浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「見たくない現実を無視する」のは、病気であるか?(1)

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(8)

ラマチャンドランは、本書第7章「片手が鳴る音」で、疾病失認について述べている。

ドッズ夫人は卒中で右頭頂葉に損傷を受け、左半身が完全に麻痺していた。(ドッズ夫人は、自分が卒中を起こしたことを承知していた)。

「ドッズさん、右手で私の鼻をさわれますか?」。彼女は何の支障もなくそうした。「左手で私の鼻をさわれますか?」。彼女の手は麻痺したまま体の前におかれていた。「ドッズさん、いま私の鼻にさわっていますか?」「ええ、もちろんさわっていますよ」「実際にさわっているのが自分で見えますか?」「ええ見えます。先生の顔から1インチと離れていません」

この時点でドッズ夫人は、自分の指が私の鼻にふれるばかりのところにあるという、ほとんど幻覚に近いあからさまな作り話をつくりだしていた。自分の動かない手がはっきり見えるにもかかわらず、動いているのが見えると言い張るのだ。私はもう一つだけ聞いてみることにした。「ドッズさん、手をたたけますか?」。彼女はあきらめたように辛抱強く答えた。「もちろん、たたけます」「たたいてもらえますか?」。ドッズ夫人は私の顔をちらっと見て、右手で手をたたく動作をした。体のまんなかあたりで想像の手とたたきあっているような仕草だった。「いま手をたたいていますか?」「ええ、たたいています」。私は実際に手をたたいている音が聞こえるかと訊ねるだけの勇気がなかった。もし訊ねていたら、禅の永遠の公案や、「片手の拍手はどんな音がするか?」というなぞなぞの答えが見つかっていたかもしれない

 「片手の拍手はどんな音がするか?」というなぞなぞ…これは、白隠が創案した禅の代表的な公案のひとつである。

隻手音声(せきしゅおんじょう)…「両手を打つと、音が響きます。しかし、片手では、どんな音がするでしょう」。江戸時代中期の禅僧、白隠和尚が修行僧に問いかけます。「両掌(りょうしょう)打って音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)に何の音声かある」と。隻手とは、片手のことです。片手では、打つことが出来ません。音も響かないでしょう。その片手の音をどう聴くのでしょう。白隠和尚は、修行者を日常的な判断や思考、思慮分別を超えた世界に導いているのです。(以下、省略)http://www.hikari-k.ed.jp/zenchoji/houwa/houwa2302.htm

もちろん、ラマチャンドランは禅の話をしようとしているわけではない。

この奇妙な障害――左手や左足が麻痺していることを無視する、あるいはときに否認する傾向――は1908年にフランスの神経科医ジョゼフ・フランソワ・バビンスキーによって初めて臨床的に観察され、疾病失認(病気に気づかないこと)と名づけられた。

ドッズ夫人のように、実際に手や足が動いて見えると主張する例は稀で、左手を使ってみせてくれと言われると、なぜ動かないかについて常軌を逸した弁解や合理化をするのが普通だそうである。

セシリアという患者は、なぜ私の鼻にさわらないのかと聞くと、ちょっと憤慨したように答えた。「だって先生、この医学生の人たちが一日中あれこれ言ったり、じろじろ見たりするんですよ。うんざりします。だから手を動かしたくないんです」

エスメラルダという患者は、「肩にひどい関節炎があるんです。わかりますよね、先生、痛いんです。手は動かせません」

「驚くほどのことではないが、疾病失認を解釈する説は20以上もある」という。

その多くは二つのカテゴリーに分けられる。一つはフロイト流の見解で、患者はただ自分に麻痺があるという不快さに直面したくないのだと考える。もう一つは神経学的な見解で、否認は前章で論じた半側無視――左側の世界のものすべてに対して全般的に無関心であること――の直接の結果であると考える。どちらのカテゴリーにも問題が多々あるが、それと同時にどちらも、否認の新しい説を組立てるのに使えそうな価値ある洞察を含んでいる。

