浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

リアリティは鏡の中にある?

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(7)

ラマチャンドランは、本書第6章「鏡のむこうに」の最初に、「半側無視(はんそくむし)」について述べている。聞き慣れない言葉だが、これは「半側空間無視」と言ったほうがわかりやすい。下記サイトの説明を引用する。

半側空間無視とは、自分が意識して見ている空間の片側を認識できない症状です。右脳の障害によっておこる、左半側空間無視の方が起こりやすく、長期化しやすいと言われています。左半側無視の具体的な症状としては、左側の食べ物を食べ残す、左側にぶつかる、車椅子や歩行の際に右側に寄っていくなどがあげられます。

まずは、なぜ半側空間無視がおこるのか、紐解いてみましょう。目で見た画像は、眼球の奥にある網膜というところで視神経信号となり、視覚情報として脳に送られます。右の目からの視覚情報は左脳で、左の目からの視覚情報は右脳で処理され認識されます。脳梗塞によって、大脳に障害を受けると、目は見えているのに、脳で視覚情報を処理することが出来ないため、半分の空間を認識できなくなります。右脳の障害による、左半側空間無視が多い理由は、右脳が「左右両方」の視覚情報を認識する機能を持っているからです。左脳は右側の視覚情報の認識にしか関わっていないため、左脳に障害が起こっても、右脳の働きでカバーすることが出来ます。右脳に脳梗塞を起こすと、多くの場合、左脳は機能していますので、右側は認識できますが、左側を認識することが出来なくなるのです。半側空間無視の特徴としては、本人は症状の自覚が無いことが多いことです。そして半側空間無視がある方は、自分の身体を認識できない「身体失認」や運動麻痺、感覚麻痺を伴うことも多いのです。http://kaigopro-dojyo.com/?p=1938

 半側空間無視の患者が絵を描くと、花の左側が欠けた絵になる。

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 半側空間無視患者の多くは、記憶をたよりに描いても、眼をつぶって描いても、花を半分しか描かない。これは心の中の花の絵の左側を「スキャン」する能力も欠けていることを示している。

ラマチャンドランは面白い実験をした。鏡を患者の右側に置いて、患者が鏡をのぞくと、左側のすべてが映ってみえるようにしたのである。さてどうなるか。

エレンは、鏡がどんなものであるかは十分承知しているので、映っているのは自分の左側であると知っている。左側の世界についての情報が右側(無視のない側)から入ってくるのであるから、鏡の助けで無視を「克服して」ふつうの人と同じように左側のものに手を伸ばすだろうか。あるいは「これは本当は無視の範囲内にある。無視しよう」ということになるだろうか。結果は、科学の世界ではよくあることだが、どちらでもなかった。彼女は意表をつく行動をしたのである。

合図を受けた学生の一人がエレンの左側に立ち、ペンを持ちあげた。ペンの位置は、いいほうの右手が十分に届くが、無視のある左視野の範囲内に完全に入るところにした。…「ペンが見えますか?」「はい」「それでは手でペンを取って、さきほど膝の上に置いたメモ用紙に自分の名前を書いてください」…エレンは右手をあげると、ためらうことなく鏡に向かってつきだし、鏡を何度もたたき始めた。そして20秒ほど、本当に爪でひっかいたあげく、明らかにいらいらした様子で「手がとどきません」と言った。10分ほど後に同じことをもう一度繰り返すと、彼女は「鏡の裏にあるんだわ」と言って手を裏にまわし、私のベルトのバックルを探り始めた。ついには鏡の縁ごしに覗き見をしてペンを探そうとした。

これはどういうことか。

エレンは、鏡像が手を伸ばしてつかめる本物の物体であるかのようにふるまった。…申し分のない知性と分別を持ったおとなが、鏡の中に実際に物があると考えるというばかばかしいことをしているのだ。私たちはエレンの状態を「鏡失認」あるいはルイス・キャロルに敬意を表して「鏡シンドローム」と名づけることにした。

ラマチャンドランは、彼女が本物の物体に正しく手を伸ばせない理由について、二通りの考え方を示している。

第一に、このシンドロームは無視に起因している可能性がある。患者は自分に向かって無意識的に「鏡に像が映っているのだから、物は私の左側にあるに違いない。でも私の世界に左側は存在しない。だから物は鏡の中にあるに違いない」と言っているようだった。

第二に、鏡失認はふつう無視を伴うが、無視の直接的な結果ではないらしい。頭頂葉が損傷されると空間的な課題にさまざまな困難を生じることが知られているが、鏡失認もそうした欠陥の一つで、ただ現れ方が派手なだけかもしれない

 

ここまで読んだ限りでは、右頭頂葉の損傷が「半側空間無視」や「鏡失認」を引き起こしているように思われる。

驚くべきことにこの患者たちは、鏡と向き合っただけで(現実と幻想との)境界領域に押しやられ、そのために、鏡像が右側にあるのだから、鏡像を生んでいる物体は左側にあるはずだという単純な論理的推測をすることができない(あるいはそうする気になれない)のである。

「現実と幻想との境界領域」とは、「現実でもあり幻想でもある」「現実とも幻想ともいえない」そのような領域のこと。鏡の向こうは現実なのか、幻想なのか

この患者たちに鏡の中に見える物体の「本当の位置」はどこかとたずねるのは、ふつうの人に北極の北はどこかと問うようなものだ。あるいは無理数が実際に存在するかどうかを聞くようなものだ。これは、現実はゆるぎないものだという私たちの見解にどれほど確信がもてるのかという、深遠な哲学的問題を提起する。四次元の生きものが四次元の世界からながめれば、奇妙な鏡の世界をたたく半側無視患者の失態が私たちにそう見えるのと同じように、私たちの行動もばかばかしく滑稽な、ゆがんだ行動に見えるだろう

 

ここで人が鏡の中に見るものは、現実なのか幻想なのかを少し考えてみよう。

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 http://1365.blog.jp/archives/38822138.html

この写真の向かって左側のタオルを取ろうと手を伸ばすことは異常な行動だろうか。右頭頂葉が損傷していない正常な人間でも、手を伸ばすことがありうるのではないか。…私たちは既に「鏡」というものを知っている。それゆえ、鏡があると認識できれば、鏡にうつったタオルと了解できるので手を伸ばしたりしない。しかし、壁全面が鏡で、ピカピカに磨いてあれば、そこに鏡があるとは認識できず、すべて現実の光景だと思うだろう。そして手を伸ばしてタオルを取ろうとする。…手を伸ばしてぶつかっても、鏡とは限らない。透明なガラスかもしれない。そしてガラスの向こうに、実際にこちらと対称に物が置いてあるかもしれない。鏡かガラスかはよく調べないとわからない。

こう考えれば、実際に鏡があっても、鏡と認識できなければ、すべて現実の光景である。決して幻想ではない。鏡像は物理的な存在ではない。非物理的存在を物理的存在とみるのを幻想と呼ぶならば、幻想ではある。私たちの脳のなかには、このような「鏡」が多数存在していて、非物理的存在を物理的存在として構成している。物を見るとはそういうことである。ここでは未だ「心」は登場してこない。

 

猫が鏡をみたらどうなるか。猫は「自己」を意識していないようだ。鏡の中の猫を無視するような猫もいるようだから、敵か敵でないかを区別しているだけだろうか。

www.youtube.com

 

ついでに、もう一つおまけ。


猫おもしろ】『猫たちがガラス越しに出会ったら・・・』 喧嘩多発~ - YouTube