問いに答えなければならない。そして所有が処分権を含むものだとすると(近代的な意味での所有権はそのように理解されている)、初期条件の設定とは市場の作動の全てに関わるものである。同じことが自己決定についても言える。自己決定と言っても、何が自分の決定の対象なのかが問題だと先に述べた。近代的な所有権の概念では、所有権とは処分権、処分に関わる決定権のことである。このように考えれば、何が自己決定の対象かという問いは、何が自己所有の対象かという問いである。(P30)
  • 私的所有を正当化しようとする言説…ロック(1632-1704)をはじめとする論者達が持ち出すのは、自己労働→自己所有という図式である。自己に属するものから派生・帰結したものに対しては、その者が権利・義務を負うという。…ロックは身体を予め彼のものとしている。(P31)
  • 多くの論者が、生産・制御→所有という主張をしている。だが少しでも考えるなら、これは随分おかしな論理である。(P34)
  • 基本的にこの論理は、結果に対する貢献によってその結果の取得を正当化する論理である。…この論理が成立するためには、単に労働→取得というのではすまず、世界中のものが人間のものとして予め与えられていなければならない。あるいは、この労働とは(馬や牛の労働ではなく、人間以外の全てのものの活動・作用ではなく)人間の労働でなければならないのである。(P34)
  • 仮に世界が人間のためのものであるとしよう。それでも問題は残る。…そのものに最初に触れた人がそのものを取得し処分する権利があるということにする(先占)…ともかく最初にその地に乗り入れた人がその土地を取得する権利があることになる。何にせよ先に手をつけた人、唾をつけた人が勝ちになる。だがこれに私たちは説得されるだろうか。(P35)
  • 少なくとも一つ確かなことは、身体そのものは私自身が作り出したものではないということである。私が作り出したものはこの世に何もないのだとさえ言える。それにしても、手足なら制御することもできよう。しかし、私の身体の内部器官は私が作り出したものでも制御できるものでもない。だから、この主張によって身体の所有を正当化することはできない。すなわちこれは、制御されないもの(身体、そして能力の少なくともある部分、…)については、かえってその私的所有(処分)を、さらにそれが自身のもとに置かれること自体さえも、否定してしまうことになる。(P35)
  • 自分が制御するものは自分のものである」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠づけられない原理なのである。(P36)
  • 言われていることは、結局のところ、「自分が作ったものを自分のものにしたい」ということなのである。(P36)
  • 個々人への[資源の]割り当ての正当性の問題と、ある割り当てを前提した上での自己決定の原理の正当性あるいは有効性の問題とは別である。…例えば、いわゆる「社会主義」体制であっても、個々人の消費のための財は個々に分配される。そして、その消費について個々人は自由であり得る。各人が何か行うための資源の配分のあり方とその資源を使って行う各人の行為の決定とを別のものと考えることができる。(P40)
  • さらに、決定の分散が決定の集権化よりも好ましいものだとしても、それはある特定の、例えばこの社会における分散された決定のあり方を支持するものではない。単純な誤解である。自由や、決定の多様化という基準からは、別の(分散された)決定のあり方がより望ましいものとしてありうる。このような誤解が生ずるのは、私的所有の体制に対置されるものとして生産から消費の全過程についての中央集権だけを想定してしまうことによるだろう。(P40)
  • 私的所有の一番単純な擁護者は、この原理が自己(当事者)にとって有利であることを主張する。決定が自己決定である以上、それは自己にとって有利なはずだと言うのである。そしてこれを拡張し、例えば、市場は各々が各々の手持ちのものを処分する場であり、各々はそれによって利益を得ており、市場はそうした者達だけによって構成されているから、(取引で損をすると思う人は売りも買いもしない)、市場はそこに参加する者すべてに利益をもたらすと言う。市場において「パレート最適」が成立しているという場合、ごくごく簡単に言い切ってしまうなら、こうした事態のことが言われているのである。(P41)
  • 所有の初期値を前提にすれば、自らの行為は自らにとって利益になる行為であり、交換は当事者の双方に利益をもたらすのであり、こうした行為によって構成される場はそのすべての者に利益をもたらすだろうと言う。そして、交換の当事者以外の者については、財の状態に変更はないのだから、少なくとも不利益は無い。(P41)
  • この類の言説は、もし無前提にこのことだけが言われるのであれば、私的所有・自己決定の正当化の論理としては、全く論外である。にもかかわらずこの水準で「自由(主義)」を言い立てる者達がいるのは驚きだという以外にない。…この類の主張は、所有、すなわち財の配分の初期値のあり方について何も言わない。右の有利であるという言明は、各々が手持ちのものを処分する時に、その処分は当の者にとって有利な処分であるというだけのことだった。これは、所有の初期値を問わずに前提する限りでだけ妥当な言明である。どのように配分されていても、それを前提としてそれ以降になされる自己決定・同意に基いた処分は、当事者に利益をもたらすとは言いうる。だがそれは、その「自己決定」の対象となる財の個々の主体への配分のあり方自体を正当化するものでは決してない。各自の身体の各自への配分にしてもそうである。これは全く自明のことだ。だが、これが呑気な自由主義者によってしばしば見逃されている。(P43-43)
  • 初期値と言った。しかしこれはただ一度だけ問題になるようなものではない。人は毎日行為し、生産している。ここで初期値とは、その、その都度その都度の各自の持ち分のことなのである。それはその都度その都度の各自の取り分の差をもたらす。(P43)
  • 私たちの欲望の関数[資源(能力)の使用と対価の獲得の関数]を事実として認め、他者の行為(の結果)の取得の欲望を認めるなら…市場の成立、能力主義の成立を阻止すること、阻止し続けることは困難である。それが私たちにおける強固な現実である時、この強固な現実が、私的所有の体制から抜けることのできない理由であると考える。このことは、この体制の成立の前提がどのようなものであるのかについての認識と共に、無視すべきでないと私は考える。人間のあり方について、私的所有の廃棄を言う一方の側は過度に楽観的であったか、あるいは何も考えていなかったかである。そしてこの体制を擁護するもう一方の側は、見ようによっては人間の敗北である単なる事実を正義と言いなしてきたのである。(P49)
  • 共有地の悲劇」論は、各自の手持ちの資源でやりくりせよという主張、個々人について言うだけでなく、各国がその国の内部で資源の問題、環境の問題を処理するようにという主張につながった。しかしこの論は、国境による線引きと固定化、(移民を受け入れないこと、援助しないこと…)すなわち既得権益の固定化を正当化できるものではない。(P51)
  • [サバイバル・ロッタリー=臓器くじについて]最大多数の最大幸福という観点からは、前者[公平なくじで健康な人をランダムに1人選び殺す。2人助かる。]が選ばれることになる。どのような配分の初期値も前提せず、各状態から得られる各々の幸福の総量を基準として、その総量が最大であるものを良しとする「正しい」功利主義に立てばこうなる。(P53)

