浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

目に見えない権力 パノプティコン

久米郁男他『政治学』(11)

今回は、第5章 国家と権力 第3節 権力をめぐる諸理論 である。*1

どのような国家観をとるにせよ、政治の問題を考える上で、権力の問題は、議論の中心的な位置を占めざるを得ない。しかしながら、権力とは何か、ということを巡っては、実はかなりの意見の対立がある。

本書は、権力を次のように説明している。

従来の実証的政治学においては、権力とは、意識化された個人の意図や動機に働きかけ、その行動を変えるものとして捉えられてきた。…ダール[Robert Dahl、1915-2014]によれば、「さもなければBが為さなかったような事柄を、Bに為さしめる度合いに応じて、AはBに対して権力を持つ」ということになる。こういった定義は、権力を、それを行使する者と行使される者との間の関係において捉えているものである。

ここで述べられるのは「政治権力」のはずだが、「権力一般」の定義を与えているように見受けられる。

以下のような政治権力の定義がある。

  • 政府あるいは国家において明示される,人間の人間に対する支配力ないし影響力。(ブリタニカ国際大百科事典)
  • 政治的目的を実現するため、あるいはそれを阻止するために用いられる影響力。物理的・心理的・集団的方法や手段が用いられる。合法的政治権力の典型が国家権力。(デジタル大辞泉
  • ある者が他者をその意志に反してまでもある行為に向かわせることができる力を、一般に権力という。…社会の諸領域でそれぞれの権力が存在しているが、特定の地域内において究極的優位性を有し、不服従に対しては合法的に物理的強制力を行使しうるものを政治権力という。(日本大百科全書

これらを読めば、政治権力の意味するところを考えようとすれば、いつ(どの時代)、どこで(国家、地域…)、どのような法制度の下で、誰が(独裁者、大統領/首相、政党、官僚、資本家、マスコミ、人民…)、誰に(人民、民衆、大衆、市民、労働者、事業主…)、どのような支配力ないし影響力を及ぼそうとしているのか(及ぼしてきたのか)のかをある程度知っていなければならない。さもなければ「政治権力とは何か」というような抽象度の高い質問には答えられない。その際、「民主主義」と「法」の概念についても、明確にしておく必要があるように思う。しかし、政治学を勉強し始めたばかりの入門者(私のこと)にそれは無理なので、これまで通り、本書の記述に従い、コメントしていこう。

上記の説明で、もっとも気になったのは、「権力を行使する者と行使される者」というとき、誰を念頭に置いているのかという点である。権力を行使する者とは、独裁者だろうか。それとも首相(政党、与党)や官僚なのだろうか。ヒトラースターリンはいない。では、安倍やトランプやプーチン習近平…を指しているのか。そして誰が支配されているのか。

その場合、実際に人々の行動を妨げたり、又はある方向に向かうよう強制する権力の資源としてまず念頭に置かれるものは、物理的強制力、即ち実力や武力や暴力である。…しかし、権力の資源は物理的強制力とそれを背景にした脅迫だけではない。経済的な利益誘導や利益剥奪という、まさに「お金の力」(経済力)によって人々に影響力を行使するのも、権力現象の重要な側面である。…また文化的な権威を確立し、個々人が嫌々ながらもそのような社会規範・社会通念に従わざるをえないようにするというのも、一種に権力行使であろう。

「権力の資源」とは直訳かもしれないが、よくわからない言葉である。「権力の行使の実効性を確保するもの」という意味だろう。

権力の基底価値としては、物理的強制力、財力、能力などがあげられ、具体的には、警察力、軍隊、資産、雄弁、人間的魅力などとなる。(日本大百科全書

「権力の基底価値」という言い方もするようだが、これもまた適切な言葉とは思えない。但し、具体例として挙げられている「雄弁」や「人間的魅力」には留意しておきたい。

このように権力の資源には様々なものがありうるにせよ、いずれの場合も、権力とは、個人の意図に訴え、その行動を変えるものだと定義される。このような権力の定義は、実証研究に大いに力を発揮する。というのも、行動が変わった時点で権力が行使されたと判断することができるため、権力そのものを観察することはできなくとも、権力現象を十分観察可能にするからである。その意味では、こういった権力観を、明示的権力観と呼ぶことができる。またこのような権力観は、個人であれ、集団であれ、また「国家」であれ、権力を行使する主体(支配者)と権力が行使される主体(被支配者)とが明確に区分できるという前提をとっている点にも特徴がある。

