浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

誇張された差異、先入見、観察の理論負荷性

富田恭彦「哲学の最前線 ハーバードより愛をこめて」(1)

1 誇張された差異

次のような文章があったとする。(富田は、対話形式で書いている。以下の引用は、必ずしも「そのまま」ではない)

古代ギリシャでは、人間社会のいろいろな出来事や、自然現象なんかも、神の仕業と考えた時代があった。例えば、トロイ戦争などは、女神たちの争いがもとで始まった。落雷は、ゼウスが落としているんだと考えた。

この文章を読んでどういう印象をもつか? 富田は言う。

例えば、タイムマシンで古代ギリシャに行って、古代ギリシャ語がわかるようになったとする。その場合、私が木を指さしてあれは木ですよねと言ったら、古代ギリシャ人もそうだと言うんじゃないないでしょうか。自分たちは人間だよねといったら、古代ギリシャ人もそうだと言うんじゃないないでしょうか。急に雨になって雷鳴が聞こえたとしたら、どうでしょう。我々が雷だねと言えば、彼らもまたそうだというんじゃないでしょうか。そんなふうに、いろいろなことで我々と古代ギリシャ人は、見解の一致を得る。だから、我々は言葉の理解に問題はないと思うわけですけど、にもかかわらず、というよりも、それだからこそ、彼らが自然現象や人間界の出来事の原因を語るときに、我々と非常に異なる考え方をしていることが際立つそんなふうに、多くのことについて見解の一致を見るからこそ、その差異がそれだけ明確になる

しばしば我々は、ある文化圏の差異を、大規模な差異であるかのようにいうが、それはある意味で、誇張された差異なんです。ある点に関して非常に大きな隔たりがある。でもそれが言えるのは、広範な見解の重なりが認められるからなんです。

富田は、ここで「文化圏」の差異を言っているが、これはさまざまなレベルのコミュニティにおいて言えることだろう。また同一コミュニティの中の「意見の相違」に関しても言えるだろう。そこには「広範な見解の重なり」がある。(例えば、STAP細胞問題に関する諸々の意見の相違を、「誇張された差異」とみる見方が成立しないだろうか。諸国家間の対立を「誇張された差異」とみる見方が成立しないだろうか。)

ここに、カルガモが2羽の写真がある。どこか違うのだろうか? 差異を言い募るのか、それとも広範な共通性の認識の上に、差異を把握するのか。

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http://familiarsight.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-077e.html

 

2 先入見

例えば物語なんかを読むでしょ。そのとき、自分が既に持っているものの見方、考え方、知識なんていうのが、それを理解するときに使われる。それらを先入見という。この先入見の役割は、たんに物語の理解には限られない。言葉の理解一般において、認められることなんです。

物ごとを理解するのに、自分の知識や経験が大きな影響を及ぼす。というか、そのような先入観(自分の知識や経験をベースにして物ごとを見ること)なしには、物ごとを理解できない。そのような先入観は「色メガネ」とも言う。私たちは、教育やマスコミや仕事上の共同作業や日常会話等によって、ほぼ同じような「色メガネ」をかけている。<「ほぼ同じ」であって「同じ」ではない。>と考えるか、<「若干の差異はある」が「ほぼ同じである」>と考えるか。

だけど、物ごとを、我々の考えを抜きにして理解するということは、本当にありえないことなんだろうか。

自分の勝手な判断ではなく(色メガネをかけずに)、物ごとを理解することは不可能なことなのか。自然科学は、色メガネをかけずに物ごとを観察できるのか、色メガネをかけずに物ごとを観察すべきなのか。

 

3 観察の理論負荷性

我々は様々な科学理論を受け入れている。普通、科学理論が受け入れられているのは、観察とか実験とかによって、その正しさが保証されているからだと、なんとなく考えている。ここで、実験結果の読みも含めて、「観察」と言うことにする。そうすると観察というのは、理論が正しいか正しくないかを判定するための拠り所であって、それ自体は我々の理論、つまり、我々がどう考えているか、何を正しいと思っているかとは関係なく、純粋に世界のあり方を捉えるものでなければならないような気がしますよね。

確かに、普通の常識的な考え方では、科学理論は、(我々の考え・思いとは関係なく)純粋に世界のあり方を捉えるものでなければならない。勝手な主観が入るべきではない。科学は文学ではない。我々が創造するのではない。

とすると、観察というのは、世界のあるがままを、我々の考え方を抜きにして(我々の考えに汚されることなく)捉えるわけだから、そういうことができるのなら、同じことが人の発言や考えを理解するときにもありえて不思議はない

ここで富田は、N.R.ハンセン(1924~1967)があげた「アヒル・ウサギ図」により説明しているのだが、これをあえて次の写真に置き換えて、富田の文章を追ってみよう。

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http://www.shindo-ortho.com/topics/topics.cgi?page=34

写真の昆虫は何に見えるか。…ミツバチかな。…ミツバチに見えるということは、ミツバチがどんなものか、既に知っているってことですね。…ハナアブかもしれないね。…ハナアブかもしれないということは、ハナアブがどんなものか、だいたい知っているってことですね。

これをみてミツバチとかハナアブとかの写真としてみるということは、ミツバチとかハナアブとかに関する知識を既に持っているからできることである。ということは、そういう知識を持っていなかったらどうなるのか。

単に、昆虫がいるとしか見えない、ということかな。…それもまた昆虫という知識を用いた見方だということには変わりない。どんな知識も投入しないで見るとしたらどうだろう?

目を開けている限り、何か見えるわけだけど、我々がすでにもっている知識を投入しないのなら、ただ見えているだけで、かくかくしかじかのものとして見ているということはない。そうした知識を投入しないで見るのを純粋に見るということだとすると、その場合には、自分はかくかくしかじかのものを見ているとは言えないことになる。もし見ることだけじゃなくて、観察が一般にそういうものであるべきだとするなら、つまり我々が既に持っている知識を投入しないでなされるべきものだとするなら、我々は観察結果を言葉で表すことすらできないことになりそうである。そこでハンソンは、観察には既に理論が関わっているという。この観察が理論を通してなされるということ、つまりは観察が理論を背負っていることを、観察の理論負荷性と呼んだ。

理論の正しさをチェックするための観察であるはずなのに、そのチェックすべき理論を観察が暗黙の内に背負っているということが、可能性としてはありそうである。その場合、観察はそのチェック機能を果たせないことになる。

興味深いのは、この「観察の理論負荷性」が、次のように拡張されるかもしれないということである。

観察ですらそうだとしたら、自分たちの考え抜きに、人の考えや発言を理解するということは、やはりありえないと考えた方がどうもよさそうだ。

どうなんだろうか?