ここで精神分析における「防衛機制」についてふれておこう。

 防衛機制…不安によって人格の統合性を維持することが困難な事態に直面したとき、自我egoはその崩壊を防ぐためにさまざまな努力を無意識のうちに行うが、このような自我の働きを防衛機制という。自我を脅かすものとしては、一方にはその個人を取り巻く外界の厳しい現実社会があり、他方には自分の内部のエスes(イドidともいう)や超自我super-egoがある。すなわち自我は、快感原則に従って衝動を一方的に満足させようとするエスや、道徳的な禁止を命ずる超自我などによっても脅かされる。自我は、こうした外的現実や内界のエスならびに超自我の三者間の葛藤による不安や苦痛や罪悪感などから自身を守り、人格の統一性を保持しようとするのである。以下、自我による防衛機制の主要なものを取り上げる。

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(1) 抑圧…容認しがたい思考、観念、感情、衝動、記憶などを意識から排除し、無意識へ追いやる自我の働きをいう。たとえば「思い出せない」「わからない」という事態はこの機制による。防衛機制の基盤をなしているのが、この「抑圧」である。

(2) 反動形成抑圧している欲望や衝動と正反対の態度や行動をとること。たとえば、強い性的関心が極度の性的蔑視や無関心の態度として現れている場合である。

(3) 投影(投射)…省略。

(4) 同一化・同一視…省略。

(5) 合理化…自分の行動の本当の動機を無意識のうちに隠し、ほかのもっともらしい理屈をつけて納得すること。たとえば、『イソップ物語』に登場するキツネがとろうとしてもどうしてもとれないブドウに対して、あれは酸っぱいブドウなのだと思い込むこと。

(6) 昇華…抑圧された衝動が社会的、文化的に価値ある活動に置き換えられること。

(7) 置換え…ある状況下で容認されがたい衝動や態度を、別の対象に向け換えて不安を解消しようとする機制。たとえば、父親に対する憎しみを職場の上司に向ける場合など。

防衛機制はその名称が示すように「防衛」という消極的な心理機制であって、積極的に合理的な方法で問題解決を図るものではない。それゆえに一種の自己欺瞞的な問題処理の仕方である。しかし、人間はすべての問題を合理的に解決することは不可能なので、防衛機制を用いざるをえない。(久保田圭伍/日本大百科全書)https://kotobank.jp/word/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E6%A9%9F%E5%88%B6-131761

不安や苦痛や罪悪感などから自身を守るため、自我の崩壊を防ぐため、抑圧・反動形成・合理化・昇華・置換などの防衛を行う。自分の経験を振り返ってみれば、おそらく思い当るところがあるだろう。

さてラマチャンドランは、疾病失認のこのようなフロイト的見解には、問題点が2つあるという。

1) 疾病失認患者と正常な人の心理的な防衛機制の規模のちがいを説明していないこと。なぜ普通の人では一般に希薄で、否認患者のほうは途方もなく誇張されているのか。

2) このシンドロームの非対称性を説明していないこと。ドッズ夫人などに見られる種類の否認は、ほぼ常に脳の右半球の損傷による左半身の麻痺と結びついている。左半球に損傷があって右半身が麻痺している場合は、否認が起こることは全くといって良いほどない。同じくらい心理的な防衛を必要としているだろうに。

 そこで神経学的な見解[半側空間無視]に答えが求められるが、ここでも問題点が2つあるという。

1)半側無視と否認がそれぞれ独立して起こる場合があること。[独立して起こるなら、半側無視→疾病失認とは言えない]。

2)患者の注意を麻痺に向けても否認が持続する理由は、半側無視では説明できない。…説明を要するのは(麻痺に対するただの無関心ではなく)この否認の激しさである。

 フロイトの見解も半側無視説も問題があるとしたら、どう理解すればよいのか。ラマチャンドランは、正しいアプローチ法は、2つの問いかけをすることだという。

1) 正常な人は、なぜ様々な心理的防衛機制をするのか。

2) その同じ機制がなぜこれらの患者では誇張されているのか。

 第1の問いに対して、ラマチャンドランは次のように述べている。私にはこれは非常に説得力のある推論(仮説)のように思われる。疾病失認患者ではない正常人の心理的防衛機制の話であり、先に引用したフロイト流の説明との違いに注目したい。