「行動を変えるもの」という定義は、「実証研究に大いに力を発揮する」から、良い定義だと本書の著者は考えているのだろうか。

別の見方をするならば、こういった権力観[明示的権力観]は、「自由」対「権力」という自由主義的な対立図式に密接に結びつくものである。近代の自由主義思想は、個人とは、明確に自分の意思を持ち、自分の利益が何であるかを明確に判断できる自律的な存在であるということを暗黙の前提としてきた。そこにおいては、国家や社会集団の「権力行使」によって、こういった個人の自由な選択が捻じ曲げられることが「自由」の侵害ということになる。バーリンの「消極的自由」の概念*2は、こういった事情をとりわけ明確に示すものである。そのため、政治権力による干渉や社会的抑圧に対抗して、個人の自由な自己決定の領域を守るということが主要な関心事となったのである。

つまり、明示的権力観は、政治権力による干渉を排して、個人の自由な自己決定を重視するものであるようだ。

ところがこういった権力観にあきたりない論者は、個人の意図や動機や認識枠組みが、はたして本当に自律的なのか、という疑問を投げかける。意図や動機や認識枠組みそれ自体を形成するのも一種の権力作用の結果ではないか、というのである。本人の意図に反してAという行為に向かわせる、というのが、通常一般に考えられている権力行使であるが、そもそもその人に、本人自らAという行為を進んで行いたいと予め思わせることができたならば、そのようなことを可能とする力は、「権力」としてはより強力なのではないか。権力を問題視するならば、そこまで踏み込んで権力作用を分析する必要があるのではないか。こういった疑問を発して、いわば目に見えない権力(黙示的権力)を問題とするような新たな権力論が展開されることになる。

こういった権力行使の比較的単純なケースとしては、権力者が巧みな広告戦略洗脳といった手段で、当の本人がそれと自覚しないまま、その者を権力者に有利な方向に導くという事態が考えられる。より大規模には、国家がその支配を正統化するような様々なイデオロギーを教育や出版やマスメディアを通して組織的に流布し、人々が本来の自己利益を見失うように仕向けるということもある。権力のこのような作用に注目したのが、ルークス[Steven Lukes、1941-]のいわゆる三次元的権力観の理論である。

ちょっとでも考えれば、意図や動機や認識枠組みが、独自に形成されるものではないことは明白である。教育、書籍、新聞、テレビ、インターネット等により、意図や動機や認識枠組みが形成される。「国家[現政権]が、その支配を正統化するような様々なイデオロギーを流布する」ことはあり得ることである。現政権に有利な情報を流し、不利な情報を隠蔽する、難解な理論で正当化する。「洗脳」との差異は不分明である。

ルークスは、アメリ政治学で展開してきた権力論を一次元的権力観・二次元的権力観という形で整理する。ダールら多元主義者の権力概念が一次元的権力観である。それは、何らかの争点について決定がなされる場合のアクターの行動に焦点を合わせるものである。この決定過程においては、つねにそこにアクター同士の間で主観的な利害を巡る観察可能な対立・紛争が存在するということがこの権力観の前提となっている。

観察可能な対立・紛争のみでは不十分なことは明白だろう。

二次元的権力観とは、バクラックとバラッツの権力論である。それは、非決定という形で権力が行使されることに注目した点で一次元的権力観とは異なる。即ち、潜在的争点の顕在化を阻止するために決定が回避される(決定がなされない)、という形の権力行使に焦点を合わせた議論である。但し、そこにもアクター間の主観的利害を巡る観察可能な対立・紛争の存在が前提とされている。

意図的に決定を回避する。理屈は何とでもつけられる。それは権力行使の一形態である。

それに対しルークスは、自らの権力論を三次元的権力観と名づけて提示する。三次元的権力観とは、本来ならば争点化するであろう問題が制度的に隠蔽され、決定から排除された者の真の利害が表出されないどころか、当人に意識されることすらないという形で行使される権力に注目する議論のことである。同じく非決定を問題としつつも、二次元的権力観が、決定が回避されたとき、そのことに明確に不満を抱く者が存在することを想定しているのに対し、ルークスのそれは、非決定によってもたらされる不利益が意識されること自体を阻まれるというケースを想定しているのである。要するに、観察者の目から見れば著しく損をしているにもかかわらず、当の本人はすっかり満足しているという状況をつくり出す権力が問題となっているのである。

