浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

あなたは「衣食住」が満たされれば幸せですか?

児玉聡『功利主義入門』(5)

f:id:shoyo3:20150428183202j:plain

http://www.gulte.com/news/18386/Hot-Leader-Girl-in-Cage

あなたは「衣食住」が満たされれば幸せですか?…この問いに、YESと答える人は少ないのではないだろうか。「衣食住」が満たされても、何かが足りない、何かむなしい、そう感じる人が多いのではないだろうか。児玉は、次のように述べている。

非常に貧困な家庭に生まれてまともな教育も受けずに育ってきたインド人の女性は…おそらく「衣食住が満たされれば幸せだ」と答えるだろう。続けて「女性の参政権や、女性の教育や就労の機会の保障は幸福につながると思いますか」と聞くと、おそらく教育を受けていない彼女は、参政権が何なのかも知らず、教育や仕事がどうして自分の幸福に役立つのかが理解できないだろう。さてこの場合、本人は欲していないからといって、教育の機会や参政権を与えなくても良いのだろうか。

教育を受けるとどうなるか。就労するとどうなるか。恐らく、彼女の世界観は変わる。不平等な世の中の仕組みについて気づくことになる。そして恐らくそれが強固な仕組みであることを知り、「不幸」だと感じることになるだろう。教育が幸福に役立つことになるかどうかは自明ではない。

また「女性は男性に尽くすのが当たり前」と教えられている男女不平等の社会を考えてみよう。そのような社会で育ち、それに適応した選好を持つ女性は、男性に尽くすことによって幸福感を得ることになるだろう。ここには上のインド人女性の話と同様の構造がある。男性に都合の良い選好を抱くように育てられてきた女性は、そのような社会に問題を感じておらず、たとえ問題点を説明されても何が問題なのか理解できない可能性がある。そして男性に尽くしたいという選好が叶い、幸福感を得られているのなら、何も問題ないではないかというかもしれない。だが果たして、そのような社会に住み、自らの望みが叶えられた女性は、本当に幸福なのだろうか。

 「男女不平等の社会に住み、自らの望みが叶えられた女性は、本当に幸福なのだろうか」と児玉は問うているが、それはそのような社会を外部から眺め、「男女不平等」の社会と認識し、「本当に幸福か」と問うているのであり、教育等によりそのような外部の視点を持つことがなければ、「男女不平等」と認識することはなく、彼女は幸福である。「男女不平等」の社会と教えられれば、不幸になる可能性も大きいだろう。

このように、非常に制限された環境や構造的な差別が存在する環境に育ってきた人は、その環境に適応した選好を形成してしまい、幸福になるために通常は必要だと思われる選好を持たなくなる可能性がある。これを適応的選好の形成という。選好が充足されたかどうかだけで幸福を計ることが問題なのは、この適応的選好形成があるためである。(以上、第6章)

以上の話は、「現代日本社会」(日本に限定せず、世界で考えても良い)での「不平等」(≒フェア[公正]でない)を考えた場合に、同様のことが言えるだろう。

現代社会」において、「非常に制限された環境や構造的な差別が存在する」ことは、教えられなければわからないだろう。しかし、それらの教育が可能だとして、それらを学ぶことは「幸福」を保障しない。むしろ「不幸」を招く可能性すらある。

だからといって、教育(学ぶこと)が不要だというのではない。私たちがどういう社会に生きているのかを解明し、その社会が望ましい社会なのかを検討する作業が必要である。「私の幸福」と同時に「私たちの幸福」を考える必要がある。「私たちの幸福」は、「私の幸福」の集計値ではない