私たちが目覚めているときはいつも、途方もない量の感覚入力が脳に流れ込んでいる。それらの情報は一つ残らず、貯蔵された記憶に基づいて既にできている、自分自身や周囲の世界についての一貫した全体像の中に組み込まれなくてはならない。脳は一貫性のある行動を起こすために、過剰な細部を整理して、内的な一貫性を持つ安定した「信念体系」――手元にある事実を意味のあるものにするストーリー――をつくる何らかの方法を持たなくてはならない。新しい情報の品目が入ってくるたびに、既にある世界観の中に継ぎ目なく入れ込むのだ。これは主に左脳が行っていると私は考えている。

さて、筋立てにまったく合わないものが入ってきたとしよう。どうすればいいのか。一つの選択肢は、台本をすべて破棄して初めからやりなおすことだ――ストーリーを全面的にあらためて、世界や自分自身について新しいモデルを創りだす。問題はこのやり方をとると、脅威となる情報の小さな一片が入ってくるたびに行動が混乱して不安定になることだ――これでは気が変になってしまう。

左脳が実際にとっている方法は、異常をまったく無視するか、もしくはそれをねじ曲げて既にある枠組みのなかに無理に押し込んで、安定を保つというやり方だ。私はこれが、フロイト的な防衛と呼ばれるものすべて――否認や抑圧や作話や、その他の日常生活を支配する自己欺瞞――の背後にある本質的な原理であると思う。

日常の防衛機制は不適応などではなく、手元にある素材を使って創り出せるストーリーの「組合せの爆発」によって、脳が方向性のない優柔不断に追い込まれるのを防止しているのだ。その報いは自分自身に「嘘をつく」ことだが、システム全体の一貫性と安定性を得るためにはわずかな代償である

脳の情報処理がどのように行われているのか、他の脳科学者の説明・意見を聞くときには、ラマチャンドランのこの見解を念頭においておこう。

さて、次に第2の問い(否認や抑圧の防衛機制が、なぜこれらの患者では誇張されているのか)であるが、ラマチャンドランはここで右脳の機能をとりあげる。

右脳の戦略は「あまのじゃく」の役割をつとめることで、現状に疑問をなげかけ、全体的な不整合性をさがす。異常な情報がある閾値(いきち)に達すると、右脳はモデル全体の徹底的な改変を強行して、一からやりなおす時がきたと判断する。このように右脳は異常に反応して「クーン流のパラダイムシフト」を強行し、一方の左脳は現状をしっかりつかんで離すまいとする。(左脳の仕事は、一つの信念体系あるいはモデルをつくることと、新しい体験をその信念体系にはめこむことだ。モデルに合わない新しい情報にいきあたると、フロイトのいう防衛機制にたより、否認や抑圧や作話をする、どんなことでもして現状を維持する。)

では右脳が損傷を受けるとどうなるか。左脳は否認や作話やそのほかの戦略を自由にとれるようになり、通常そのようにふるまう。左脳は言う。「私はドッズ夫人。正常な腕を二本持っていて、動くように指令した」。通常はこれに矛盾した視覚フィードバックが、腕は麻痺しているし車椅子に座っていると告げるのだが、彼女の脳はそれに反応しない。そこでドッズ夫人は妄想の袋小路につかまってしまう。矛盾を検出する機構を持っている右脳が正常に働かないので、現実のモデルを修正することができないのだ。

私は、右脳・左脳にあまりこだわらなくてもよいと思う。脳が情報処理を行う際の「システム全体の一貫性と安定性」「システムの改変」という視点が重要だ。

記事が長くなりすぎるので、今回はここまでとしよう。「見たくない現実を無視する」のは、病気であるか? には言及できなかったので、次回にしよう。