浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

富裕層はリベラル・アーツを学ぶ (1)

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http://dhknowledgegroup.org/

東京大学出版会より、「人文知」全3巻が刊行されている。

 人文知とは何か.だれにでも開かれた悦ばしい知,自由に伸び広がっていく知である.なぜならそれは「人」と「文」,すなわちわれわれの存在と言語に深く関わってつむがれる知なのだから.豊かな伝統を支えとしながら,もっともアクチュアルな問題に直面してこそその価値が輝きだす.そうした人文知のフロンティアをここにお届けする.

 ひょっとすると現在,「文」の力に対する軽視が,われわれの周囲に広まっているのではないか.はるかな時間をかけて「文」のうちに蓄積されてきた英知は,インターネットの時代において新たなアクセス可能性を獲得しているにもかかわらず,むしろ忘却にさらされているかのようだ.昨今,人々はグローバリズムの動きになすすべもなく流されている.実用英語至上主義や,ネット上の情報とさえつながっていれば安心というパソコン・スマホ依存症によって,自らがいかなる貧しさを強いられているかを自覚すべきだろう.

 人文諸学によって開かれる領域は,それらの現代的な症候群と鋭いコントラストをなす.過去の扉を押し開き,山なす資料体をたえず再発見することに賭ける点で,われわれはアルシヴィスト(古文書学者)にしてアルケオロジスト(考古学者)である.そこには専門化した知の現場があり対象を局限することで研ぎ澄まされる読解の深まりがある

 しかし同時に,われわれは決して閉域に孤立しているのではないミクロコスモスへの注視は,マクロコスモスを思い描くための想像力を鍛え,領域を横断していくための知性を磨くことにつながる言語学と心理学,社会学と考古学,哲学と美術史,倫理学歴史学,さらには文学研究.各ディシプリンは互いにまったく異なるスタイルをもち,研究対象もまちまちだ.だが,そこで追求されている主題には驚くほど共通性があり,一貫性がある

 文学部的な知は,「私」のいま・ここに根ざしながら,ときに遠く迂回しつつ,その立脚点を問い直す運動を描き出す.それは「個」に発しながら「全体」に達しようと希求する知なのだ.あるいは「同一性」に発しながらつねに「他者」を見出そうとする知だといってもいい.

 そうした試みが言語の違いや方法論の相違を超えて,断固,複数的に展開されてきた場所.それが文学部にほかならない.専門を徹底的に掘り下げつつ,敢然と「外」へ踏み出していこうとする.そんな人文知の脈動をぜひ共有していただきたい.http://www.utp.or.jp/series/jimbunchi.html

私がアンダーラインを引いたものから、特に次のフレーズを再掲しておく。

 ・はるかな時間をかけて…蓄積されてきた英知は,インターネットの時代において新たなアクセス可能性を獲得している

 ・対象を局限することで研ぎ澄まされる読解

 ・われわれは決して閉域に孤立しているのではない

 ・ミクロへの注視は,マクロを思い描くための想像力を鍛え,領域を横断していくための知性を磨く

 ・「個」に発しながら「全体」に達しようと希求する知

何も「文学部」に拘る必要はない。「社会科学」であろうと、「自然科学」であろうと、およそ「人間」が「世界」を解読し、「世界」のなかで生きようとするかぎり、妥当するものであろう。

「人文知」全3巻の内容は、次の通りである。なかなか面白そうだ。

1 心と言葉の迷宮   唐沢かおり・林 徹 [編]

〈今,ここにいる私から〉ヒト特有の属性でもあり,人文知を形成する基本でもある「心」と「言葉」.「私」と外部,現在と未来は,言葉によってどう結ばれ,つながれるのか.その中で心はどのように自らを表現し,また自らをつくり直していくのか――今,世界はどう構築されるのかをめぐる知的冒険の端緒が開かれる.