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今回は、第2章 私的所有の無根拠と根拠 第4節 正当化の不可能性 の続きである。

こうして、私的所有の規則を十全に正当化する論理は、以上で検討し、以下にまとめる範囲内では、どこにもない。むしろ、功利主義は積極的に否定する働きをする。(P55)

功利主義は積極的に否定する働きをする」とは、幸福の総量を最大化するという功利主義の観点からは、臓器(身体)の私的所有を否定すべきである、ということになる、ということだろう。

もちろんこれまでなされたすべての議論を検討しえたわけではないが、論理的に、次のように言うことができる。私の作ったものは私のものであるという言明は、まず一つの信念として存在し、その理由は何かと問われるとそれ以上言うことがない(第2節)。何か言おうとするなら、その効果・意義を言うことになる。限定された範囲、私(だけ)が行い、私(だけ)が作ることのできるものについては、私的所有の有効性を言うことは確かにできた(第3節)。しかし(私が作った、あるいは与えられた)私の能力(資源)の移動可能性を前提するなら、今度はそれを私のもとに置くことが正当化されない(第4節)。(P55)

ごく普通に日常生活を振り返ってみて、「私の作ったものは私のものである」などと考えている人はいないのではないか。私が機械を操作して作った電気部品、私が書いた提案書、私が描いた絵画、私が作った料理……。「私のもの」(所有)がいかなる意味なのかを明確にしないで、「私の作ったものは私のものである」などと言ってもナンセンスである。(これは文脈をはなれたコメントかもしれないが、思いついたので記録しておく)

例えば身体の自己所有は正当化されえない。自由主義者の呑気さはこのことを考えないことにある。私の身体は私のものだという命題をそのまま前提として認めるなら、その後は市場主義者の言う通りである。だが、その前提をさらに根拠づけようとする時に、それを根拠づけるものは何もない。身体は自己のものだと言えないのである。(P55-56)

「私の身体は、私のものである」という一見自明な命題に関しては、「自己労働→自己所有」というおかしな論理 参照。立岩は、「身体そのものは私自身が作り出したものではない。…私の身体の内部器官は私が作り出したものでも制御できるものでもない」と述べていた。即ち、私の身体は私の所有物ではない。

だが、このことは、自己の身体が他者によって奪われてはならないという感覚もまた、正当化されていないことを意味する。しかし、これは私たちの直観に反する。例えば、私は身体に対する侵害を認めない。だからこそ、「身体に対する自己決定」が主張されてきたのだ。(P56)

「私は身体に対する侵害を認めない」。これは、生命維持のための反応であって、身体に対する自己決定=自己所有とは関係ない話ではないか。

ところが全てが正当化できないとなると、擁護しようと思っていたものまで流れていってしまう。私的所有全般を肯定しない人でも擁護するだろうものまで、擁護する根拠がなくなってしまっているのである。何ゆえにあるものをその者のもとから奪ってはならないと思うのか――これはその者に処分権としての所有権を認めることと同じではない。また逆に、何ゆえに、あるものならその者のもとから切り離して良い(その一部にその者に処分権を認めるというあり方がある)と思うのか

何か、これまで検討してきたものと別のものがあるはずだ。私的所有の原理の代わりに基本となる原理は何なのか。あるいは商品化を批判する人が主張する「自己決定」とは、ここまで見てきたような自己決定でないどのような「自己決定」なのか。ここで私たちは、再考すること、議論を再編成することを迫られる。ここまでに見たものは皆、私が立てた問題を素通りしてしまう。とすればむしろ、こうした考え方こそが問題を表れにくくしている当のものではないか。この問いに対する直接の答えは第4章で行う。第3章では、身体の譲渡や使用に対する抵抗について言われていることを検討する。(P56) 

所有と処分と決定…私的所有の原理に代わる原理はあり得るのか?

 

https://davidkanigan.files.wordpress.com/2014/11/heart-gif.gif?w=500

https://davidkanigan.com/2014/11/27/happy-thanksgiving/