「問題が制度的に隠蔽される」、不利な事実情報を隠蔽すれば、あるいは改ざんすれば、問題は「制度的に」隠蔽される。これまた悪質な権力行使である。

このように、ルークスの三次元的権力観は、いわば本人にさえ意識されない、伏在する制度的な権力を問題とするのだが、しかしながら重要な一点で伝統的な権力論と共通項を持つ。そこでは、権力は相変わらず(個人であれ、集団であれ)誰かがその意図に沿うように、別の誰かの行動を(本人の「真の利益」または「客観的利益」に反して)コントロールするものと考えられているからである。それに対し、もはや誰かが誰かに行使するというのではない、即ち構造として人々の認識のあり方を規定する、目に見えない権力が存在するのではないか、という議論も存在する。

支配者(権力者)の姿は見えず、構造あるいは法制度が存続する。それは、人間(法の対象者)に対する支配力ないし影響力として作用する。

こういった黙示的権力論の代表的論者が、フランスの思想家フーコーMichel Foucault、1926-84]である。フーコーによれば、自らの明確な意思をもとに合理的に行為を選択すると想定される「主体」とは、決して実体的なものではなく、近代社会の構造によって生み出されたものに過ぎない。近代的「主体」として特権視されてきた存在は、一種のフィクションに過ぎないものなのである。このことを劇的に示したのが…パノプティコン(一望監視装置)のエピソードである。…それは、監視者の側からは囚人を一望の下に監視することができるが、囚人の側からは監視者は見えないように設計されている。囚人はつねに監視されているという意識に苛まれ、自らの行動と生活を規律するようになるため、極端な場合には、実際には一人も監視者がいなくても、囚人の服従を確保することができる。

Big Brother is Watching You by Jean-naeJ

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https://www.deviantart.com/jean-naej/art/Big-Brother-is-Watching-You-181335960

 

ここで「囚人」を「市民」と置き換え、「監視装置」を「監視カメラ」や「法制度」と置き換えてみればよい。

このエピソードが象徴するように、フーコーによれば、近代の権力は実力や暴力のように目に見える形で行使されるよりは、権力作用を受ける者が自分で自分を規律するように仕向けるという形で、いわば自動的に行使される。…こういった規律権力による管理は、刑務所のみならず、工場や学校や軍隊、また病院や福祉施設など、近代社会の様々な領域に蔓延しているとフーコーは主張する。

これはあらゆる組織において言えることだろう。しかし、ここまでくるとフーコーの主張はちょっと極端ではないかとも思えてくる。「組織」が機能するためには、「管理」は必然であるから、規律権力による管理を否定的に捉えるのは一面的だ。組織目的を達成するためには、何らかのルールは必要とされるから、それをもって「規律権力」による「監視」と称するのは行き過ぎだろう。

…そのほかにも出生や生殖や死といった生物としての人間の生命過程を行政的に管理する権力技術、近代の権力の生産作用としてあげられる。こういった権力技術を支えてきたのが、近代の人文諸科学(心理学・精神医学・教育学・犯罪学など)が真理として提供してきた「言説」であった。その意味で、知や真理はそれ自体が権力であるということになる。

人間の生命過程を行政的に管理する権力技術を支えるものが、近代の人文諸科学の言説である(であった)としたら、「知や真理はそれ自体が権力である」という「言説」に思わず納得しそうになるが、「権力技術」という言葉が何を含意しているのかを明確にしないと、何ともいえない。…知や真理が権力であるか否かは論点になるだろう。

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民主主義社会においては、権力を行使する主体(支配者)=権力が行使される主体(被支配者)である。だとすると、上記の権力観は民主主義社会以前の分析であるような気もする。しかし、民主主義社会というのは名ばかりで、実質そうではないとしたら、上記権力を巡る言説は考慮に値するものとなる。

*1:第2節で、「功利主義か公正か」、「マルクス主義による近代国家批判」について概説されているが、これはコメントする気になれないので省略する。

*2:2018/02/23の記事、不可解・不明瞭な、「消極的自由」と「積極的自由」参照。