 2 死者との対話  秋山 聰・野崎 歓 [編]

〈過去と未来をつなぐ〉取り返しのつかない喪失を超えて,記憶を引きつぎ,死者をして語らしめる試みこそ人間の文化にほかならない.時間を超え,様々な遺物に刻まれた死者の声に真摯に向き合い,過去を読むという人文知の根本的務めに立ち戻り,未来への中継者としての意義を問い直す.

 3 境界と交流  熊野純彦佐藤健二 [編]

〈他者との出会いの中で〉空間を超え,他者との交流と越境の動きのうちで自らを豊かにし,更新していく文化のダイナミズムが論じられる.自己の内実とはいかに異境に,他者に委ねられ,開かれたものであるのかが浮き彫りにされ,「外へ」と踏み出していく人文知の魅力と可能性が示される.

 第1巻 心と言葉の迷宮 の詳細は次の通り。

序 心と言葉への問い――言葉を心につなぐもの(林 徹)

I 問題の原型

1 心はいかに自己と他者をつなぐのか(唐沢かおり

2 心・言語・文法――認知言語学の視点(西村義樹

3 心が先か言葉が先かの対立を終わらせる一つのやり方について(戸田山和久

II 問題の展開

4 こと・こころ・ことば――現実をことばにする「視点」(木村英樹)

5 言葉によってどのように「心」が表現されるのか (渡部泰明)

6 ことばは社会と文化をどのようにつくり変えるのか――社会問題の構築(赤川 学)

III 問題の拡大

7 イメージ/絵画は「心」の交感の場 (小佐野重利)

8 音楽はどのように言葉や図像とかかわるのか――ベートーヴェン《月光》をめぐるマルチメディア的想像力(渡辺 裕)

9 古代中国人の言語風景――空間と存在の関わり(大西克也)

あとがき(唐沢かおり)

 第2巻、第3巻の詳細は省略。

 

リベラル・アーツ

一般的に富裕層の方ほど、ご子息、ご令嬢の教育に関心の深い方が多いと思います。そしてだからこそ、ここ10年程の社会構造の変化で、今までの教育でこれからも通用するのか疑問や不安をお持ちの方もいらっしゃると思います。

資格を取ってもいい就職先があるかどうか分からない、工学系の大学を出て就職しても生涯勤務できるとは限らない等、それぞれの教育の分野で将来への不安はあると思います。

そこで日本ではまだあまり馴染みのない「リベラル・アーツ」という分野の学問をご紹介したいと思います。オバマ大統領やヒラリー・クリントン氏、また、故スティーブ・ジョブズ氏も在籍していたことのある大学の学問になります。

また本文の後半では、世界で活躍するために最低限抑えておきたい教養などをご紹介します。

リベラル・アーツ・カレッジは、全米に約130校あり、日本には12校ほど、中国では昨年上海に1校創立されました。今リベラル・アーツ・カレッジが注目されるのには、理由があります。

現在、世界は技術、医療、サービスにおいて成熟し、新しい技術やサービスを生むためには「革新」が必要だ、と言われています。アメリカの政府高官や大学関係者は、専門知識の習得だけに専念させても、イノベーションは起きないことに気付き始めました

無数の学問に触れながら、自分の人生にとって重要なものを生み出すプロセスが重要であると考え始めたのです

リベラル・アーツ・カレッジでは、歴史・政治・文学・美術・サイエンスなどを学び、創造性豊かな発想が生まれるように工夫されています。この考え方は、日本においても注目されており、いくつかの大学で「教養学部」などの名称で広まっています。

また中国でも従来の安価な労働力に頼った製造業から脱皮しようとしており、このリベラル・アーツの考え方が受け入れ始めています。

ちなみにアメリカのリベラル・アーツ・カレッジは、学費が年間4~5万ドルと高く、大学院に進むことが前提にされています。アメリカの歴代大統領の内12人、ここ10年のノーベル賞受賞者53人の内12人がリベラル出身の人になります。

