浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「心」は、物理的な存在か? (2) - 心脳同一説

金杉武司『心の哲学入門』(2)

前回(2015/5/3 「心」は、物理的な存在か?)は、心の哲学には、2つの代表的な立場がある、という話だった。

二元論

心は非物理的な存在であり、世界はこの非物理的な存在と物理的な存在の二種類の存在によって構成されている。

物的一元論

世界は物理的な存在のみによって構成されている。

私は、この二元論の考え方は、素朴な考え方であり(素朴だから誤っているとは言えない)、容易にはこの考え方から離れられないと思う。「心」や「気持ち」(例えば、私はあなたが好きだという気持ち)が「物」でないことは、説明されるまでもなく、明々白々な事実ではないか、だとしたら、世界が「物」だけで構成されているなどということは非常識も甚だしい、というわけである。

これに対して、金杉は何と言っていたか。…「カレーを食べたいと思った[心の状態]から、(身体を動かして)カレー屋に入った[物理的状態]。即ち、「心」が「物」を動かした(心物因果)。しかし、心が物を動かすというのは、念力でコップを動かすというのと同じで、神秘的で不可解なことである。

しかしこれだけでは「物的一元論」を主張することにはならない。「世界は物理的な存在のみによって構成されている」というのは、どういう意味なのか。

心の状態と脳状態には密接な関係があるように思われる。それは例えば、ある特定のタイプの感覚を持つときには、つねに脳のある部位が興奮状態にあるといった相関関係である。このような特定のタイプの脳状態との相関関係は、その他のあらゆるタイプの心の状態についても成立すると考えられないだろうか。

人がある感覚や感情を持つとき、「脳のある部位が興奮状態にある」というのは、脳科学の知見からすれば受け入れやすい。確かにこのように言って良いように思われる。但し、これはもっと正確な言い方をしなければならないが。

人がカレーの香りを知覚したときに、カレーを食べたいという欲求が生じる場合と生じない場合がある。それは、そのときに成立している他の心の状態が異なるからである。例えば、そのときその人が何も食べたくないという欲求を持っていたとしたら[満腹であれば]、カレーの香りを知覚しても、カレーを食べたいという欲求は生じないだろう。逆にその人が大のカレー好きで、丁度その時に何かを食べたいという欲求を持っていたとしたら[空腹であれば]、カレーを食べたいという欲求が生じる。このように、あるタイプの心の状態を原因としてどのようなタイプの心の状態が生じるかは、その他にどのようなタイプの心の状態が成立しているかによって決まると言える。…この点は、脳状態についても同じで、あるタイプの脳状態を原因としてどのようなタイプの脳状態が生じるかは、その他にどのようなタイプの脳状態が成立しているかによって決まると考えられる。

これは随分と分かりやすい説明だ。M1という心の状態(カレーの香りの知覚)から、必然的にAという物理的状態(カレー屋に入る)が生じるわけではない。他の状態M2(何かを食べたい),M3,M4…の複合から、Aという状態が生じる。脳の状態についても同じことが言える。B1,B2,B3,B4…という状態から、Aという状態が生じる。

そうだとすると、それぞれの因果関係の中に位置する心の状態(M1,M2,M3,…)と脳状態(B1,B2,B3,…)の間に、1対1の相関関係が見出されると期待できる

もちろん、あらゆるタイプの心の状態について、実際にそのような相関関係が成立するのかどうかは、神経生理学によって明らかにすべきことである。しかし、そのような相関関係が成立するとすれば、それは「心脳同一説」と呼ばれる次のような立場が正しいことを示唆するように思われる。

【心脳同一説:各タイプの心の状態は、特定のタイプの脳状態と同一である】

 

上述のM2以降、B2以降を省略して、図示すると、

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心脳同一説によれば、カレーの香りの知覚はどれもαというタイプの脳状態に他ならず、カレーを食べたいという欲求はどれもβというタイプの脳状態に他ならない。

金杉は、心の状態と脳の状態は「相関関係」にあると言い、心脳同一説では「同一」であると言う。「相関」から「同一」を導くのは論理の飛躍ではないか。

もちろん各タイプの心の状態と各タイプの脳状態が相関関係にあるというだけでは、両者が同一であるとは言えない。それは単に、異なる二つのものがつねに相伴って生じているということに過ぎないかもしれないからである。

この点に関し、金杉は次のように説明している。心脳同一説の下では、(1)「心物因果と神経生理学的因果のいずれかを否定しなければならない」というような二元論の困難は生じない。(2)「心物因果の不可解さ」の問題も生じない。

