浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

Aがあるものを「正しい」と言い、Bが同じものを「不正だ」と言う

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(27)

今回は、第2節 正義の概念(p.105~) である。

https://corobuzz.com/archives/124758

 

二重の懐疑

根本的に性格を異にする法秩序が、等しく正義の称号を要求する。いかなる戦争においても、両陣営がともに「正義は我が方にあり」と主張する。ありとあらゆる、しかも相矛盾する要求や主張が正義の名において正当化されている。

私はロシアとウクライナの戦争を「ロシアと欧米の代理戦争」と直観的に理解しているが、それぞれが「正義は我が方にあり」と主張している。

「このような事態は正義に対する二重の懐疑を生む」と井上が言うとき、「ロシア vs 欧米」の正義の主張を念頭に置いておこう。二重の懐疑とは何か。

[①]一方で、相異なった立場の間の一見調停不可能とも思える対立を見ると、正義判断は原理的に恣意的・主観的たらざるを得ず、客観的に正しい正義判断なるものは存在しないと考えたくなる。

[②]他方では、ありとあらゆる立場が正義を標榜するという事実を考えると、正義概念はその崇高な響きにもかかわらず、融通無碍の操作可能性を持つ完全に無内容な概念なのではないかと疑いたくなる。

 

① 第一の懐疑

第一の懐疑の基礎にある認識論的前提は、「ある判断の真偽に関し、少なくとも大多数の合理的人間が一致に到達し得るような決定手続きが存在しないならば、その判断は客観的に真ではあり得ない」という公準である。

この公準そのものは証明不可能である。

井上は、この公準は「自己論駁的」であるという。何故か?

この公準の当否については立場が鋭く対立しており、その真理性を少なくとも大多数の合理的人間に承認させるような決定手続きは存在しない。そうである以上、この公準はまさにそれ自身の主張するところに従い、客観的に真ではあり得ない。(p.106)

従って、正義判断の原理的主観性[客観的に真ではあり得ない]を主張する者は、正義判断はこの公準の適用除外例ではないことを、この公準とは別の論拠によって示さなければならない。しかるに、このような論拠を主観主義者・相対主義者は未だ提示していない。

私は、第一の懐疑①は「客観的な正義判断はあり得るか?」というものであると理解したが、これは「正義判断の真偽判定は可能か?」とは異なるものであるように思われる。「真偽」は論理学/数学の用語であり、「客観的・主観的」とは意味合いが異なる。

大多数の合理的人間が一致に到達し得るような決定手続き」は、最重要な問題だと思うが、その詳細は後で説明されるだろう(たぶん)。「大多数」とは? 「合理的人間」とは? 「一致」とは?

 

② 第二の懐疑

もし正義概念が完全に無内容であるならば、何が正義かを巡って人々が意見を対立させているという事実が説明できなくなるだろう。Aがあるものを「正しい」と言い、Bが同じものを「不正だ」と言って反論した時、無内容説に従えば、両者とも全く無意味な音を発しているだけか、各々自己流の意味を「正」・「不正」に勝手に付して喋っているだけということになる。…しかるに、AとBとが意見を対立させているということは誰もが了解する事実である。従って、無内容説は我々が経験している事実と矛盾する。

Aがあるものを「正しい」と言い、Bが同じものを「不正だ」と言って反論した時、それは「全く無意味な音を発している」のではなく、「各々自己流の意味を「正」・「不正」に、勝手に付して喋っている」ものと考えられる。

「各々自己流の意味を「正」・「不正」に勝手に付して喋っている」を、「AとBとが意見を対立させている」と捉えるか、「正義概念は無内容である」と捉えるか。後者の「無内容」は、「対話なき状況」を想起させる。

 

無内容説(正義概念は無内容であると主張する者)は、第二の懐疑に対して何と言うか。

無内容説はかかる事実そのものを錯覚として否定するかもしれない。水につけた割箸が誰の目にも曲がって見えるからといって、割箸は水につけると曲がるということが事実であるわけではないのと同様、AとBが対立していると誰もが思うからといって、両者の対立が事実として存在することにはならない-こういう反論が予想される。しかし、この類比は妥当でない。物理的事実は、少なくとも今問題となっている巨視的対象の次元では、人間の知覚から独立して存在するが、言語の意味に関する事実は言語を使用する人間の実践なくしては存立しない。正義に関する我々の言語実践が、A、B両者の言明が相互に矛盾しているという了解を成立させるものであるならば、事実はかかる了解と逆だということを可能にする根拠はもはやない。

「各々自己流の意味を「正」・「不正」に、勝手に付して喋っている」は、誰もが「事実」として認めるのではなかろうか。「無内容」という言葉にこだわる必要はない。

矛盾・対立する正義判断を行う人々に共通に理解されている意味内容を正義概念が持つからこそ、かかる矛盾・対立は可能になるのである。もっとも、このことは正義判断の当否を判定するための明確な基準(criteria)もまた共有されていることを意味しない。正義を巡る対立状況はむしろ共有された判定基準の不在を証明する。しかし、正義の基準に関する共通理解の不在は正義の概念ないし意味に関する共通理解の存在と何ら矛盾しない。「言葉の意味と基準とは区別さるべきである」という一般命題の当否は言語哲学・論理哲学の根本命題であるが、少なくとも正義概念についてこれが妥当することは確かである。

「矛盾・対立する正義判断を行う人々に共通に理解されている意味内容を正義概念が持つ」というのは、もっと掘り下げて理解する必要がある。後で説明されるだろう(たぶん)。「矛盾・対立する正義判断」は、例えばどういうものであるか? そこで「共通に理解されている意味内容」とは、例えばどういうものであるか? それは「矛盾・対立」と言えるのか?

「正義を巡る対立状況はむしろ共有された判定基準の不在を証明する」は、その通りだと思う。何をもって「正義」と判定するかの基準が存在しない。

「正義の基準に関する共通理解の不在は、正義の概念ないし意味に関する共通理解の存在と何ら矛盾しない」…これはよく分からない。「正義の判定基準」と「正義の概念/意味」とはどういう関係にあるのか? 後で説明されるだろう(たぶん)。