リベラル・アーツは古代ギリシャで、労働に従事しなくてもいい「自由な人間」が学ぶものでした。働くための技能を学ぶのでなく、根本的なものの考え方を学ぶ学問です。こうして養われる教養の効果は、リベラル・アーツ・カレッジ出身者の活躍を見れば納得できると思います。http://zuuonline.com/archives/3874

 専門知識の習得だけに専念させても、イノベーションは起きない。恐らくそうだろう。既存の知識を学ぶだけで、自らは何も生み出せない。想像力、発想力がない。誰かの言いなりになるだけの「不自由」な人間、誰かの言い分をオーム返しに叫んで、自らの意見を述べていると錯覚している愚昧さ。「愚昧なる通人よりも山出しの大野暮の方が遥かに上等だ」〈夏目漱石

 

もう一つ紹介しよう。

リベラルアーツとは、奴隷制を有した古代ギリシャやローマで「人を自由にする学問」として生まれた。5~6世紀の帝政ローマの末期には、言葉に関わる「文法」「修辞学」「論理学」の3つと、数学に関わる「算数」「幾何」「天文」「音楽」の4つで、併せて「自由7科」という考え方が定着した。これらが奴隷でない自由人として生きていくために必要な素養とされたのである。古代では、音楽も数学的な知識として分類されているのが興味深い。このリベラルアーツは日本では教養と訳されることが多い。

大学の教育は一般的に専門教育と教養教育で構成される。経済学部なら経済学、法学部なら法学、理学部なら物理学や数学等の専門を学ぶと同時に、社会人として必要な教養を身につけるために、専門以外の知識を幅広く身につけるための「教養科目」が置かれているのだ。だから大学に入学すると、この教養科目群と専門科目群の双方から一定の単位数を卒業までに修得する必要がある。

そしてこれまでは、日本の多くの大学では一般的に、この「教養教育」のことがリベラルアーツ教育と呼ばれてきた。あくまでも、専門教育の前提となる幅広い教養という位置づけであり、1~2年生に集中している教養教育を終えると(一部では並行するが)、3~4年生では専門教育中心に移行していくのである。

ところが、こうした専門教育とセットになった教養教育を行うのではなく、4年間を通じて教養教育のみを行う大学がある。アメリカではこのような大学をリベラルアーツ・カレッジと呼ぶが、ハーバード大学などの名門アイビーリーグなどがそれに該当する。

近年、社会で要請される知識は、「理系」「文系」の枠に収まらないものが増えている。また同じ文系にしても、様々な専門分野を融合した能力が求められる職業も増えている。理系の知識も文系の知識も学ぶ文理融合系や、学際系の学部が生まれている所以だ。一つのテーマを、複数の学問的(学際的)な視点から学んだり、一つの専門領域を深く学びつつ、それを支える複数の学問領域を学ぶという考えで運営される学部である。この先駆けとしては慶応大学SFC総合政策学部が有名だが、それ以降も名古屋大学情報文化学部、東京女子大学の現代教養学部をはじめとして、多様な学部が続々と誕生している。また最近では「観光」が名前につく学部・学科なども誕生しており、これらは典型的な学際系と言えよう。こうした「新リベラルアーツ系」は多様であるがゆえに、一括りにして言及しにくいが、「情報」や「環境」、「社会」「人間」「文化」などが対象となり、「現代」「総合」などがキーワードとして加わる場合が多い。

また、同じような目的から、副専攻制度やダブルメジャー制度を導入している大学もある。副専攻制度は「メジャー・マイナー」とも呼ばれ、メジャーである主専攻以外にマイナーの副専攻も体系的に学び、2つの領域について深い知見を身につけるという考えである。ダブルメジャーは主と副の比重が同じ程度ということであり、こうした制度を導入している大学には室蘭工業大学福井大学桜美林大学などがある。http://times.sanpou-s.net/special/liberal_arts/

リベラルアーツの素養のないものは、自由のない「奴隷」として生きるほかないだろう(それと意識することなく)。理系とか文系とか、つまらない分類に固執する必要はない。