少なくともこの限りで、心脳同一説が言うように、各タイプの心の状態は特定のタイプの脳状態と同一だと考えるのがもっともであるように思われる。 

(1) 二元論の困難とは、心物因果と神経生理学的因果のいずれかを否定しなければならないというものであった。心脳同一説では、そのような困難は生じないという。

心脳同一説では、カレーの香りの知覚=脳状態α、カレーを食べたいという欲求=脳状態βであり、嗅覚神経への物理的刺激から身体運動までの因果経路は一つになる。(上図参照)

なお、二元論では、下図のように、二つの因果経路があるのだった。(2つのルートは認めがたい。しかし上のルートも下のルートも容易に否定しがたい)

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(2) 心物因果の不可解さの問題

心脳同一説は、心を物理的存在とみなす物的一元論の一つだから、心物因果の不可解さの問題は生じない。

心脳同一説によれば、心は脳という物理的存在にほかならない。したがって、心物因果は、非物理的なものと物理的なものの間の因果関係ではなく、物理的なもの同士の間の因果関係であることになる。そこには何ら不可解な点がない。

なお、補足しておくと

心と脳が同一だからといって、心が存在しないことになるわけではない。もちろん、脳状態とは別の存在としての心は存在しない。しかし、それは心が存在しないということとは別である。心脳同一説では、心はあくまでも脳と同一のものとして存在する。

 

さて、以上の議論で「心脳同一説」に同意できるだろうか。私の疑問を述べておこう。

第1に、「心の状態=特定のタイプの脳状態」というのは、おそらくそうだろうと思う。しかし、だからと言って「心は脳という物理的存在にほかならない」と言えるかどうか。

物的一元論は、「世界は物理的な存在のみによって構成されている」というものであった。では、脳状態は「物理的な存在」なのか。金森は「脳状態ということで念頭に置いているのは、例えば、脳のある部分が興奮しているというような状態である」と言っている。「脳のある部分が興奮している≒神経細胞が電気信号をやり取りしている」のであれば、物理的な存在=神経細胞といってよいが、「物理的な存在=神経細胞神経細胞が電気信号をやり取りしている」とは言えないだろう。「物理的な存在」という言葉が拡張解釈されているように思う。「存在」と「存在の状態」は、きちんと区分しなければならないのではないか。

第2に、「心の状態」というものを、もう少し具体的に考えてみよう。以下の画像の男女は何を感じて何を思っているだろうか。

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http://buildingabrandonline.com/Mindset-Marketing/your-love-life-brain-frequencies-and-law-of-attraction/

 

ここで画像のイメージとはちょっと異なるかもしれないが、「哀しみの輪舞(ロンド)」という歌詞(作詞:荒木とよひさ)を紹介しよう。

あなたが愛したのは わたしの幻 心の寂しさを 埋めたそれだけ

繕う優しさを 拒み切れずに 別れが近くても 抱かれてしまう

愛は悲しい きっと生き物 飼い慣らすことなんか 誰も出来ない

せめて出て行って 身体の中から 想い出の破片ひとつ いらないから

あなたのずるさよりも わたしの弱さが 明日を引き延ばし 許しているけど

涙の裏側に 昨日があるなら 若さをそのままで 返して欲しい

愛は綺麗な 青空じゃない 切り取って掴むこと 誰も出来ない

せめて出て行って 心の中から 悲しみの涙ひとつ いらないから

愛は悲しい きっと生き物 飼い慣らすことなんか 誰も出来ない

せめて出て行って 身体の中から 想い出の破片ひとつ いらないから

「心の状態=脳の状態」といったとき、ある脳の状態が、例えば上の歌詞のような「心の状態」と同一であると本当に言えるのだろうか、というのが第2の疑問である(上の画像を見ながら想像してみよう)。そう言えるためには、「脳の状態」の詳しい説明が必要な気がする。それは脳神経科学者の仕事なのだろうか。

第3に、「心は存在しないのではなく物理的な状態として存在する」というのであれば、「心物因果」の不可解さは解消されるにしても、「物理的な状態」が「心」を構成する不思議さは一向に解消されていないのではないか。

以上の疑問に関しては、金杉の次節以降の説明で解消されるかもしれない。

次回は「機能主義」の話である。

 

(2015/5/31)タイトル変更…内容にふさわしいものに変更した。

「心」は、物理的な存在か? (2) -哀しみの輪舞(ロンド)

→ 「心」は、物理的な存在か? (2) - 心脳同一説