浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

公共性 (official,common,open)

齊藤純一『公共性』(1)

f:id:shoyo3:20150414215055j:plain

http://www.re-public-initiative.jp/?page_id=1286

 

公共性という言葉の意味をざっと頭に入れておこう。齋藤は、公共性をofficial、common、openの3つの意味に分けている。Wikipediaのまとめによると、

1) official(公務員が行う活動が帯びるべき性質)

国家や地方自治体が、法や政策などに基づいて行う活動。(対比されるもの:私人の営利活動)

例:公共事業・公共投資公的資金の投入・公教育・公安の維持。

 

2) common(参加者、構成員が共有する利害が帯びる性質)

共通の利益の追求、共有財産の維持管理、共有する規範の創出、共通の関心事などの伝播。(対比されるもの:私有権・私利私欲・私心)

例:公益・公共の秩序・公共心・世間。

 

3)  open(公共的なものが担保しなくてはいけない性質)

誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報。(対比されるもの:秘密やプライヴァシー、私的空間)

例:情報公開・公園等の公的空間。

 

これらの詳細は後日検討することにして、official、common、openの意味合いで「公共(性)」という言葉が使われることを念頭において先に進もう。

(現在と異なり)19世紀半ばからおよそ1世紀の間、公共性はネガティヴにとらえられてきた。…シュミットは、民主的な法治国家の組織原理たるべき「公共性」が凋落している様を痛烈に指弾した(1923)。「新聞の論説、集会の演説、議会の討議から真実かつ正当な立法と政策が生まれるという信念」は失われた。かって絶対主義の秘密政治に対する憤激から生まれた「公開性」は閉ざされた扉の背後での少人数の決定に再び道を譲った。「公開性と討議が議会運営上の現実において空虚で取るに足らぬ形式と化してしまっているとすれば、19世紀において発達した議会もまたその従来の意味を失ってしまっている」と。

現代日本においてはどうか。「公開性と討議が議会運営上の現実において空虚で取るに足らぬ形式と化してしまってはいないか?」と問うことは有効であろう。

同じ頃、アメリカでは、リップマンがやはり「公共性」の現実に醒めた診断を下していた。…大衆社会における人々の関心が消費へと向かい、この私事化の趨勢がもはや避けがたいことを認めたのである。公衆が「幻影」でしかない以上、政治的権威はエクスパートの手に委ねられねばならないという。

これまでの歴史において、政治的権威がエクスパートの手を離れたことがあっただろうか。公衆が「幻影」でなかった時代があっただろうか。

その後間もなく、ドイツでは、公共性が流動性の高い大衆動員の空間となってしまったことが現実に立証される。ナチスは街頭とラジオ放送という公共性のメディアを最大限に活用しながら、大衆を全体主義の運動に向けて動員していくのである(佐藤卓己)。公共性は、脱-政治化と過-政治化という両極に振幅する。いずれにしても信頼をおくことのできない危険な空間として眺められることになる。(以上、Ⅱ公共性の再定義 第1章市民社会と公共性)

現代のナチスは、テレビとインターネットという公共性のメディアを最大限に活用しながら、大衆を全体主義の運動に向けて動員していく、ということになるのだろうか。

これから公共性をポジティブに考えていくにあたり、「19世紀半ばからおよそ1世紀の間、公共性がネガティヴにとらえられてきた」という事実をしっかりと押さえておかねばならないだろう。