浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

おはよう! そして会えない時のために、こんにちは と こんばんは!(トゥルーマン・ショー)

児玉聡『功利主義入門』(4)

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http://rue89.nouvelobs.com/2015/01/23/syndrome-truman-show-257280

以下の記事の続きで、「幸福論」です。 

shoyo3.hatenablog.com

 

トゥルーマン・ショー』(The Truman Show)は1998年のアメリカ映画。プロットは1959年のフィリップ・K・ディックの小説『時は乱れて』(Time Out of Joint)からいくつもアイデアを拝借しているという。

ジム・キャリーが演じる主人公は、いわゆるリアリティTVの出演者として、生まれた時からよくできた撮影セットの中に住んでいる。これはあまりにうまくできた世界のため、主人公は大人になるまで自分が撮影セットの中にいることにまったく気付かず、テレビに出演していることも知らなかった。しかし、いくつかの不可解な出来事をきっかけに、自分が現実の世界ではなく、撮影セットという偽りの世界に生きていることに気付く。そこで主人公は苦心してその世界から抜け出そうとする。

その映画の最後に、とうとう主人公は撮影セットという世界の「出口」を発見する。その出口の前に立った主人公に、彼にとっての「神」であるディレクターが初めて語りかける。ディレクターは次のように尋ねる。この世界は撮影セットとはいえ、お前が幸福になるために作られた世界であり、何も恐れることはない。だが、外に出たら、お前はきっと今よりも不幸になるだろう、それでもお前は出ていくのか、と。(第6章)

 「撮影セット」は「舞台」に似ている。シェイクスピアは、こう言っている。

この世は舞台、男も女も役者にすぎない。(「お気に召すまま」)

消えろ、消えろ、つかのまの蝋燭!人のいのちは歩き回る影法師、哀れな役者にすぎぬ。精一杯出番を勤めるが、それが終われば、なにも残らぬ。(「マクベス」)

 撮影セットや舞台がどうして「偽りの世界」なのか。撮影セットや舞台の上で歩き回ることが、どうして哀れなのか。それは私たちが「撮影セット」の外に立っている、あるいはまた「舞台」を見ている観客である、と思い込んでいるからなのではないか。「撮影セットの外」をも含めて、より大きな「舞台撮影セット」なのではあるまいか。「舞台」を見ている観客を含めて、より大きな「舞台」なのではあるまいか。

夢の中の夢の中の夢の中の……。私たちは素粒子のような夢の中に生きており、夢から覚めてもそこは原子の世界、その夢から覚めても分子の世界、……超銀河団の世界、銀河フィラメントの世界、更に……。

このように入れ子構造の可能性を考慮すると、児玉が紹介している「トゥルーマン・ショー」の話が、面白くなってくる。…偽りの世界とかは存在せず、あるのはただ夢の世界。リアルな世界は存在しないと確信するならば、それは、まこと「幸福」な世界であると言える。私たちがなすべきは「撮影セット」や「舞台」を、より良くつくることである。…と言えるのかどうか?

(注)私は怪しげな精神世界の話をしているつもりはなく、論理的な可能性としての「幸福」を考えたいと思っています。