http://timetoeatthedogs.com/2012/03/03/the-adventure-by-georg-simmel/
あっちにふらふら、こっちにふらふら、今日はジンメルだ。
北川の紹介するジンメルは、魅惑的だ。
ゲオルク・ジンメル(1858-1918)は、ベルリン大学の哲学私講師として、その後、員外教授として、大学(講談)哲学のただなかにあって、それにもかかわらず時代の哲学者であろうとした。「哲学とは、思想で捉えた時代」なのだ。
当時のドイツは、自然科学が華やかに展開した時期だった。…哲学者たちが「科学的」であろうとすればするほど、学問の寵児である自然科学者たちからはますます無視されることとなる。…たとえば、哲学者たちが、哲学は科学の基礎づけ作業を行うのだ、科学的認識を可能とする基本的な条件を探求するのだ、と宣言したとしても、実際の科学研究においてなにが行われており、特定の数式がなにを意味するかさっぱりわからない状態で、哲学者たちになにができただろう。…実際、科学とはなんの縁もゆかりもない科学基礎論とはなんなのだろう。こうして、自然科学者によって哲学が無視されればされるほど、哲学者たちはますます、自分たちの「認識論」や「科学論」に固執するのだが、それはほとんど自己嫌悪を抱くがゆえに自分にこだわる偏執的な感情に似ていた。哲学者たちは具体的な問題設定を離れて、ますます「哲学とはなにか」という問題にとりつかれることになる。
それにもかかわらずジンメルは哲学にこだわった。…では哲学はジンメルにとってなにを意味したのか。
自己防衛的な専門家向けの議論にばかり閉じこもって、「普遍的」な哲学体系なり哲学理論なりの「完成」をめざす哲学ではなく、より広く語るような哲学。そのために人生経験が培ってきた知識や判断を前提とすることを恐れず、使えるかぎりの文化的形象を頼みにする。
「貨幣の哲学」や「労働の哲学」だけではない。「椅子の哲学」があり、「俳優の哲学」がある。「哲学」と所有格で結ばれた対象が凡庸であればあるほど、哲学がめくるめくような輝きを放つという逆説を、ジンメルは演じてみせる。
ジンメルの思想において、哲学は文化となり、文化の哲学となる。つまり、彼がよく言い慣わしたように、「哲学的文化」となったのだ。ジンメルの哲学は「哲学的文化」という壮大なプロジェクトのはじまりであった。(プロローグ ジンメルという哲学者がいた)
これほど魅力的に人物を紹介した文章には、お目にかかったことがない。北川の著作も、ジンメルの著作も持っていないが、なにか欲しくなってきた。